『ゲーム的リアリズムの誕生』東浩紀

ライトノベル」や「美少女小説」についてポストモダンの視点から分析した文化論。大学時代の同級生(社会学専攻)が「読んでみたら」と貸してくれた本、第2弾。余談だが、今度、宮台センセのゼロ年代の本も貸してくれるらしく、彼に社会学の教育を施されている気分になっている昨今である。私信、これ読んでたら『父として考える』(宮台真司 東浩紀)もそのうち頼みます。

私は、小中高と、氷室冴子藤本ひとみ前田珠子若木未生によって書かれた、1980年代から90年代前半にかけての集英社コバルト文庫でヒットした小説を読みあさってたクチである。学園ものからファンタジーの分野にとヒット作品の重心が傾くまでの、少女小説という言葉が生きていたころ。

だから、この本のテーマになっているライトノベル美少女ゲームそのものではなく、その前時代を知っているってことになるんだけど、それでも楽しく読めた。

  • ライトノベルは、キャラクターのデータベースを環境として書かれる小説
  • 作家は、いわば萌えのリテラシーを期待してキャラクターを造形
  • そうして作られたキャラクター小説が、再びデータベースを豊かにしていく

という分析も、なぜそのような小説が出現したかについての、

ポストモダンにおいては誰もが共有しうる「大きな物語」が衰退しているから、物語は現実に依拠するのではなく、ポップカルチャーの記憶から形成される人口環境に依拠することになる

という論理も、すごくよく頷ける。そして、「透明な言葉で現実との格闘をする従来の自然主義文学」に対して、

透明な言葉を使うと消えてしまうような現実を発見し、それを言葉の半透明性を利用して非日常的な想像力のうえに散乱させることで炙りだす

のがライトノベルだ、という指摘は目の覚めるような思いが! 「半透明性」こそに惹かれてやまない時期が、10代のころにはあったんだよなあ。その後、大人になるにつれて、「透明」に「格闘」する文学のほうに感動するようになったんだけど、だからライトノベルが若者に支持されたり、若者らしい年齢じゃなくなっても読み続ける人がいるのもわかる気がする。妙な身近さがあるんだよね。なぜかそこに居場所があるように感じられるんだよね。筆者は「ゲーム的リアリズム」という言葉をタイトルにして、その感覚を明快に説明していると思った。

後半、具体的な作品分析については、実際に読んだ(プレイした)ことのあるものがひとつもないので、あまり正鵠を射たことは書けないんだろうが、ヒットしたものにはさすがにいろんな意匠が凝らされているんだなあと。特に、美少女ゲームについてはまったくの門外漢だったので、ほほーうなるほど、と思ったところいろいろ。ただ、枚数の制約もあるため当然なのだが取り上げる作品が限られているので、その選択に恣意的なものが感じられてしまう。今後の論の発展が待たれます。というか、私はやっぱり、少女小説ライトノベルへの移行期についての論が読みたいんだよな。どっかになんかないかな。