『戦国乱世から太平の世へ』 藤井譲治 ~秀吉周辺について

(2月ごろ書いたの、まだアップしてないのを発見した。)

戦国乱世から太平の世へ〈シリーズ 日本近世史 1〉 (岩波新書)

戦国乱世から太平の世へ〈シリーズ 日本近世史 1〉 (岩波新書)

 

 

1582年6月1日 本能寺の変
同年 6月3日 備中高松で変を知り、その夜のうちに毛利方と講和を成立
同年 6月13日 山崎にて明智光秀を破る
同年  6月24,5日ごろ 清州会議。信忠の遺児、三法師に家督が決定
同年  7月11日 上洛、公家たちが相次いで訪問し信長の後継者のように扱う
同年  10月15日 京都大徳寺で信長の葬儀を挙行

1583年 4月、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破る。翌月、北庄城落城
1584年 小牧・長久手の戦いののち家康らと和睦
1585年 関白任官。長曾我部元親降伏。
1586年 上杉景勝、徳川家康、秀吉に出仕。太政大臣任官、豊臣改姓勅許。
1587年 島津義久降伏。北野大茶会。
1588年 聚楽第行幸
1590年 北条氏直降伏
1591年 御土居築造
1592年 朝鮮出兵(文禄の役)
1593年 講和交渉、秀頼誕生
1595年 秀次事件
1597年 朝鮮出兵(慶長の役)
1598年 醍醐の花見。没


信長の年表を見た後に秀吉(本能寺の変のあと)のを見ると、そのスピードに驚きますね。

『戦国乱世から太平の世へ』 藤井譲治 ~信長周辺について - moonshine


本能寺の変後の手際の良さは、こりゃ幾多の小説やなんかが秀吉黒幕説を唱えたくなるのもわかるよな、と(笑)。清州会議は6月中に行われたのですねえ。そして北ノ庄落城も本能寺の変から一年足らずのことだったのか。

本能寺の変からわずか3年で関白。すごいスピードだと思う。

群雄割拠の戦国乱世が信長の死までにかなり変化を迎えていたということ。そして秀吉がその流れに奇跡的にうまく乗ったということ。英雄はいつも時代を味方にする。信長門下で頭角を現し並みいるライバルたちを蹴散らしあるいは味方につけた秀吉はたぐいまれなる才の持ち主だったのだろう。

本能寺の変から5年で九州平定。8年で全国が秀吉に下り、10年後には朝鮮出兵である。朝鮮出兵は「仮途入明」、つまり「唐入りの前段階」だったんだから遠大な計画である。しかも当時、(倭寇など)海域で生活していたわけではない、日本の武将は、朝鮮半島までの距離感を把握しておらず、「100日・200日とかかると思っていたら、わずか5日で着いたので驚いた」「あまりに近い」のような日記や書簡がいろいろ残っているらしい。よかったね、逆じゃなくて(泣)。

その程度の認識で、朝鮮半島を通り道に明まで行こうとしていた秀吉のすごさというかなんというか! 「9月の節句は北京で迎えるつもり」と北政所に手紙を送ったり、「明を征服したのちには、後陽成天皇を北京に行幸形式で移住(?)させること、日本の帝位は良仁親王か智仁親王、朝鮮支配は誰それで京都留守居は誰それで・・・」と関白秀次宛に「三国国割計画」を送ったりしているのだから、それなりに本気なんである。太閤検地もこの朝鮮での兵站問題のためにことさらしっかり行われたふしがある。

まぁ後世の人間から見たら正気の沙汰でないように見える朝鮮出兵だけど、これで15万からの兵を渡海させる力を秀吉が持っていたのは確か。教科書や大河ドラマなんかでは詳しく描かれることのない、撤兵までの道のり・・・講和交渉のあれこれなんか、読んでいるだけで大変そうだった。小西行長タンおつかれさまです・・・。加藤清正も。大明国と秀吉、互いにメンツを保てるように使節の意味を自分たちのいいように読み替えたり。和平条件は何度か変転したり。明からの正使が釜山で逃亡して、急きょ副使を正使に仕立てたり。

二度目の出兵、「慶長の役」は、秀吉が朝鮮の「礼」なきことを責めたためであり、もはや「唐入り」ではなく、朝鮮南部、特に全羅道の制圧が目的になった、とある。その際に日本軍が浅ましく残虐な行為を繰り広げた、とも。

天下人までの道のりも、朝鮮出兵や跡継ぎ問題も、それらが絡み合って、自身の死後あっという間に一族が滅びてしまうのも、秀吉の人生って本当に、歴史上の人物の中でも桁外れにドラマチックだとあらためて思う。

高度経済成長の時期、秀吉の立身出世は日本人にもっとも好まれるストーリーのひとつだった。その後は、後半生を狂気じみたもの、愚かなものとしてことさら強調して描くドラマが多いように思う。最近の大河ドラマの秀吉はいつもその路線。

秀吉について「大陸的」という評価をこれまであちこちで見たことがあったけど、今私もようやくそう思っている! 今、これまでとは違う秀吉像が見たいなあ。『真田丸』が秀吉をどう描くか楽しみだ。