弥生の十六 / たねをうえる

●3月某日: 子ども会関係で町内の役員さんに招集を受け、馳せ参じる。いろいろあるのですね・・・子ども会・・・。

昼前、友だち親子と一緒にパン屋さん巡り。割と新しいパン屋さんが2軒できているのを教えてもらった。それぞれ特色がある。最後に子どもたちが大好きな甘めのパンを売っているところにも寄って、パン屋の3社参り完了。子どもたち、道端の草花を摘んで集めて、花束を作ってた。かわゆいのう。友だちのおうちにお邪魔して一緒に食べる。

食べ終わるとこうえんいきたいいきたい言う子どもたちをなだめながらコーヒーを飲んでから、行く。友だちのママは赤ちゃんねんねのため私が見てる。もうそろそろ、子どもだけで行かせてもいいのかなー?と思うけど一応ついていく。で、成り行きで子ども対大人(私ひとりだが)でかけっこ対決したり・・・。ランニングでふくらはぎには耐性があるけど、何本もダッシュすると、太ももが筋肉痛になりますね>翌日以降 

夜ごはん、豚とブロッコリーの中華炒め、カツオ菜とオイルサーディン炒め、大根の煮もの。
 
●3月某日: 幼稚園入園時の袋物縫いは意地で手縫いしたわけですが、先日、ついにミシンをポチりましてね、昨日、届きました。私は縫い物作業でほっこりするタイプではなく、むしろ超事務的に実務的にサッサと済ませたい人なので、到着しても特に喜びもなく、まあ週末まで放置かなーなんて思ってたけど、ワクワクしている6歳児が傍らに。朝食を食べるとさっそく開梱し始めたので、観念して付き合うことに。

ミシン・・・・確実に、中学時代の家庭科以来だと思う。20数年ぶり。えーっと、下糸かけて、上糸かけて・・・・おっ、できました! 試し縫い成功。ほっ。いっちょまえに一緒に説明書を読んで、横からやいのやいの言うてた6歳児も当然やりたいやりたい言うので、やらせてみた。できました。うむ。

子どものやる気はまだまだ続き、次はしばらく前から言っていた「やさいを うえたい」を実行する運びに。私は植物を育ててほっこりするタイプではなく、むしろベランダに洗濯ものを干す以外の用事では出ないような人なので、プランターの用意もなく、買いに行ったのは100円ショップです。土を買い、肥料も買い、鉢底の石まで買おうとしたが、「いしは、ひろえばいい」と子どもが主張するので道々、石を山ほど拾いながら帰る。こういう石でいいのかよくわかんないけどまあいいや。

畑をやっている義父に電話をさせて、何を植えればよいか相談する。やはり葉物がいいだろうとのことで、しかし私の母も義父も口をそろえて「種は難しいよ。苗を買いなさい」とのことだけど、子どもは種から芽が出るってとこから見たいんだよね。まあ失敗してもいいしね、ってことで小松菜の種を購入。

幼稚園で何度か畑をやったサクは植え方を心得ていて、まず土に肥料を混ぜ、土の表面に指でつーーーーっと線を引いて、そこにパラパラと種をまいたあと、そっと土をかぶせていた。それなりに育ってくれればいいのですが。夜ごはんは、鶏もも肉と野菜のグリル、カツオ菜&小松菜のオイルサーディン炒め(昨日のがすごく美味しかったので2日連続で作った)、きゅうり&レタス。夫は飲み会。
 

『おんな城主直虎』 第21話 「ぬしの名は」

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まんをじして、「龍」の名が明かされる今回、森下さんの「人間と社会を見る目」が全開! その森下佳子ワールドにくらくらしつつ、同時に、「鶴と亀がなりを潜めていると、こんなにもスッキリというか粘着きのない展開になるのか・・・」とw 彼らがいかに面倒な人材であるか思い知ったw
 
アバンタイトル、いきなりぶつかられてその瞬間に財布を盗まれているという、幾千回も見たことのあるようなきっかけから事件が始まるのだが、盗みをはたらいた少年を追いかけるヒロインのしつこいことしつこいこと。この執拗さがいかにもこの作家で、まず笑ってしまう。
 
その後も、領主の地位を振りかざして盗賊団を脅そうとするも大笑いされたあげく、里芋(? ご丁寧に張り型の形じゃねぇかよw)を口に突っ込まれるとか、ヒロイン、しかも出家の身のくせに子どもを人質に取ろうとするとか、「はいはいはい、わかりますw」っていう描写の連続ですよ。
 
