『図説 平清盛』

図説 平清盛 (ふくろうの本/日本の歴史)

図説 平清盛 (ふくろうの本/日本の歴史)

図書館で借りた。図説、というだけあって、もちろん絵や図や史料の写真などが豊富。カラーも多くて目に楽しい。でもそれだけじゃなく論説もしっかりしてて、非常に読み応えがあった。2011年の出版なので最近の研究について触れている部分も多い。

やっぱり、この時代、好きだなー。と再確認。なんら正式に学んだことはないんですが、平家(清盛まわり)はもちろん、白河〜安徳天皇の系図をフリーハンドで書ける自分にも苦笑しました。「平清盛クラスタにはこんな人が多いでしょう(合掌)。

池禅尼(宗子)が家成といとこなのは知ってたけど(家成の母と宗子の父がきょうだい)、家成と美福門院(得子)がいとこなのは知らなかった(家成の母と得子の父がきょうだい)。なので、清盛は成親とハトコになるんだと思うんですけど、重盛の子・清経と、成親の娘が結婚してるんですね(清盛にとっては孫と、ハトコの子との結婚)。また、成親の兄(弟?)隆季の息子・隆房と、清盛の娘(これ誰にあたるのかわかりません)も結婚してる(清盛にとっては、娘とハトコの子との結婚)。姻戚関係が何重にもなっているのがこの時代の常で、結局、成親も平家も短期間で滅ぼされているわけだけど、その誰もに妻子や家人がいたことを思うと、あらためて凄惨だよなと思いました。

自分が特に興味深く思えたのは、都市や荘園、邸宅などについて。人物関係などは割と把握しやすいけれど、私は京都の土地勘が最低限(上から順番に一条、二条・・・で、真ん中が朱雀大路だな、とか)しかないし、当時の生産や物流の根拠となる荘園、知行国などについての研究は一般人にとってやや遠い。この本も詳しいわけではないが、地図や史料がわかりやすくてとても面白かった。

平氏といえば六波羅だが、平氏六波羅とのかかわりは清盛の祖父・正盛の時代からといわれている。平安時代の火葬場であった鳥辺野に近い。葬送に携わる賤民たちを束ねていたから、という説がある。また、都の東の玄関口であり、(伊勢)平氏の本拠地である伊勢・伊賀との交通が至便だったから、という説も。両方かもね。

ちなみに六波羅は外京だが、六条の東にあたる。六波羅の中では、池殿と呼ばれたのが忠盛の築いた邸宅。忠盛の死後は、宗子=池禅尼、その死後は彼女の子・頼盛に引き継がれた。対して、清盛の邸宅は泉殿と呼ばれ、清盛が家督を譲って福原に移ったあとは、重盛に譲渡された。池殿とは大きな通りを一本挟んでいるし、位置的に少々離れている。重盛の小松殿も六波羅の中にあるが、こちらも、池殿とも泉殿とも少々離れている。

もうひとつの平氏の拠点は、西八条。こちらも忠盛のころから邸宅があり、清盛が太政大臣になるころに拡張して倍以上の規模になった。清盛が六波羅を重盛に譲って福原に移ると、時子が西八条に。以降、清盛は上京時、必ず西八条に入った(安徳帝が障子に穴をあけたのもここ)。八条大路には、重盛邸、頼盛邸、宗盛邸がそれぞれある(隣あってはいない)。頼盛邸は、もと美福門院御所で、近衛帝誕生の地。そんなに短期間で、女院の御所であった場所に頼盛が入ったのね・・・。

当時すでに右京は廃れ、左京も七条より南は外京という感覚。治承・寿永の乱のころ、清盛は西八条の拠点を九条まで拡張し、軍事拠点にしようとしていた。清盛が死ぬと、宗盛は西八条を放棄して六波羅にひきあげ、翌々日には火事ですべてが焼き尽くされた。

●治承3年(1179)のクーデター(後白河院を鳥羽殿に幽閉し、関白元房を配流)の before/after での平氏知行国の分布図。
一門・与党(この定義は不明)・家人合わせて、beforeの17か国から、afterは32国と倍増に近い。

これで面白いのは、平氏と言えば西国、というイメージだけど、関東の国にも知行国があったんだな、ってこと。駿河・武蔵はクーデター以前から、クーデター後には常陸・上総も知行している。源氏はどーした。伊勢、尾張三河もクーデター後に手に入れているので、こうなると、関東から京へ入る道はふさがれてる気がするし。

一方で、京の周辺は意外と手薄で、クーデター後に丹波はとっているが、大和、山城、近江、伊賀はとっていない。伊勢はもちろんもっているので、道は確保していたんだろうけど。但馬、丹後、若狭、越前、加賀、能登越中、そして佐渡まで、日本海側沿岸はずらーっとばっちり押さえてる。海運ばっちり。大輪田泊を修築して瀬戸内海航路から日宋貿易をやろうとした清盛だけど、この時期、日本海側からは外国への船を出していなかったのか…? 

四国はもともと土佐のみをもっていたのが、クーデター後は、土佐を手放して残りの3国をとるという不思議なことに。九州はクーデター以前、博多のある筑前だけを押さえてたけど、クーデター後は薩摩もとってる。筑前と、薩摩。この飛び地具合。なんでとった、遠い薩摩を。平安末期の薩摩ってどんな状態だったんだろう。

これら、クーデター後に獲得した知行国では、それまで目代となっていた在地の武士を排して、その対抗勢力の武士を起用した。このことが、在地社会における対立を惹起した。平氏は広範囲の地方武士と主従関係を結ぶことがなかったので、権力組織から零れ落ちた在地社会とは対立せざるを得なかった・・・とな。ふむふむ。頼朝くんは、この教訓からよくよく学んだのだな。

院政と新都市
院政期は「御願寺」(天皇上皇女院等の発願により建てられる寺)のブーム。その経済基盤となる荘園「御願寺領」を形成して寄進したうえで実質的な経営を握る、という手法で平氏は富と権力を集めていった。

・京の東、白河の地: 摂関政治のピーク・藤原頼通期以降、都市化。その子・師実によって法勝寺が白河天皇御願寺として造営され、一大宗教都市となる。東国から入京する際の要所。同じく白河院御願寺である阿弥陀堂は、清盛の祖父・正盛によって造営された。

・京の南、鳥羽の地: 鴨川桂川の合流地点で、山陽道も通る交通の要衝。白河院院政期に都市化。白河院が院御所を造営、鳥羽院が拡張工事を行った。

(※ただし、白河・鳥羽院政期には、重要な政務は院御所でなく京の宮中で行われた。鳥羽後期には、院御所で政務の話し合いが行われることも。)

・法住寺殿: 六波羅の南に位置する。後白河の院御所。譲位後、もともと住んでいた人々を立ち退かせて造営し、都市化した。後白河はもともと中継ぎとして即位。美福門院と信西との談合「仏と仏の評定」で譲位。当初は院政から遠い存在だった。しかし院政を求めて子の二条帝と対立。院政を開始すると、自分を皇位から排除した父、鳥羽院との隔絶を表明するように、鳥羽殿や京御所の政務機能をすべて法住寺殿に移管した。