弥生の四 / あれから10年

●3月某日: 息子がEテレのアニメ「はなかっぱくん」が花を出す音頭(?)のバックトラックを唐突に歌いだす朝。「え、そんなトラックだった?」と驚いたけど、確かめてみるとかなり合ってて爆笑するやら感心するやら。

原稿がんばって提出。もうちょっと時間あれば、もっとブラッシュアップできたんだろうけど、これも実力‥‥。ともかく解放感でちょっと飲む。「Run! BTS」の最新回(プールサイドで水浸し)を見つつ‥‥。

息子に「もうすぐ4年生も終わりだね」と言うと、「5年も今のクラスだったらいいのに」と。きゅん。夜ごはんはカレーライス!


●3月某日: あれから10年。自分のTwitter確認したら、2011年3月11日以降、1か月くらいほとんどつぶやいてない。できなかったんだよね。九州にいても。

RTとかで時々TwitterのTLに流れてくるarmyさん(=BTSのファンをarmyといいます)のアカウント。今日のつぶやきで、彼女の夫さんが津波で亡くなったことを初めて知った。思い出すのがつらい人やフラッシュバックが起きる人もまだたくさんいると思う。だからこそ、被災していない私のような人間がいろんなことを知って、覚えていなくちゃいけない。

最低、週に一度は新聞を紙で買って最初から最後までめくることにしているんだけど、そうすると311前後だけでなく震災や原発事故に関連する記事は今でもよく載っている。それはそれは、いろんな視点からの記事がある。

死別や避難や失業、病気になったり…人の数だけ様々な体験がある。時々だけど継続的に、新聞を中心としたメディアの記事で読んできた。原発や訴訟に関してなど、中には「この書き方はおかしい」「弱い」という記事もあるだろうけど、それを具体的に指摘するためにも読む必要があると思う。

経験していないから、当事者じゃないから理解できない。生半可なことは語れないと思う。
でも、だからって黙っていたり、知ろうともしなかったりすると、当事者だけにすべての負担を負わせることになる。
想像するため、伝えていくために、非当事者が知ることが大事だし、語らなきゃいけないこともある。

いまいちうまく言えないのだが、「当事者じゃないから」「経験してないから」を、知ろうとしない免罪符にはできないと思ってる。もちろん、世の中で起きてるすべてを知るなんてできっこないのだけど。ゼロか1かの問題じゃないのだ。

もちろん、当事者の前で無神経に語れるわけないし、「非当事者に語ってほしくない」という当事者もいるでしょう。個々の思いは当然尊重されるべきです。

でも、だからって、何も知らない(知ろうとしない)・語らない・我関せず‥‥な人ばっかりになったらダメだよねって話です。

あのとき0歳で、まだ立ち上がりもしていなかった息子は、今日学校で黙とうしたらしい。