「直虎、かどわかされる」の報を受けた井伊家、わかりやすくキリキリする之の字・矢本悠馬くんと、ポーカーフェイスを保とうとするも全然保ててない政次・高橋一生の演技が面白い。「それしきのこと、どうして思いつかないのか不思議」って、明らかな八つ当たり。「おーおー、怒っとるのう~ 不機嫌よのう~」って猫抱いた南渓(もしくは真田昌幸)が私の頭の中で苦笑する。
 
百姓から年貢をとってる武家は泥棒も同然、とカシラ柳楽。「子どもでもわかる理屈でさあ」というセリフがいい。こういう、小気味いいセリフがひとっつも出てこない大河もあるのだ(沈)。
 
「それは井伊家の土地を貸してやってるから」
「だからなんであそこはあんたの土地と決まってるんだよ?」
「それは鎌倉の公方様から任されたから」
「だからそいつが泥棒の始まりだろ?」
 
あんたの祖先に“えれぇケンカの強い奴か調子のいい奴”がいて、ここからここまでが自分の土地って決めて、勝手にぶん取っただけじゃねぇか。
武家なんてのは、泥棒も泥棒。何代も続いた由緒正しい大泥棒じゃねえか!
俺らは武家やそこに群がってる奴らからしか盗まない。
泥棒から泥棒をし返してるってわけだ。あんたらに比べればかわいいもんだ。
 
「ある日、強い奴が勝手に決める」という、カースト制の起源。
「泥棒から泥棒をし返す」という、争いごとの起源。
 
古今東西の普遍の真理をカシラ柳楽が鮮やかに喝破してみせるのだが、そこでハッとするとか、ぐうの音も出ないほど落ち込むとかじゃなくて、
 
「おぬし、頭がいかれておるのではないか?」
というリアクションなのが、いい。人は、聞いたことのない論理が簡単に腑に落ちたりしない。
 
いかれる、ってのは以前は差別的だとして糾弾されたり自主規制したりする用語だったと思うが(筒井康隆あたりが抵触していた記憶)、この言葉を敢えて使ったのだと思われる。
 
それに対して、カシラ柳楽は「俺からいわせりゃあんたらのほうがよっぽどいかれてるよ」と、こともなげ。いいね、いいねー。
 
首をかしげながらも、直虎にとっては青天のへきれき、コペルニクス的転回をもたらすような概念の提示だった。いったん抱いた疑問をすぐに脇におくことをせず、いつまでも考え続けることができるのは、盗人少年を追いかけ続ける執拗さと、禅の命題に触れてきた素養があるからだろうと納得できる。
 
直虎がカシラに会おうとするのは、気賀で中村屋に言った「相見」ということになるんだろうが、あのときの説明で「直接会う」だけじゃなくて「直接会って“一体となる”」と言っていたのが妙~に引っかかるw 「邪魔者は退散して」と、南渓がお見合いのテンプレフレーズを吐くのも面白い。
 
寺に入ったばかりのころ、カブを盗んだ過去を告白し(あったな!そういうことが!)、「我もそなたも、人はみな等しく卑しい。それは生きる力でもある」というセリフが、もうこれだけで人間の正と負とを一体に見る森下節よな!と大きく首肯するとこなんだけど、そこからさらに
 
「しかし人として生まれ、卑しいことをせねばならぬのは幸せなのか?」
 
という問いを立てるところが禅っぽいし直虎らしいし、ぐいぐいきてて良い!
直虎が「だったら卑しさを見せずに住む世を作るしかないじゃないか」と言うに至って、今度はカシラ柳楽のほうが「よ?」とハトが豆鉄砲を食らう番なのであるw 
 
「われは泥棒かもしれぬがそんなの断じて認めたくない。だったら、認めずにすむ方法をとるしかない。つまるところは己のためだ」 
直虎は自分の頭で考えて自分の言葉で喋り、行動する。そして恩を着せない。
「相手も泥棒だから盗んでいいんだなんて大義ふりかざしやがって」「できることしかしないなんて、しみったれた男だな!」の攻め気も、カシラの琴線に触れたんだろう。直虎、お見事~。
 
見応えのある対峙から、ついについにの龍雲丸の名乗りでカタルシスにつながっていったけど、その瞬間、昭和の大河ドラマみたいなBGMが流れ出したあげく、大岩に飛び乗って龍の形の雲を見上げるカシラ、という昭和の大河ドラマそのものみたいな画がとられて、すっとぼけてんなあ~と笑っちゃった。
 
商人の町・気賀に龍雲党の巣があるのはともかくとして、ご領主さまが自分で財布を持ってるとか、井伊本体に身代金要求とか、いろいろ豪腕な展開だったけど、あの「ザ・昭和の大河」な雰囲気で、「うんうん、大河ってこういうもんだった」って思えちゃったわよw
 
