『三四郎』 夏目漱石

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ふと、本棚から引っぱり出して読んでみたら、めちゃめちゃ面白かった。
たぶん、大学生か社会人になったばかりのころに買って読んだのだと思う。
もちろん、あらすじはだいたい覚えていた。
でも、受ける印象がまるで違う。

熊本の高校を出て東京の大学生になった三四郎くん。
朋輩や先輩、先生、そして女の子たちなど、いろんな人に出会う。
美祢子の狡さや、ヒロインぶりっこも、
そんな美祢子に無垢な三四郎が惚れてしまって、ふられるのも、
広田先生方面のエピソードも、
若かった私にはすべて気に食わなかった。
モヤモヤする、溜飲の下がらない展開や帰着ばかりだった。

でも今読み返すと、すべて「そうだろうなあ」と思う。
「そうだよなあ、そうするよねえ、それで、そうなるよねえ、うんうん。わかるよ。がんばだよ! 落ち込まないで」
って感じ。納得の嵐なのだ。

ふられたり、貞淑な奥様の地位に収まったり、世に出る機会を逃したり。
そんな彼らは、現実に負けたのかもしれない。
上京する汽車の中で広田先生と出会い、いくばくかの会話を果たすくだりは、私がこの小説で一番好きなシーンであり、今後もずっとずっと忘れないシーンだと思う。

車窓からもうすぐ見える富士山について、広田先生は「あれが日本一の名物で、あれほりほかに自慢するものは何もない。でも富士山は天然自然に昔からあったもので、我々が拵えたものじゃない」と言う。
三四郎が「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護すると、「亡びるね」とすました顔。(熊本でこんなこと言えば、すぐ殴られるぞ!)と三四郎は思う。すると先生はこういうのです。以下引用
 
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より…」と一寸(ちょっと)切って、
「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言う。
「囚われちゃ駄目だ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」
この言葉を聞いたとき、三四郎は真実に熊本を出たような心持がした。同時に熊本にいたときの自分は非常に卑怯であったと悟った。
その晩三四郎は東京に着いた。髭の男は別れるときまで名前を明かさなかった。三四郎は東京へ着きさえすれば、このくらいの男は到るところに居るものと信じて、別に姓名を尋ねようともしなかった。

 

日露戦争に勝って「一等国」になりつつある、いや既になったのだと浮かれたり矜持を強くしたりする人間が多い中で、先生は飄々としている。一見シニカルなようで、実はもっとも理想家なのは先生だ。そして三四郎は先生の言葉に、打たれるような衝撃を覚える。

上り坂の日本という国と地方から上京してきた三四郎が重ねられるとするならば、三四郎の失恋は一等国としての発展の挫折を示唆するものかもしれない。でも広田先生は、物語の序盤でそれを鮮やかに看破してしまっている。そして、先生はそのことをまったく悲観していない。日本よりも広い世界があるのは当たり前のことで、その最たるものは頭の中。頭の中を広くすることが肝要で、それは無限のはずなのだ。

先生の話を聞いて、「自分は卑怯だった」とまで思う三四郎くんのなんと純粋なこと。そして、やがて大学生活を始め、美しい美祢子に出会い新しい知人友人を得た三四郎くんが頭に描く「三つの世界(故郷や高校時代までの過去の世界・東京の猥雑で貧しく歴史ある大学生活・美しい女性を戴く美しい春のような世界)」の、なんと若くてかわいらしいことよ。

彼はまだ若いのだ。彼が恋した女の子や、知人友人たちもみんな若い。青くて当然なのだ。小説が終わりを迎えた後も、彼らの人生はまだまだ続く。美祢子がイブセンにならないともいえない。いや、特段、そういうことをにおわす終わり方じゃなかったけど、不惑が近くなった私はそう思うよ。だから、若いうちの失恋も、挫折も、一時の諦観も、無駄にはならない。糧になるだけだ。それがわかる年になってるから、決してつまらない結末とは思えなかった。

登場人物たちが個性的で、しかもそれぞれに好もしい。
美祢子は厄介なヒロインだけど傾城の美女でも妖婦でもなく、まさしく「迷える子羊」。彼女のことを、若い頃の私は「いかにも類型的」だと思ってたけど、今読んだら全然そうじゃないってわかる。美祢子の一人称でも、この小説は存在しうるのだ。他の登場人物たちもみんなそう。

与次郎が傑作! 先生に頼まれたお使いのお金(しかもそれは先生から野々宮さんへの返済金)を馬券につぎ込んでなくしちゃって、困った顔して三四郎に借りに来て、ちっとも返さない。やっと返すかと思ったら、また他の人間に借りてきたと言う。しかもそれが三四郎の片恋の相手・美祢子で、「話はつけてきたから、君が取りに行かなくちゃ」なんて平然と言う。あげくに、「いつまでも借りておいてやれ」なんてのんき。万事この調子で、憎めない。

実直な野々宮さんも、磊落な原口さんもいい。若いころには凡庸としか思えなかっただろう(というか記憶にすらなかった)よし子も、とってもかわいらしい。どうやらそれぞれの登場人物は、実際に周囲の人物がモデルになっているらしいけど、漱石という人はとてもフラットで、個を尊重する目線を持っていたのだなあと感心する。

そして、いま読むとひときわ印象的なのは、人々が日々の細々とした雑事を引き受け合いながら暮らしている姿だ。家探しや引っ越しの作業を手伝ったりするのは今の友人同士でもすることはあるけど、たとえば急に家族の病院に詰めなければならなくなったから、ひと晩宿直をしてほしいと友人にその場で頼んだり、後輩の実家のお母さんから、「お金を送るので、本人に事情を質してOKと判断したら渡してほしい」と頼まれたり、風邪をこじらせれば見舞いに行ったり。

交通や通信、生活インフラが発達した現代では必要なくなった雑事もたくさんあり、それは社会の進歩なんだろう。煩瑣な雑事が多々存在することで、生産性が低下したり、人間関係の問題につながることもあっただろう。でも、その煩瑣さは、なんだかとても人間くさくて、悪くない営みのように、読んでいて思えたのだった。

 

三四郎 (新潮文庫)

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