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『戦国乱世から太平の世へ』 藤井譲治 ~信長周辺について

歴史

 

戦国乱世から太平の世へ〈シリーズ 日本近世史 1〉 (岩波新書)

戦国乱世から太平の世へ〈シリーズ 日本近世史 1〉 (岩波新書)

 

 

1534 誕生
1551 17才 父 信秀が死去、家督を継ぐ
1559 25才 初めての上洛。将軍 足利義輝に謁見。尾張統一
1560   26才 桶狭間にて今川義元を破り首級をあげる
1567 33才 斉藤竜興を破り、斉藤氏の城下 井ノ口を岐阜とあらためる
1568 34才 足利義昭を奉じて入京。義昭に将軍宣下
1570 36才 越前攻め失敗
1571 37才 伊勢長嶋の一向一揆を攻めるが反撃にあい撤退。延暦寺焼き討ち
1572 38才 松永久秀・三好義継が叛旗
1573 39才 武田信玄没。室町幕府滅亡。朝倉・浅井氏滅亡
1574 40才 越前の一向一揆が織田三人衆を追い出す。勅許を得て蘭奢待を切り取る。石山本願寺が挙兵。
1575 41才 長篠の戦い。越前の一向一揆を殲滅。
1576 42才 安土築城着手。安土城下振興策「13か条の定め」
1579 45才 安土城天主完成
1580 46才 石山本願寺と和睦。顕如は寺を退去
1581 47才 禁裏馬場で馬揃え
1582 48才 武田氏滅亡。本能寺の変


ドラマなどでは、26歳で「海道一の弓取り」といわれた大大名、今川義元を討ち取りセンセーショナルな勝利をおさめたことで、一気に天下統一に近づいたような、その第一人者になったような描写をされがちだったりするんですけども、こうして見ると、それからもあとも、信長の戦いはまだまだまだまだ続いたわけですね。

桶狭間のあと、美濃を手に入れるのに7年かかっているわけです。延暦寺を焼き討ちしたり、足利義昭を追い出したり、朝倉・浅井を滅ぼしたり、長篠の戦いで武田をコテンパンに叩いたりするのは、基本的にどれも「まだまだ敵だらけ。安心できない」状況下で行われていて、王者(魔王)ゆえの所業ではない。

思えば17才(満年齢ね)で家督を継いでから、尾張一国を統一するまでにも8年を要している。統一できるかどうか…というか、そもそも明日はどうなるかわからない状態で、10代のころから延々と戦いの日々が続くわけで、戦国大名というのは本当に苛烈な人生だったのだなとあらためて思わされます。

また、信長って、「天下人」一歩手前まで来た英雄でありながら、手痛い負けを何度も喫しているし、事態は膠着して動かず…みたいな停滞期も過ごしているのですよね(なんかシャレみたいになったがw)。あっちが停滞してる間に、こっちで別の敵が立ち上がる、とか。それでも進み続けていったというか、イケイケドンドンでもあったのが、やっぱり英雄の英雄たるゆえんなのかな。安土を築城し始めるころには、かなり目途がついてたってことかな。室町幕府が滅亡したあと、元号が「天正」に変わる。これは信長の奏上によるもので、『京都の支配者が将軍義昭から信長に代わったことを示すもの』だという。

このころ信長は毛利輝元に「いわんや天下棄て置かるうえは、信長上洛せしめ取り静め候」と申し送っている。信長の「天下」支配宣言。注意すべきは、この本によれば、この時期の『天下』とは京都、または京都を中心とした畿内をさす言葉で、私たちが連想する「日本全土」の意味ではないらしい。信長が稲葉山を岐阜とあらためたころに「天下布武」の印章を使い始めたのは有名だが、この「天下」も「京・畿内」のことである、と。


もうひとつ、本書で面白いのは、朝廷との関係。義昭とは将軍就任の翌年から早速険悪になり始める信長であるが(笑)、義昭には「○か条の定め」のような警告を幾度もつきつけて一方的にコントロールしようとした一方、朝廷とはつかず離れずの距離を保っていた。

正親町天皇が信長に綸旨と女房奉書を送り「古今無双之名将」と褒めちぎったのは1567年、美濃攻略直後。

1568年には信長からの銭300貫の進上で、天皇は懸案だった誠仁親王の元服を行う。

1569年、天皇は信長に「副将軍」任官を持ちかけるが、信長は事実上無視。ただし禁裏修造は行う。

1570年、天皇は信長が求める久我通俊(勅勘を受けていた)の赦免を拒否。信長は、天皇が求める某所の所領回復を無視。天皇は信長の戦勝を願って石清水八幡宮で法楽を執行。

1571年、天皇は浅井・朝倉と信長との戦いに際し、綸旨を出して和睦成立に関与

1572年、義昭と信長の和睦にも関与(勅命を出す)。

1574年、天皇は、信長の蘭奢待の切り取りを不快に思いながらも是認。そのかわり、朝儀を再興するよう求める。

1575年、天皇は信長を権大納言・右近衛大将に任官。1576年には内大臣に昇進させ、信長は御礼として銀100枚を身上。さらにその翌1577年には右大臣に昇進させる。信長は元日の小朝拝と節会を再興。しかしこの年、信長は突然、右大臣・右大将を辞任。信忠にその位を譲りたいと申し出るが、天皇は無視。(以下続く・・・・

ということで、なかなか激しい、温度の低そうなバチバチ関係である。

天皇は決して受け身ではなく、高位高官を与えたり、戦勝祈願したり和睦関与したりと、信長を取り込むためにあれこれ一生懸命なのであるが、信長は取り込まれないよう慎重に回避。ただし、禁裏の普請や親王の元服費用などの財政援助、贈り物の数々など、できることでは応えてもいる。本書で指摘されているのは、のちに天下人となった秀吉・家康が正式な参内をたびたび行っているのに対し、信長は朝廷に接近した時期でも、一度も正式参内していない。しない理由を天皇のほうに求めるのは難しく、であれば信長にあるのだろう、と。参内という場では天皇上位が目に見える形となることを嫌ったのではないか?と。

思うのは、いってみれば尾張の田舎侍だった信長が、こういうヒリヒリした高度な交渉能力をどうやって身につけたのかということである。もちろん優秀な将もたくさんいただろうが信長の場合、家臣が支えたというよりは信長が家臣を顎先で使ったというイメージなので。実際はどうだったのか? なんにしても、こういうの見ると、日本人に(民族的なDNAとして)外交能力が弱いってこたぁないな、と思う。いや、戦国乱世でこそこういう人材が傑出してくるのか。