その中で、直虎が泥棒とか人の卑しさ命題とかをいくら考えて、彼女なりに「新しい世を作る!」だなんて大河の決まり文句をぶちあげようが、結局は歴史の大勢に何ら影響を及ぼさないのは明白なんだけど、ちっぽけな井伊谷で、史実にあやふやな足跡しか残していない井伊直虎だからこそ、こういう自由な話ができるんだろうなとも思うし、ちっぽけな人間がちっぽけな頭で根源的な命題を考えてなけなしのベストを尽くそうとする姿を今この現代の大河ドラマという枠でやりたいという作り手の気持ちに私は意気を感じる。それは去年の「真田丸」にも通じることだけど。
 
柳楽優弥の“傾き者”な扮装はもちろん、演技がいちいち的確で気持ちよくて、何度でもリピートしたいくらい。「ゆとりですがなにか」でも感じたけど、力の出し入れを自在にできる役者なんだよね。基本的には余裕綽々で、直虎を揶揄するまなざしで芝居がかったような言葉遣いとかしつつ、時々、素で反応しちゃう感じがすごく面白い。
 
「武家なんてのは、泥棒も泥棒。何代も続いた大泥棒じゃねえか」の啖呵や、「龍雲丸だ」のすがすがしい名乗りもすばらしかったけど、「これが尼さんのすることかよ」のツッコミや間髪入れない「俺から見りゃあんたのほうがいかれてる」の返しの軽妙さもよかったわ~。またリピートするわ~。
 
龍に対して鶴がどんな反応を示すか、2人の対峙のシーンもあるでしょう。楽しみでしかたないですね~~~~~~~
 
怪しさをいったん棚上げしてる高瀬ちゃん。「武家に奪われてると思ったことのない百姓はいない」の言葉は率直で、怪しいは怪しいけどやっぱり心底怪しくはないというか、だから余計心配しちゃうというか。「新しい姫、古い姫」の呼称問題はやけに浮いてて、なんかの伏線なんでしょうね。気になりますね。
 

4/29 毎日新聞 「開かれた新聞委員会」森友学園を思想問題から / 政府の情報取り扱い問題など

弥生の十五

●3月某日: 実質的な春休み初日。夫が「かーちゃんと仲良くしてな」とサクに言い聞かせて出勤していた、ふっ。でも私とサクは共にAB型なので、お互いマイペースながら、あんまり物事深く考えず、ひきずらないタイプ・・・だと、夫は思っているらしい。別に血液型なんて信じちゃいないが、彼のAB型に対する認識にいつも多少の疑問を感じるw

さて、午前中は雨で、朝はのんびり。小沢健二『流動体について』をかけると、サビの部分「まちがいに気がつくことがなかったのなら~」と、ブリッジ(というの?)「だけど意思は言葉を変え 言葉は都市を変えてゆく~」のところを気に入っていて、必ず合わせて歌うサクだ。

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歩いてスーパーに買い物に行って、帰りに酒屋にも酔って酒屋にも仕入れる。川で鳥がくるのも待つ(来た。ハクセキレイ)。図書館から自分が読むために借りている『長くつしたのピッピ』、ふと思い立ってサクに1章目を読み聞かせると、けっこう長いのにじっと聞いてて、随所で「ええー!」「なんだよ」と合いの手(?)を入れてた。

夜ごはん、椎茸とほうれん草のパスタ。サニーレタスと和風ピクルス。大根の煮もの。椎茸は友だちの家から、ほうれん草は義実家の畑からもらったもので、まったくもって素材の大勝利!というパスタであった。ビール、赤ワイン。
 
●3月某日: サク、今日も早起き。昨日から、折り紙で、すごーくたくさんの折り鶴を作っている。7.5cm四方と5cm四方、2種類の折り紙で、それぞれたくさん。既に30羽以上ある。春休みというものがどれだけヒマかというのを表しているようだ・・・。春休みが終わるころ、千羽鶴にしてどこかに奉納したいくらいだ。

昼ごはんはピザトーストにする。ケチャップにオリーブオイルと粉末パセリとブラックペッパーを混ぜたらピザソースの代用として十分、とわかった。午後からは幼稚園に、お別れ遠足の写真展示を見に行く。近所の友だちと待ち合わせて、元気のありあまっている子たちをしっかり歩かせて登園。春休みに入っていて静かな幼稚園。もう1人、見に来ていたクラスの女の子と、さっそく園庭で遊び始める子どもたち。走り回り、土をいじり、草を摘んだり石を集めたりして盛り上がっている。遊び慣れた場所だから、すぐに遊びのスイッチが入るんだろうねー、もう卒園しちゃったね、と思いながら、お母さんたちとおしゃべりしながら、眺める。

