『足尾から来た女』 前編

75分間、画面に食い入る。唸るような出来だった。池端俊策、まだまだ健在。って、あれ?まだ67歳なのか。なんか勝手に緒形拳と同世代だと思ってた。

足尾銅山から出る鉱毒に侵された谷中村。彩度の低い画面の中、そこらじゅうに堆積された青い毒の土が禍々しく目を引く。腹を見せ口を開いて死んでいる魚。畑から出るのは牛蒡くらいの直径しかなさそうなサツマイモで、それすら「母ちゃんみたいに死にたいなら食べろや」。顔を覆う白鬚で貧しげな村人たちを従え、闘士然と歩く老翁・田中正造。主人公のサチは女性活動家・福田英子の家政婦として上京するが、その列車の中で、官憲に「福田英子は社会主義者」と教えられ、スパイ行為を命じられる。うーむ。一片の救いもないような重苦しさ。

当の福田英子が登場する場面から一気に面白くなる。女性や労働者の参政権を訴え、多くの活動家を家に集わせ、彼らに一目置かれる女傑。文盲のサチに「世界のことがよくわかる」と字を教えようとする。 けれど既に最初の場面で既に、彼女が「岡山藩士の血」に執着し、「皆平等」との矛盾を幼い息子に突かれるという“お粗末さ”を描いている。

石川三四郎は同じく活動に身を投じ、集会では大勢の聴衆に向かって口角泡を飛ばして熱弁をふるうが、英子の若いツバメでもあり、それでいて女に対しては根なし草のようにフラフラしたところがあるようで、ふとした隙にサチを口説きにかかる。大した思いも無さそうなのに田舎娘の唇をいきなり奪おうとする不埒さは、「これ以上、私を苦しめないで!」と英子が激昂したところを見ると、これまでにもほうぼうで発揮されてきたのだろう。男がサチの口の中に漬物を押し込んだ仕草が、直後、英子が男の口中に(しかも傲然と「口を開けなさい」と命じてから)豆を放り込む仕草に収斂されて、なんとも淫靡だった。社会主義者を、犠牲者でも狂信の徒でもなく、人間くさく描いたのが魅力的。

鈴木保奈美はすごいハマり役。意思の強さにも行動力にも富んだ知的な“美魔女”でありながら、女の業も感じさせる。「あさイチ」の出演で「オーディションでこの世界に入ってきちんと演技の勉強をしたことがないので、(北村有起哉のような)舞台俳優に対しては憧れも劣等感も強い」と語っていたが、そのように相半ばする曰く言い難い感情は、今回のような役の表現にもつながるのかなと思う。どこか浮世離れした美しさには「何かしらの欠落」を感じさせるものがあり、「リーガルハイ」のゲスト(一妻多夫で人生を楽しむ女性高級官僚役)でも、カラッとしながらどこかにその「欠落」の影があったので良かったのだと思う。「江」の市のように「誇り高く一本道を行く」で女性の共感や憧れを集めるような役は、逆効果だったとあらためて思った。

そして石川三四郎北村有起哉。おお、ユッキーヤ・・・! あなたは何でそんなにエロいの?! 間もなく不惑を迎えようとしていながら、その青臭さ。ユッキーヤのダメ男エロスはかなり私のツボである。勇ましいアジテーションの数々から一転、一歩家に入れば女にだらしなく、けれど女神・英子には結局従順。官憲の摘発から命からがらのように脱走して潜伏し、「殴られるのが怖い、あんな奴らに指一本でも触れられるなんて耐えられない」と情けなく震えながら、彼を救うため八方手を尽くした英子に「どうしようもない」と宣告されると、一転、鷹揚に笑って縄につく覚悟を見せる。それでいて、玄関を出る前には子が母の胸に抱かれるように縋り付いて…。なんと襞のある男女の描き方なんでしょうね。

社会への憂慮があり崇高な理想があり、けれど一方で、見栄や、男女の情によって・・・もっといえば「色」によって、その絆は強化されたりしていたんだなと。それが見ていて「くだらない」「愚かしい」と映らないのが良かった。人間が生きるってそういうことで、世界はひとつの正義や価値観で割り切れることは決してない。

尾野真千子の土臭さい演技は流石。家事をする手が赤切れだらけなのが目を引く。サチは苛酷な運命に流されているようで、しっかり地に足をつけているようにも見える。日露戦争について、サチと「字」のエピソードを創り、足尾銅山から採れる銅が日本を戦争に勝たせ、列強からとりあえず国を守ったことをサチの兄に言及させたのは、それだけで「八重の桜」の後半と天地ほど差のある深み。まあスペシャルドラマと一年間の長丁場とを比較するのはアンフェアなとこあるけども。後編の展開がまったく予想つかない! ユッキーヤのエロスだけじゃなくて、田中正造の着地点もちゃんと(?)気にしてますのよオホホ。