『若き数学者のアメリカ』 藤原正彦

若き数学者のアメリカ (新潮文庫)

若き数学者のアメリカ (新潮文庫)

1972年、29歳でミシガン大学から研究者として招かれた著者が、三年間にわたるアメリカ生活を綴ったロングエッセイ。図書館で借りた。

異文化との邂逅に伴うカルチャーショックもホームシックも、現在とは比べものにならないくらい大きかっただろうとは容易に想像できる。にしても、けっこう面食らっちゃうほどの著者の凸凹っぷり。

東大で修士課程までを修めたのち、留学ではなく、先方から招かれたぐらいだから、図抜けて優秀な頭脳の持ち主であることはまちがいない。その観察眼や分析力、論理的思考力には卓越していることは、文中からもじゅうぶん感じられる。しかし、私のような凡人からみると、卓越しすぎて突きぬけてる…という思いを抱いてしまったりするわけです。

「アメリカなんて」「アメリカ人なんて」と肩肘張って尖りきった日々のあとにやってくる引きこもりの日々。そこからの解放に一役かう金髪美女。そして三十路の著者をして「ぼくは彼女に恋をしたのかも」と言わしめる、海岸での10才くらいの少女とのひととき。離婚家庭、人種による差異、ベトナム戦争からの帰還兵など、デリケートな問題に対してのストレートな言及。

とどめは、助教授という身分になっていながら、大学で大流行していたストリーキング(人が公共の場において裸で走る行為!)に加わったことの告白だ。とにかく、「うわ、そこまでやっちゃう? 言っちゃう? そして、書いちゃう?」てな言動の連続。

自意識、自負心、好奇心、どれをとっても超ド級デミアン(アメリカにおける著者の愛称)、you are crazy!!!

だから読んでてどっぷり疲れる。けれどその浮沈こそがこのエッセイの大いなる魅力でもあり、「一周まわってやっぱりすごい」と思わしめる源になっている。今や外国で生活したことのある人は多かろうし、その誰もがそれぞれにユニークな体験をしているのだろうが、時代背景は別にしても、こんなにもエキサイティングな体験記を綴れる人はやはり限られているだろう。

ちなみに、同じように昭和の昔、単身海外に乗り込んだ青年の成功譚として思い浮かぶのは、小澤征爾の『ボクの音楽武者修行』(新潮文庫)である。

ボクの音楽武者修行 (新潮文庫)

ボクの音楽武者修行 (新潮文庫)

指揮者たる小澤のほうがよほど「芸術」畑にいるイメージなのに、この著者の、自然や景色に対する繊細というか激しいまでの感受性や、それを文章として表そうという情熱が、小澤の比ではないことにも、読み始めは驚かされた。

これは新田次郎藤原ていと、いずれも作家の両親をもつ出自にもかかわりあるのかもしれないが、「そうか、数学者ってこうだよね」と妙に納得もしたものである。思えば高校の数学の先生にも「ああ、素数の美しさよ」「虚数、この淡く儚いものの前に私はひれ伏す」というような人がいたし、『博士の愛した数式』(小川洋子)などを読んでも、博士は変わり者だが非常に繊細な感性の人物でもある。

数学者というのは、一般に私たちが抱く「科学者」つまり、曖昧さを許さず技術革新こそ正義という「理系」のイメージよりも、実際は哲学とかアートのほうにより近い人種なのかもしれない。小川洋子とは確か共著もあったはず。こちらも読んでみたい。