夜ごはんは、アジの煮つけ、キャベツと豆腐と玉ねぎの味噌汁、野菜炒めの卵とじ。夫が鹿児島出張で黒豚まんをお土産に買ってきてくれた。
 

弥生の十四

●3月某日: ゆうべは、寝たの2時過ぎ。しかも、なんとなーく胸がいっぱいで胃もいっぱいで(笑)、なかなか寝付けず眠りも浅く、とてもじゃないけど爽やかな目覚めからは遠く・・・。

でも、10時から雁瀬さん主催の勉強会に参加。すっごくバタバタと出て行って、案の定、忘れ物たっぷりだったけどね。雁瀬さんからワークライフバランスについての基本講話があったほか、別の方からは「ワールドカフェ」というワークショップの手法みたいな紹介があって、こちらも面白かった! そして、あれよあれよという間に来月は私がプレゼンをすることになった。

午後から夫の家へ。車の中でようやく眠気がきて、15分くらいすごい爆睡した。サクは家でもじぃじの家でも、卒園したからどうという感じはなく、普通に見える。あ、でも、ランドセルを背負って帰省w 中には、昨日の卒園プレゼントである、歌詞集や目覚まし時計、それに修了証書も入れていた。やっぱりうれしい、誇らしい気持ちもあるのかな。

6時前から夜ごはん。一応(一応ってことはないが)卒園のお祝いということで、握り寿司も含んだおいしいごはんの数々に、いただきものだというすごく美味しいブルガリアワイン! で、みんなでカルタをする読み札を読みながらも目がシパシパするくらい。10時前におふとんに入らせてもらう。今日はあたたかくて、篠栗なのに暖房がいらない!
 
●3月某日: すげー寝た。10時前に寝て、8時過ぎまで、一度もトイレにも行かず、寝続けた・・・。ええ、嫁なんですけどね。寝たよ。ぐっすりと。サクは朝食後、さっそく夫とボール遊びやゴルフの練習に出ていき、戻って来たと思ったらその足で今度は川へ。今日は昨日と違って冷えている。魚も今の時期は泳いでないだろうに・・・。聞くと「チビガニがちょっといた」らしい。

ちょっと休憩したあと、今度は鳥を探しに行きたいという。家のすぐそばに里山があって、その中の、舗装されていない道を行きたいという要望。じぃじが道案内、私もなにげなくついてったら、がっつり山歩きだったよ・・・。いや、じぃじは道が一区切りするごとに「ここから降りようか」と言った。「もっと 上までいく」というのは元気な6歳児だ。

f:id:emitemit:20170528201443j:plain ←山桜。

結局一番上までのぼって、違う道から降りた。途中で3つ、お札所(篠栗88か所霊場)があってお参りできたし、サクも楽しそうだったし、篠栗育ちの義父から随時「昔はここにも家があってね」なんて話を聞きながら行くのは興味深かった。肝心の鳥の姿はほとんど見えなかったけどね。

午後からは雨が降り出して家の中。サク、ピアノを弾きまくる。いえ、弾けないんですけどね。弾きながら歌いまくる。夕方帰宅。明日から長くて長い春休みだー。まあ、朝はのんびりできると思うと気楽。
 

今さらですが 『逃げるは恥だが役に立つ』

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やっとこさっとこ、録画を見終わりましたよ!!
めっちゃ面白かったですね!!!ほんと、いつの話だよって感じですが、私は今、モーレツにコーフンしています!!

・・・といっても、ムズキュン?っていうんだっけ? 
 少しずつ縮まっていく二人の距離、これは恋なのか?恋していいのか?いやダメだ、でも我慢できない、アーッ!!
みたいな部分には、あまり萌えなかったの。
たぶん、25年前なら萌え転がってたと思う。

同じく、番組も人も違いますけど、昨今の大ブーム、高橋一生にも萌えられない。役者さんとしては大好きなんだけどね。15年前なら周囲が引くレベルで萌えてたと思う。10年前はもう知ってたの。そう、彼、2007年の大河ドラマ『風林火山』に出てたから。駒井高白斎っていう、武田信玄界隈では有名な人物を演じてたのよ。・・・って、なんの話だよ。

そう、ムズキュン。ムズキュンに萌えるには年をとりすぎたのね、私…。
ムズキュンが始まると、なんか、こっぱずかしくって、見てはいけないものを見てしまっているような、初々しい二人に申し訳ないような気持ちになって、1.4倍速で見てたの。
 
でも、ガッキーのかわいさってすごいな!!!無敵だな!!! もう、ガッキーがかわいくてかわいくて、見てるだけで元気が出てくる。ガッキーありがとう。ガッキーと同じ時代を生きる幸せ。なんかほんと、みくりの髪型にしたくなる。なれないのに。ガッキーになんてなれないのに。
 
