『足尾から来た女』 後編

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ちょ、とるものもとりあえず書きたいことは、ユッキーヤ@石川三四郎の「爪切りからレイプ未遂」シーン!! 

やばいね・・・あれはやばい・・・(鼻血)。

私、いろんなドラマ・いろんな役者・いろんなキャラに節操なくキャッキャ言ってるように見えるかもしれないけど(言ってますよねw)、実は、録画をリピートとかまですることって、そんなにないんですよ。時間もないし。初見では、ドラマの流れを殺したくないんで、なるべく止めずに最初から最後まで続けて見るようにしてるし。

しかし! ユッキーヤ@石川三四郎の「爪切りからレイプ未遂」(打ってるだけで盛り上がってくるので2回目打った)は、思わずそのシーン終わったとき一時停止して巻戻してもう1回見たね。即座に。ドラマの流れぶったぎって。指が勝手に動いてたの。今回、三四郎の登場シーンはごくわずかで寂しかったんだけれども、ここに凄まじい破壊力があったので、文句のつけようがございません。

だらしなく着た浴衣で膝を立てたらそりゃ太ももも裏側までバッチリ露わになるってもんで、かっこいい役者さんがやれば、垂涎のシーンになるのは当然なんだけども! ユッキーヤは美貌を誇る役者でもなければ、石川三四郎はこのドラマにおいてほとんどだめんずとしてしか描かれていない。なのになんだろう、この、目で味わう倒錯した快楽は…。ちょっとしばらくじっくり考えたいわ…脳内で激しくリピしつつ・・・。

と、いうことで、それ以外の部分について・・・・・っていうかこっちが本題なはずなんだが。

後編は、ぐっとサチにレンズが寄って、社会派ドラマというよりも「或る女の前半生」といったおもむきだった。そういうドラマだったんだろうと思う。すごく良かった。見終わったあと、この感じどこかであったな、そうそう、田辺聖子の短編をアレンジした映画「ジョゼと虎と魚たち」だ、と思った。恵まれない境遇で小さな場所に生きていた若い女主人公が、人と出会い、恋をして、それを失うんだけれども、代わりに強さと潔さをまとって自分の足で世界を踏みしめ歩くようになる。という点で両者は似ている。

本作の主人公サチが辿る、寂しく、心もとなく、絶望の涙にくれる道。甘美な思いを知ったあとにそれが砕け散るショック。その道のりのすべてに引き込まれ、エンドロールでは、言葉にならないような深い感慨に包まれた。

初めて恋をしたサチは、前編とは打って変わってさまざまな表情を見せるようになる。憧憬や、昂揚や、失望、怒り。30代の尾野真千子が見せるみずみずしい演技に目を奪われる。この人には、ついつい大量のセリフをまくしたてるように言わせたくなるのもよくわかるが、言葉少なでも、表情やしぐさ、雰囲気で演じられる女優なんだなとあらためて思った。撮り方も本当に美しい。横顔や、うなじの感じや、足首など、見惚れるぐらいで、荒涼たる谷中村の風景と同じ作中とは思えないほど柔らかく繊細な雰囲気が印象に残る。

しかし物語のクライマックスはやはり、恋の一部始終よりはサチの直訴で、血を吐くような思いをまっすぐにぶつけるサチに対峙してまったく堪えない原敬の反応には視聴者も大きく脱力させられる。簡単には咀嚼しきれない、見る側に委ねたクライマックスだった。

田中正造にもらった谷中村の美しい石をサチが投げる。ぶつけられた原敬は小さく笑って、無言のうちに車に乗り込み去ってしまう。その意味を、ドラマが終わってからもしばらく考えていた。直後には、その瞬間のサチの気持ちとシンクロしたように失望と徒労感に襲われるのだけれど、あとになると、あの場面はサチの成長が結実したシーンだったと思う。語彙や言い回しは、拙い素人のものでも、それだけにまっすぐで、言い終わるまで少しも怯むことがなかった。谷中村にいたころのサチにはきっとできなかったことだ。思いはあっても、あんなふうにしっかりと言葉にできなかったはずだ。

