「東北発☆未来塾」 映像のチカラ 〜是枝裕和

昨年春に放送されたシリーズをやっと見た。福島の高校3年生の女子3人が、「震災から3年経った今の自分たち」について、それぞれ映像作品を作る。講師は映画監督・脚本家、是枝裕和。言うまでもないが「誰も知らない」であり「ゴーイングホーム」であり「そして父になる」の人ですね。

「ラスト、『それでも私たちは前を向いて歩いていく』のように、無理やりポジティブにまとめるのはいかがなものか? 
けれど、それをさせているのは我々映像界の大人だと反省した。
そういうものを君たちに見せてきたんだと」

(友だちに震災についてインタビューするのが怖い、という子に)
「取材には必ず、取材する人とされる人との関係性、距離感が出る。
けれど、取材者は、“怖い”と思うくらいの人がいいのではないか?
(=相手を傷つけるのではないか、自分も傷つくのではないかということに自覚的なほうが良いのではないか?という事だと思う)」

「『怒ってます』とモノローグで言わず、こぶしを振り上げる描写もないのに、怒りが伝わるっていうのが、本来はいちばん強い怒りの表現」


彼のアドバイスはさすがにいちいち的確なのだが、高校生であり被災者でもある彼女たちを前にしてもいつもとまったく変わらない彼のたたずまいにも目を引かれた。親しげな笑顔を浮かべるでも、リーダーシップをとるでも、大げさな相槌を打つでもなく、淡々とそこにいて寄り添う。そうやって、相手の心の核を見事に引き出してゆく。


携帯電話ひとつを持って逃げたという友だち。カメラを向けられて緊張し言葉少なだったが、是枝が「そのときの携帯電話を持っていますか」と水を向け、機種変更して今は使っていないそれに電源を入れると、ポツポツと思い出を語りだす。長い避難所生活。女子高生らしい服などあるはずもなくいつもジャージで、それどころか「宿題をしようと思ってもエンピツがない」状態だった。母親ともたくさんケンカした。

震災で親を亡くした友だち。「親なんかいなくなればいいのに」のような紋切り型のセリフを同級生から聞くとイラつく、と言う。「クソガキ(と思っちゃう)」と吐き捨てるように言い放つ。


出来上がった互いの映像作品を見た3人は、涙を流す。「かわいそうで泣いたわけじゃない」。彼女たちは、それまでも女子高生という立場から震災の体験を発信・表現する活動をしてきた。仮設住宅や、放射線量を測るメーターや、除染された土の袋詰めがそこここにある生活。それでも、津波で家を流された人、家族を亡くした人・・・体験はそれぞれで、そのすべてを理解できているわけじゃない。

実際、友だちに「わかっていないくせに」と言われたこともあるし、「わかってもいないのにこういうことをするべきじゃないのかな」と悩みながらやっていた部分もある。今、できた映像を見て、あらためて「何もわかっていなかった」と感じた。わかることはできない、と。

断絶なのだと感じた。被災した人とそうでない人との間の断絶ではない。彼女たち被災した人間の中にも無数の断絶がある。断絶を日常として生きている。同じ高校で、同じクラスで、友だち同士で、震災という大きな出来事がもたらしたそれぞれの断絶を抱えている。そのむごさを思った。

彼女たちの感想を聞いた是枝は、 「私はあなたではないし、あなたは私ではない。という考え方はドキュメンタリーの一番大事な考え方だ」 と応える。「自分とは違う感じ方、考え方を持つ人と、どう出会うか。それを見た人に、どういう気づきを与えるか。それがドキュメンタリーの一番大事な価値だと思う」。

是枝は断絶を見つめ続け表現する仕事を選んで(その結果優れた業績により名声も得て)いるわけだが、手に余る断絶を日常に抱え込んだ人々はどうすれば慰められ、救われていくのだろうか?と思ってしまう。生きていくことは多くの断絶、「自分とあなた/誰かとの違い」と向き合い続けることでもある。その困難を思い暗澹とするとき、是枝のような人がいるのはやはり救いだなと思えるのだった。静かで強いたたずまいと眼差しで、彼は断絶に寄り添い、見せ続けてくれる。