ふー、落ち着きましょう。
 
そんな、ムズキュンがこっぱずかしい私にとって面白かったのは、劇中で展開される、他番組etcのパロディーに次ぐパロディー。初回の録画は家族で見てたんですけど、いきなり情熱大陸のパロディーが始まるもんだから、「これ、ドラマか?」と息子6才が疑義を呈しておりましたよ。

なんか、ネットを見たら「パロディーネタしつこい」「やりすぎ」とかいう人も割といたみたいだけど、やりすぎ・しつこい・ウザいが好きなタイプの私には大好評ですよ!! 石田ゆり子が林先生からの~金八になるとことか、面白すぎてリピートしたあげく夫にも見せたもん(笑)。最終回、まんをじして「真田丸」が始まったときも机バンバンしてたw コーエー『信長の野望』っぽい地図までちゃんとパロっててねww 6話くらいで出てきた、Eテレ「2355」のパロディーもよかったな~。わかってらっしゃる!! 

ついにベッドイン(この表現が古いなw)した2人のピロートークをパペットに言わせる演出も好きだったんですけど、やっとこさっとこ結ばれた途端にリストラに遭うのがドラマよね。そこからがまた、超面白かった!!

10話のラスト、「愛情の搾取」って言葉が出てきたとき、 「そうだよね、それがこのドラマの本丸だよね!!」って沸き立ったわ。

何しろ自分がリアルタイムでドラマ本編見れてなかったけん、twitterも横目で見るくらいしかできなかったのが惜しまれるっちゃけど、それでも紛糾してるのがわかった。愛情の搾取問題。
 
  • 主婦の仕事は「愛情の搾取」だ、そーだそーだ!派
  • わたし専業主婦だけど、権利をふりかざすみくりは傲慢だ!派
  • いや、専業主婦の妻を持つ夫こそ家族に愛情を搾取されている!
とかね~。
面白いなーと思ったのはね、パッと見た感じ、「みくり、よく言った!」と言ってるのは若い人が多くて、「みくり、いきなりどうしちゃったの? 主婦は搾取されてなんていないよ」と言ってるのは、私より年上の世代が多かった気がしたのです。や、簡単に括ってはいけないんでしょうが。

愛情の搾取の前に、商店街の青空市の仕事と絡めて「やりがいの搾取」をやったのも、脚本うまいと思った。そう、本来、性別を超越した話なのだよね。
 
現実では、「彼が好きだからできる」「彼は外で頑張って働いてくれてるから」「その分、家事は私がするのが自然」って感じで、なんとなく性別役割分業しちゃうんだけど、「これで報酬を得ているのだから完璧にやります!」とこから始まって、「好きになっちゃったけど…心身ともに結ばれたけど、えっ、これから、これをタダでやらなきゃいけないの? 主婦の皆さんはこれをタダでやってるの?」っていう流れになるのが本当に面白いし、納得感ある。
 
「搾取」ってセンセーショナルな言葉だけど、たとえば夫婦間で「なんで俺/私ばっかり、こんな負担……」とモヤモヤしたり、「つらいけど、専業主婦だから/大黒柱だから 仕方ないよね…… 」と抱え込んでしまったり、配偶者に対して「専業主婦なんだから/大黒柱なんだから、ちゃんとしてよ!」と思ってしまうときって、みくりみたいに「もしかして、これは愛情の搾取問題じゃないか?」って考えみてもいいのかもしんない。

そして、その答えは・・・決まってはいない。唯一無二の正解はない。
不安やモヤモヤを解決するには、自己分析し相手のことを想像して、そのうえで2人で共有したり話し合ったりしていくしかない。

最後のパロディーが懐かしのフレンドパークのダーツで、「子だくさん」「専業主夫」「別離」など、すべての可能性を俎上に(ダーツの的に、だね)乗せているのがすごくよかった。そのうえで、「そのつど話し合って、ライフスタイルを変えていくしかない。模索は続きます」という帰着に持っていったことに私はとてもエンカレッジされました。

そう、先の見えない人生を、考えながら話し合いながらやっていくしかない。
それは時にしんどいけど、わくわくすることでもある。
すごく現代的な展開と帰着だったと思います。
 
そして、自己肯定感と承認欲求の問題、年齢の問題、性的アイデンティティーの問題、見た目で判断される問題などなど、こちらも現代的なトピックが、それぞれの人をとても尊重しながら(←ここ重要!)描かれてました。

専業主婦の家事問題もそれらの一つで、それらすべてを百合ちゃんが最終回で「呪い」という言葉で表現したのだよね。若い方が価値があるとか、異性愛が普通とか、いい年して童貞の俺ってとか、かわいげのない女とか・・・私たちの周りには呪いがたくさんある。呪いを自分にかけちゃだめ。そんな呪いからは逃げちゃいなさい、と。
「逃げるは恥だが役に立つ」は呪いからの逃走をさしてたんだね。
 
みくりのモノローグではそれを「自分自身を縛るもの」と言っていた。
呪い、縛り。
みんなの呪縛がとけて青空にたちのぼっていく画は、感動的でしたね。成田凌くん、それまで特にいいと思ったことなかったんだけど、彼が古田新太を見た瞬間の泣きそうな顔に、私は泣いてしまった。古田新太と成田凌くんのカップルがとても美しいものに見えたのだよ!!
 
