『日本の中世を歩く』 五味文彦

日本の中世を歩く―遺跡を訪ね、史料を読む (岩波新書)

日本の中世を歩く―遺跡を訪ね、史料を読む (岩波新書)

刺激的な読書になった。歴史が好きで、中世が好きで、多少の知識はあって、だけどきちんと学問として学んだことのない私のような人間にとって、すごく面白い本。日本史をやる学部生向けの教科書になるぐらいの、いわば入門書だと思うけど、実はスラスラ読めたわけではない。専門用語は極力少ないとはいえ、「鎮守」「縁起」「勧請」のような、なんとなく・・・で理解していたような(していなかったような)言葉が出てくるたびに注意したり、続出する人名や地名を頭の中で整理しながら読むと、新書1冊とは思えないぐらいに時間がかかった。でも、その歯ごたえがいい。そして、最後まで読み終わってからもう一度冒頭に戻って読んでみると、すんなりと頭に入ってくる(当たり前だけど)。ちょっと勉強した気分。

「遺跡を訪ね、史料を読む」というサブタイトル。歴史の舞台に立って、実際に見たうえで思い浮かんだ疑問を、一次史料を当たりながら探ってゆく。12章に渡って北から南までを網羅しているが、中世なので、熊野とか、厳島、鎌倉、博多など、源平・院政期の話題も多い。

熊野詣の道中の宿で、後白河院が供をしていた清盛に神夢の内容を相談し、清盛が答える場面とか(梁塵秘抄口伝集。蜜月じゃのう)。厳島御幸の際、後白河院が蒔絵の太刀2腰のみの奉納だったのに対し、建春門院滋子は弓矢や剣、経典、公家装束一揃い、それに鞍つきの馬まで奉納しているのは、「建春門院に相具して参る」との文章(梁塵秘抄口伝集)のとおり、院ではなく建春門院が主導(子の高倉天皇の加護を祈るもの)の御幸だったのだろうとか(滋子どんだけ強いん)。忠盛の代から宋との私貿易に大きな役割を果たしたという平家の代表的荘園、肥後神埼荘の年貢を集める倉は博多にあり、陸路でそこに集められたあと海路にて京に運ばれたのだろうとか。

そういう描写がことさら親しみやすく思われてニマニマする一方で、本書の虚心坦懐な問いにはハッとさせられる。今じゃ安芸の宮島といえば平家とインプットされているけれども、確かに安芸が知行国だったとはいえ、本拠たる京から遠く離れた厳島神社に、平家はなぜああも強い信仰を寄せたのか。鎌倉の鶴岡八幡宮石清水八幡宮からの勧請だが、由比ガ浜に向かって伸びるのはなぜ“若宮”大路なのか。

疑問が史料によって解き明かされていく様子を見るのはとても面白い。新書であり、各章も短いページ数なので詳細な掘り下げは望めないのだけれど、このようにして研究は為されているのだな、という手触りが感じられる。

室町時代、「日本で最も大きく有名な大学」と称された足利学校、そこでは孔子や子路、顔回などの肖像が掲げられ、儒学のみが教えられていたのに、学長には禅僧が招かれ、学生たちも入学の際、僧となることが求められた。これは、「学校が禅院のような形をとることで外部の権力から守られ、兵乱の巷にならないよう」考えられたものだろう、と推察される。現に小田原の北条氏や甲斐の武田氏が足利の地に侵入することがあっても、学校に対しては乱暴狼藉を禁止する触れを出していた。

また、鎌倉期、一遍上人尾張・美濃を念仏勧進している間、悪党(賊)が札を立てて「成人供養のこころざしには彼道場へ往詣の人々にわづらひをなすべからず」と保証を与えていたという。よって、「三年が間、海道をすすめ給に昼夜に白波(海賊)のをそれなく、首尾、緑林(山賊)の難なし」(一遍聖絵)と、一行は、当時出没していた悪党の難を受けることがなかった。

平泉の毛越寺は、「毛越」という地名からとられた寺名ではなく、毛越寺が先にありきでの地名だろう、と筆者は推察する。その由来は、「毛の国(上野・下野)」と「越の国(越後以下の北陸道の国々)」ではないか。なぜなら、この寺を構想した藤原基衡の時代、藤原氏の勢力が陸奥・出羽をでて、関東や北陸にまで及んでいた事実がある。このころ源氏の義朝は東海道に、平氏の忠盛は西国に勢力を広げていた。基衡はこれに対抗しつつ、東北を基盤にして勢力を広げていったのであり、それが毛越寺の命名になったのだろう、と。

史料をあたり、想像し仮説を立てて、また史料をあたる。それを繰り返すことで、当時の倫理や、信仰心や、秩序、機構、そして雄飛する夢…当時のさまざまな姿が生き生きと立ち上がってくる。「史料はやみくもに探して考察すればよいというわけではない。」「史料が持つ特性をよく知って分析を加え、利用することが必要である。」と注意を喚起し、その具体的な手法を随所で解説しながらも、ともかく「中世社会の魅力はなんといっても多彩で多様な資料の存在である。」「歌に始まり、文書や文章、日記や記録、文学作品、絵巻物…」と冒頭で述べている通り、その魅力は十分に伝わってくる。厳島や平泉、それに当地・博多についての章はもちろん、北海道や沖縄の中世史料に触れるに至っては、自分の前に未知の歴史が無限に広がるのを感じて興奮しきり。