『半分、青い』 ユーコの死・悲しいことをちゃんと悲しむ
私は『半分、青い』に半年どっぷり入れ込んでるので、ヒロインの親友ユーコが震災の津波で亡くなるシークエンスには号泣してしまいました。
朝ドラって、「キャー♡ 朝からこんなの見せられて、仕事なんてできるかぃ♡」
と七転八倒萌えの日もあれば、「こんなの見せられて、仕事なんてできない。今日は忌引き(泣)」という日もあります。それは、山あり谷ありのリアルな人生に似ています。
震災しかも死を描くことに賛否あるけど、私はこのドラマの最終盤のこの展開には納得。ずっと不条理が根底にあるドラマで、不条理の最たるものは死だから。その死が、1万8千件もあり、いまだ行方不明の方が2千人以上もいる。「朝からこんな悲しい話見たくない」というのもわかるけど、じゃあいつ、あの震災の痛みに思いを馳せる?とも思うんですよね。
『あまちゃん』(2013年)では、岩手の登場人物たちも、誰も死ななかった。そのころはまだ、日本中に震災の記憶が重くみちていたからだと思う。フィクションの死すら私たちには耐えがたかったからだと思います。
でも2018年の今は? シリアスな被災者でない私たちにとって、震災はどうしても日々に埋もれてゆく。自分が当時何を考えていたか、個々の被災者にどんな痛みをもたらしたかの記憶は薄れていく。皆がそんなふうに忘れてしまっていいんだろうか? 被災した人やご遺族は苦しみ続けているだろうに。
震災の語り継ぎは数と多様性が必要だと思います。
報道やドキュメンタリーなどは今もあるけど「震災の番組です」という看板を見て、「よし見よう」と腰を据える人がどれだけいるでしょうか?
そうじゃない多くの人(シリアスな被災者でない人)が、ドラマに出てきた震災を見て、あの頃の空気を知ったり思い出したり、登場人物の死を悲しんでいる。そのことに、すごく意味があると思うのです。
この数日、Twitterの#半分青い タグには、「7年前、東京にいた自分はこうだった」「東北の自分の親は・友人は」「物流」「自粛の空気が」等の回顧や、震災に限らずとても近しい人を亡くした経験談を語る声がたくさんありました(何度も言いますが、私はヒマ人なのでSNSは何でもやってますw)。
そして今日のラスト、ヒロイン鈴愛と一緒に泣きながら、鈴愛がたくさん泣けてよかったとも思ったし、変な話、「泣いてくれてありがとう、鈴愛」とも思う私がいました。死んだユーコのためにも、テレビのこっちで泣いてる私のためにも。
うまくいえないけど悲しむべきことをちゃんと悲しむって大事なんじゃないかと思うのです。悲しすぎて泣けないとか、ある程度感情に蓋しないと生きてられないこともあるけど、人間はやっぱり怒りや悲しみも含めて、気持ちを出したり自分で認識していかなければ、人間性から離れていくというか・・・。
たとえば震災の後、「がんばろう日本」とか「前を向こう」「絆を大切に」という言葉があふれました。前を向くことは大事だけど、ややもすれば社会はそれを全体に「そうあるべし」と要求し、私たちも内面化してしまう。がんばらなければならない。前を向かなければならない。それはやがて、「いつまでも被害者づらするべきではない」などという空気につながったりもします。
人の心はそれぞれ。できるだけ尊重できるほうがいい。頑張れる人が自粛するのは不自然だけど、泣きたい人は泣ければいい、母親だろうが仕事があろうが。悲しみに浸るのがつらい時期は動ける仕事があったらいい。人のいろんな感情を一律に「こうすべき」と理性で縛る社会はきつい。
震災以外にもいろんな不条理があって、多かれ少なかれ、みんなそれに耐えながら生きています。
そのことをなるべく思わない。蓋をする。まして、他人の痛みや、遠い被災者や難民、過去の戦争の犠牲なんかに思いを馳せるなんてことは、効率や合理性を考えれば愚の骨頂かもしれません。
でも、みんながそうなってしまえば、社会はどんなに寒々しく、淋しいでしょう。
私は自分の、人の感情を大事にしたい。だから物語やアートを推したいんだなと思っている、『半分、青い』のロスに半分なりかけている9月の終わりです。長っ!