『院政〜もうひとつの天皇制〜』 美川圭

院政―もうひとつの天皇制 (中公新書)

院政―もうひとつの天皇制 (中公新書)

摂関期以前から鎌倉後期までの院政の通史。新書なので基本的に淡々とした概説という感じ。筆者の説が示されたと思ったら根拠が「・・・ん?」てなもんで、もう少し踏み込んでくれよーと思ったり。でもまあ新書だから目的は立派に果たしているのであろう。系図が随所に示されているのは親切。

●摂関期。道長が2人の妻との間に多くの子女を持ち、四代にわたる天皇の中宮・女御を輩出したのに比べ、後継の頼通は娘をひとりしか持たず、しかもその子は入内したもののついに皇子を産まなかった。この歴史の妙! よって、天皇の外祖父として三代50年の長きにわたって摂関をつとめたはしたが、頼通の基盤は盤石ではなかった。むしろ、父の例外的多産が次代のわざわいになっていく。すなわち、頼通の兄弟の多さ。

●やはり白河〜後鳥羽あたりまでの院政最盛期に多くのページが割かれている。

●公卿の会議の種類について、やや詳細な解説あり。

陣定・・・太政官の首脳部による会議。左大臣以下の現任公卿が出席し、前官や非参議は参加できない。また、摂政・関白も出席しない。これは陣定が決定機関ではなく諮問機関なので、決定権者は出席しないということ。

御前定・・・天皇の御座所である昼御座で行われる。
殿上定・・・清涼殿の殿上の間で行われる。殿上の間とは清涼殿の南庇にある公卿たちの控えの間のこと。いちばん東に殿上椅子というものがある(天皇が座る?)。一間おいて、公卿や殿上人の台盤と呼ばれる大机があり、その下手には殿上日記を収めた日記唐櫃、そのそばには殿上人の出欠を管理する出勤簿「日給簡(にっきゅうのふだ)」があった。

この二つには天皇が出席。寺社の強訴や騒乱のときに審議された例が多いが、鳥羽即位以降、まったく見られなくなる。かわって、白河院の院御所で審議されるようになる。やがて国政に深くかかわる問題、「国家大事」といわれる問題でも院御所での会議が開かれるようになり、事実上の最高審議機関になる。

●白河〜鳥羽〜後白河院政期は空前の御願寺ブーム。平安京の東に隣接する白河の六勝寺(法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺)は「国王ノ氏寺」。創建にあたっては、「国家的な給付としての封戸が経済的基盤として設定され、不足分が荘園で補てんされるべき」というのが在位中から譲位後まで一貫した白河の方針であった。

しかし国司からの封戸納入の悪化により、経済基盤は荘園に移されていく。円光院、無量光院は白河の中宮であった賢子と皇女郁芳門院の菩提を弔うための御願寺近江国柏原荘、越前国牛原荘、肥後国山鹿・玉名二郡にまたがる広大な山鹿荘など、院や生前の彼女たちと関係の深い中・下級貴族や女房たちが連携して、数百町から千町におよぶ広大な領域型荘園が立てられた。

鳥羽の院政期の王家領荘園形成に大きな役割を果たしたのが藤原家成。宝荘厳院や仏頂堂、鳥羽の安楽寿院、勝光明院、金剛心院などを次々と造営、修正会、修二会、盂蘭盆会などの定期的な法会やさまざまな儀式の財源として新たな荘園を形成した。


この、「荘園を立てる」というのがイマイチよくわからないというか、実務的にどーゆーものなのか、ずっと疑問に思っている。新たに開墾するということではなく、地上げしてまとめていくってことだよね? だとすると、それまで、そこの田んぼの米でやっていってた人はどーなったのか。そこは地上げ屋・家成さんのような人が然るべきリターンを与えてたってことか。それって結構な実務だよね。これだけ多くの寺院のための、これだけ多くの荘園となれば。だいたい立荘手続きってどんなものなんだろ。どうやら「立券荘号」手続きっていうのがあるらしいんだけど。だいたい、越前やら肥後やらの遠隔地を支配し、そこでできた米を京都で資するんだよね。古代に既にそういうことができてるってのが驚き。人間は賢い。交通・流通の掌握のために、藤原忠実の時代に、平等院を中心とする宇治の都市整備が行われたらしいけど。最近の発掘で、碁盤の目状の街並みが形成されてたことばわかったんだって。宇治橋は古代以来の交通の要地で、宇治川は重要な交通路、巨椋池を通じて舟運が発達していたらしい。

崇徳天皇が、待賢門院璋子と白河院の密通の子である、いわゆる「叔父子」の噂は、美福門院と藤原忠通とが政治的優位をもつために流したものであり、鳥羽は崇徳の在位中は実子でないなどと疑っていなかった、でなければ白河が死んだあとすぐに、実子であることが確実な雅仁に譲位させたはずである・・・と筆者は述べている。噂が政治的な策謀というのはいかにもありそうなことだけど、ちょっとよくわかんないのは、実子であることが確実ならば、自分の妃でありながら養父と密通していた待賢門院の子を帝位につけようと思うもんであろうか? 待賢門院の子である時点で、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いになるのでは? しかも雅仁くんは幼少のころから変わったお子さんであったろう・・・。

このあたりの皇位継承やそれにからむ政争のあれこれは、いつ何で読んでも本当に奇々怪々でドラマチックで、でも今回あらためて、大河『平清盛』って、いいとこいってたんじゃないかなーと思ったのであった。平清盛が主人公でありながら、忠実も忠通も頼長も、白河も鳥羽も崇徳も後白河も、待賢門院も美福門院も上西門院も八条院も、その関係性も、ちゃんとわかりやすく理解できるし、それぞれが愛すべき人物として、記憶に残る描き方されてたもんね。天地・・・とか、軍師・・・とかにはできなかった芸当である。てか、それぐらいの芸当ができる人に大河を書かせてくださいお願いします。

●鳥羽が遺した膨大な荘園が美福門院〜八条院(皇女)に継承されたのは有名な話で、経済的基盤のない後白河は「とても王家の家長といえる存在ではなかった」。これも面白い話だよね、当時の相続ってどうなってたんだろ。で、これだけ鬼っ子扱いだった後白河が、清盛に幽閉されたり福原京に連行されたりしつつも頼朝の世までしぶとく「大天狗」やってたってのも、本当に不思議な話。事実は小説よりも奇なり。

●後白河と建春門院滋子との愛の巣(笑)法住寺殿と、その北に位置する平家の六波羅とは、ほぼ同時期に都市として整備されていったものと思われるが、隣接していたわけではない。「その距離こそが、当時の清盛と後白河との政治的な距離をものがたっていた。」と本文にあるが、なかなか文学的な表現をする歴史本である(笑)。でも、なんとなく「なるほど、うまい」と思わされる(笑)。