『青年のための読書クラブ』 桜庭一樹
- 作者: 桜庭一樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2011/06/26
- メディア: 文庫
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30になるかならないかのころから、世間の人気と己の好みにだんだん乖離を感じるようにもなっていて、恩田陸は「夜のピクニック」は最高におもしろかったけどほかの2,3は「なんじゃこれ?」と思ったし、ツウも絶賛の森見登美彦「夜は短し歩けよ乙女」も、これを好きな人が多いのはわかる気はするものの、自分は苦痛の中でなんとか最後まで読んだ感じだったし、シリーズ化している(=そこそこ人気があるんだろう)あちらこちらの作家の本を読んでも何が面白いのかさっぱりわかんなかったし、西加奈子なんて読み終わることすらできなかったんだもん。
何も面白いと思えないものを好き好んで読む必要はないのでベストセラーなんかからもどんどん遠ざかりつつ、トシ取るってこういうことなのかなー、感性が磨耗したり、硬直化したりしちゃってるのかなーと、淋しく思わんでもなかったのだ。
しかし、これ。本屋でタイトルにひかれてパラパラとめくってみて、「これなら読めるかも、面白いかも」と一抹の期待を抱き、ネットで中古購入(1円でした・・・送料別)。
良家の子女のための聖マリアナ学園の百年の稗史。あるときは安保闘争の時代、あるときはバブル華やかなりし頃、そしてあるときは21世紀・・・。いつの世にも“南のへんなやつ等”こと読書クラブが存在していて、表立って語ることのできない事件を、彼らはひっそりと書き残した。
女子校が舞台の物語なのに、なぜ“青年のための”読書クラブなのか。怠惰と退廃のムードの中で怪しげな禁書を読みふけるパリの一室が起源だからか。日本に渡ってきても、読書クラブはつねに学園の鬼っ子であり続けた。しかし同時に、主流にのまれることなく生き延び、(主流から見たところの)暗黒誌を綴り続けたその集まりは自由の象徴でもある。
出自が卑しかろうと、醜かろうと、気弱、あるいは自意識の塊であろうと、少女たちはみな自由で、未来と可能性をもち、悲しくも雄々しく、助け合って生きる存在だ。物語の中で、大半の少女がなぜか古典的な男言葉を用いて話すのもその象徴ではないのか。少女たちとは何にでもなれる存在なのだ。そして、やがて少女たちが卒業し年老いてゆこうとも、次の少女たちが必ずあらわれる。作者はそこに永遠を指摘する。永遠。限りある生をゆく私たちを恍惚とさせる概念。
と、テケトーに書いたけど、これが正しい解釈だなんていうつもりはない。でも、そんなふうにも読めるってこと。きっちり書き込んでいるようで、存分に残されている自由な解釈の余地。思春期特有のこじらせた自意識を真正面に据えながらの、結末のすがすがしさ。エンターテイメントであり、文学でもある。すばらしい読みごたえだった。桜庭一樹礼賛! だからって、『私の男』を読む勇気はすぐには出そうに無いケドネ・・・。