すべて聞き届けながら反応しない政治家に、思いあまったサチは石を投げる。ぶつけられた原敬はなぜ笑ったのか。こんなことで怒ったりしない、という微笑み。それは大物政治家の狡さか、余裕か、はたまた「甘んじて怒りを受け止める」とのサインか。明らかにしない脚本演出は本当に大人だ。

不当な目に遭い続けてきた弱い者が、言葉を挙げても届かなければ、石を投げでもするしかないではないか。サチは実際に投げた。それでも無視されたことで、悟った。その虚しさを。「石を投げてもひとり」だ・・・って啄木じゃなく放哉だけど。暴力はより大きな力に吸い込まれていくだけだ。サチはもう石ももたずに、新たな、自分の道を歩み始める。それは谷中村や英子たち、そして田中正造とすら決別した道のように見える。

けれどきっと、それまでの出会いや経験すべてが彼女を原敬という大いなる存在に立ち向かわせる力になり、あの対峙があったからこそ、彼女は歩き始めることができたんだと思う。失うたびに強くなり、違うものを得る姿が描かれたのだと思う。

密偵の件を少しも責められなくても、英子のもとに戻らなかったのは、直訴するサチを遠巻きに見るだけで何の助けもせず“当事者”にならなかった英子を見切ったから・・・ではないような気がしている。行政によって家を壊された谷中村に美しい洋装で現れた英子との温度差、サチの手を包んで言う「仲間」という言葉の違和感を、視聴者と同じく、確かにサチも感じたとは思う。ただ、後編では同時に、英子が暮らしのために所持品を質に出し、自ら呉服を売りに出向く姿も描かれている。その売り先がよりによって与謝野晶子って無理ゲーすぎだろ、と思うんだが(笑)まあ啄木とサチの再会のための場面でもあるからねww

「英子さんがいつもより小さく見えた」というサチのモノローグ。英子は美しい女神ではなく、子どもたちと老母を抱えるひとりの生活者であり、年下の恋人の言動にやきもきする女でもある。サチはもうそのことに気づいている。言葉を知って、言葉を使えるようになったけれど、それは同時に「共感」の難しさを知ることでもある。社会への理想を掲げ、谷中村に同情してくれる英子とも、「波来てわれの靴跡を消せり」と詠む啄木との間にも、通じる部分があっても、隔絶した部分のほうがずっと大きい。

それらすべてを知ったサチは、英子や啄木への恨み言を口にすることはなく、ただ歩いていく。目指す病院は「とりあえずの目的地」であって、道ははるか遠くまで続いている。淋しくて、心もとない道を無心に歩く。彼女は病院で、また楳子に文字を習うだろう。作品の序盤で「本を読めば世界のことがわかるようになる」と言った英子が甚だ不完全な人間である様子を見れば、勉強することで、簡単に世界が変わることなどないのは明らかだ。それでも人は学ぶ。歩くことも出会うこともやめない。それだけがかすかな希望だ。

田中正造が最後にサチを諭すセリフが、言葉づらは非常に「お説教」なんだけど、あまり説教くさく響かないのが、150分のドラマの積み上げのたまものだと思った。彼がサチを縛りつけず、最後に背を押すのも、悲劇の村に根を下ろしながら暗さを帯びず、どこかからりとした風合いの人物造形にしたのも良かった。人に寄り添う政治家である田中正造と、はるか高みから近代国家を導く政治家である原敬との対比も良かったし、正造と楳子という作中ふたりの老人が、その大きさで若い人々を包む存在であるのも良かった。

あ、書きそびれてきたけど啄木もよかったです。渡辺大をキャスティングしたことで、手垢のついていない純粋な「ろくでなし感」が出たと思う。見終わるまで誰かわかんなかったんだけど、いわれてみれば、目の動かし方が父親によく似てた。なるほど、こういう役が似合うのね、と思いましたです。