石田ゆり子が演じる百合ちゃんにも、ドラマ後半になってぐっときっぱなしだった。
 
美人で仕事ができて、みんなの高嶺の花だった百合ちゃん。
真面目な性格で男性と付き合った経験はほとんどない。化粧品会社で管理職をしてバリバリ稼いで、姪っ子のみくりを溺愛している。会社に残っている同期の女性社員は、ほとんどが結婚出産して出世コースから外れている。「土屋は私たちの希望の星なのよ!」なんて言われる。部下の男子社員にかけたふとした言葉が拡大解釈されて、セクハラと告発されたり。理路整然としたプレゼンのあと、上司や男性社員から「だから結婚できないんだよな」と揶揄されたり。
 
男性にモテるため・愛されるためではなく、女性が自分の思いのままに生きられるように、自由な表現をできるように、媚びない広告を作ってきた。でもそうやって、「女性の意見」を言って実現するために、百合ちゃんがどれだけ傷ついてきたか。今も傷つくことがあるか。思わず往来で涙しちゃた百合ちゃんに、壁ソッして、泣き顔を隠してあげる風見さん! サイコーな表現!! 壁ドンの横暴さに対するすばらしいカウンターだった。
 
そう、ディーンフジオカと同じく逆輸入俳優らしい彼、大谷亮平さんの生硬い日本語のセリフ回しを、最初は「トホホ…」と思ってみてたのに、途中から風見さん大好きになったからね、私! 彼が百合ちゃんに「あなたを抱きたいと思っている」って言ったとき、「よう言った!!!」と叫んだよ、あたしゃ。
 
ゼェ。
 
みくりと平匡のムズキュンはこっぱずかしいと言ったけど、二人が(雇用主と従業員としての頃から)繰り返し、相手に向かってプレゼンしたり、それで話し合ったりするシーンを見るのは大好きだった。
 
理系男子の平匡も、数字や論理に強いだけじゃなくて、相手の話をしっかり聞いたり心情を思いやったりしてコミュニケーションできる。
女子のみくりも、状況分析して論理的に話を組み立て自分の意思を持ち、はっきりした声と口調でプレゼンできる。
 
そうやって、お互いに理解し合ったり、歩み寄ったり、前進したりする2人の姿はとても好もしかった。それは、ジェンダーフリーの表現でもあったし、個人の尊重の表現でもあったし、職場の在り方の表現でもあったと思う。みくりは、平匡のコンプレックスに気づいていながらも決して偏見をもったりマウントしたりしなかったし、平匡は、雇用主だからといってみくりを決して下に見たりせず働く彼女の権利を保障し良い労働環境を維持しようとしていた。
 
ムズキュンもあるけど、2人の、気持ちのいい、フラットでイーブンなあり方が、支持を集めたんじゃないかなーと思ってる。若い人がそんな恋愛を、そんな結婚を志向するのは素敵だし、もう結婚してる私もそんなふうにありたいと思った。
 
夫婦だけじゃなくて、他の人間関係もそうだ。自分の気持ちをしっかり言葉にして、相手の言葉もしっかり聞いて、人と人との関係を、フラットに、イーブンに。だからあの歌は、「♪夫婦を超えてゆけ 一人を超えてゆけ」なんだね。最終回まで見てやっとわかった!!
 
こういうメッセージを、たとえばセミナーとか講演会みたいなので直接的に伝えることもできるけど、「メッセージとか特に意識しなくても、すっごく面白いから見ちゃう! 見て、すてきだなあと思う」っていうふうにできるから、ドラマとか小説とか、「物語の力」ってすごいと思う。
 
こういうのがたまにあるから、テレビドラマはやめらんないね! 作る人たちに心からの敬意を。近日中に私の髪型が変わったら、「みくりになりたかったのね・・・でもなれなかったよね・・・」と優しいまなざしで見守ってください。
 

Nスペ『日本国憲法 70年の潮流』を見て雑感(後)

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アメリカに唯々諾々とならないために打ち込む楔が、
「天皇中心の強い国家」
「日本の古き良き伝統」
を謳う、自主憲法ということなのでしょうか?
 
いつか武力を用いるとしても
それはアメリカ様からの拝命ではなく独立国家日本としての意思なのだと。

 

でも、どうなんでしょうね。そのやり方は。
たとえ、日本の自主独立を推進するための方策だとしても。

私が日本国憲法に見るのは、私たちが歴史から学んだ財産です。

民主主義や、個人を尊重する人権意識、
そして武力を用いない解決への思いこそ、
先人たちの多くの犠牲や格闘から生まれ、獲得されてきたもので、
「歴史に敬意を払う」というなら、まずもってそこに対してだろうと思うのです。

日本会議のメンバーや、イベントに参加した人へのインタビューでは、
幾人もから異口同音に
「日本の良さを伝えていかなければ」
「日本の良さを知らないまま大人になっている」
というような言葉が出るのだけれど

彼らが非難する、戦後の個人主義(彼らはそれを利己主義だという)や、
核家族化の進行は、教育や思想の問題というより、
世界的な産業構造・経済システムの変化によるところが大きいはず。
それを、憲法改正でどうこうしようとするのは
私にはあまり知的な行為とは思えません。

そして、国民に、若者に、子どもたちに
日本の良さだけを伝えるのはとんだ片手落ちです

子どもたちに天皇陛下万歳と唱えさせるならば
「バンザイクリフ」のこと
戦時下の生活、思想の統制、
沖縄で一般市民がどんな戦いを強いられたか 
特攻隊のこと、植民地支配のこと・・・それらもすべて教えなければならない。

そういったことを教えずに
美しい国だ、天皇陛下万歳とだけ教えるのは卑怯だし
無知というおそろしい事態を招くのではないでしょうか?
 
というか、日本会議HPでは「かつて日本人は、自然を慈しみ、思いやりに富み、公共につくす意欲にあふれ、正義を尊び、勇気を重んじ、全体のために自制心や調和の心を働かせることのできるすばらしい徳性が…」と書かれてるけど、
かつての日本人も、先の大戦はおいたとしても、当時の技術の範囲内でバンバン木を切り倒したり海を汚したり、源平や戦国の戦乱は言うに及ばず、民衆側だって、古くは土一揆や一向一揆、近代でも日比谷焼き打ちを始めとする明治大正の都市騒擾事件や地方選挙での流血の争いなど、その時代時代でけっこうめちゃくちゃやってきた歴史あると思いますよ。



武力について周りが持つから自分も持つのか
恐怖のゲームに同じ土俵で参加するのか

「武力を持たない」というのは押しつけられたのではなく、
人々が膨大の犠牲を出し、血を吐き餓えに苦しみながら掴んだ信念と知恵なのではないですか?
もう二度と、(自国にも他国にも)犠牲を出さないためのストッパー。

アフガニスタンやアフリカなど紛争地域を渡り歩き、
国連の職員として「武装解除」の仕事をしてきた伊勢崎賢治さんは、
「世界にアピールするための9条を」と中高生向けの新書『さよなら紛争~武装解除人が見た世界の現実』に書いていました。
 
世界にアピールすることもなく、なんとなく内輪だけで議論して、そのあげく都合のいいように改定してしまうというのは、おかしいと思いませんか? 一度ぐらい、世界平和に貢献するために9条の考え方を広めようとチャレンジしてみてもいいはずです。
日本は、憲法9条が持っている潜在能力を1%も生かしていません。戦略的に広告できていないのです。

戦争も紛争も、広告や宣伝(プロパガンダ)が世論を誘導して現実化していくもの。
ならば、それを逆手にとって、広告の力を戦争回避や平和に使うべきだ、というのです。

憲法9条は、私たちは誰も憎まない、誰も傷つけないという宣言。
武力で解決しない、成熟した国民であろうとする意思。

そのためには、本当はすごく勉強して、考え続けなければいけない。
自分の主張をしながらも、相手の立場も尊重し、想像し、粘り強く交渉する能力が要る。
国会で感情的になるとか、強行採決をするのとは、まったくベクトルが違うことです。
 


一方で、
「自衛隊の位置づけ」
というものについて、このままでいいわけはないと思います。

憲法を変えるか変えないか以前に、私たち国民が自衛隊をどう規定するかという問題です。

軍であって軍でない自衛隊。
海外派遣も「平和維持活動」のため。
殺すために行っているのではない、戦闘には参加しない、
それがPKO派遣の最初のころの建前だったけど。
役割はどんどん拡大していきました。

かつてカンボジアPKO派遣(1992年)ではあれだけ紛糾したのに
ソマリア沖で「国益を守るため」海賊対策の活動をすることになったときも
南スーダンにまで行っても、
そこで日報が適当な扱いをされたり
「駆けつけ警護」任務が付与されたり
「戦闘ではなくて武力衝突です」と言い換えられても
ほとんど世論は盛り上がりません。

幸いというべきか、南スーダン部隊は帰国となったけれど、
相手が押し入ってくれば何らか対抗しなければならなかった。

殺されたかもしれない。
殺したかもしれない。
どちらに対しても準備がない、きちんとした法律がないままで行っているのです。

このままどこまで任務を拡大するのか?
そのことに対する国民の冷淡さ。
それを利用した政府のなし崩しの方策・・・。

国民が考えなくなった、意思表明しなくなったから、
自衛隊の海外任務はここまでよくわからないことになってしまっているのでは?

有事に際して自分たちが武器をもたないなら、どうやって守るのか
代わりに外国人に守ってもらうのか?
「日本の平和を守るため」に、何を、どこまでやる?

堂々巡り 袋小路
それでも考えなきゃいけない
今まで考えずにきてしまったのですよね。

伝統を失ってしまったと言うけれど、
移り変わる季節や自然の恵み/災いを粛々と受け容れるように
物事をあまり考えずにきたのは、非常に伝統的な日本人の姿のようにも思います。

「改憲は国民が主役」「国民の議論を期待」
と、首相は言っていました(5月、中曽根元首相の白寿祝いの場にて)
それはそのとおり。

だからそれを国会で言えばいいのに。
日本会議宛のビデオと読売新聞のインタビューだけで応えて、
国会では答弁しない首相。

もしかしたら、国民の賛否を喚起するための演出なのでしょうか?
いや、国民の反応を見ているのでは?
ここまでやっても国民に議論が起きないのであれば
彼らは思うままに改憲案をつくる。つくれる。

そして
「家族の絆」「生活をもっとよくしよう」のような、
ふわっとした、何となくの「いい言葉」に惹かれた人々が投票して決まってしまう・・・。

番組で流れた、英米法学者・高柳賢三の言葉を紹介します
「憲法改正というのは、子孫に長く伝わる問題で
 これを我々現代住んでいる人だけでもって軽々しく決めると
 とんでもないことになる恐れもある。
 慎重に取り扱わねば 将来の国民に対してすまない」
 1957年、自主憲法制定に向けて、内閣が設置した憲法調査会の会議での発言です。
ちなみにこのときの内閣総理大臣は岸信介。安倍首相の祖父にあたる人ですね。

高柳賢三の言う通りで、
私は、ふわっとしたイメージからの国民投票で憲法改正が決まってしまうのはイヤだなと思っています。
そりゃみんな、自分の生活だけで毎日忙しいでしょうが
もうちょっとは話題になって、考えてもいいんじゃないかと思います。

子どもたちに伝えたい「大事なこと」は何なのか?

メディアには、冷静で知的な情報提供と関心喚起をお願いしたいところ。
 
 
 

Nスペ『日本国憲法 70年の潮流』を見て雑感(前)

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単純な感想として、

「時代によって、改正したい/したくない の回答割合ってこんなに変わるものなんだなあ」
と興味深く思いました。

おそらく、NHK調査が止まっていた70~80年代は、「改正しない」が「する」を圧倒していたのでしょう。だから調査するまでもなかった、と。

それが、その25年後ぐらいには一気に逆転して、「改正する」が「しない」を45ポイントも上回る時期がくる。

でね、そうなると出てくる疑問。

1.「改正する」が何%くらいになるときが、改正にふさわしい時宜なのか?

憲法改正には国民投票という手続きが必要で、その場合、過半数の賛成で改正となります。
過半数。
100人中49人が反対する案でも、承認されるわけです。

70年、変えずにきた憲法。
それはつまり、「70年、国民の多くが支持してきた憲法」だと思うんですが、
それを、2020年なら2020年、とある時期の国民のうち51%だけがOKといえば改正するってわけで・・・なんかそれって・・・?という気分になります。

いったん変えちゃったら、「やっぱ具合が悪そうだから戻したい!」とかできないわけでしょ。現実的に。国民投票、800億かかるとかいうしね。

でも、逆に考えれば、「自分の国が自分の主張と相容れない憲法を持っている」という人たちも、この国には何割か確実に存在してきたわけですね。70年。それもしんどいな、と思います。


2.憲法で変えるべきところはどこなのか?

当たり前ですが、重要な問いです。

改正に賛成/反対と、ひと括りでいっても、その内容にはかなりバラつきがあるのです。

番組でも、「待機児童とかの問題あるし変えるべきとこは変えるべき。平和主義とかは変えない方がいい」と言ってる「改正賛成派」の人がいました。
待機児童って、憲法改正して解決する問題なのか謎ですが…

今、メディアで言われている争点だけでも、

・家族の規定について。自民党案では「家族は互いに助け合わなければならない」としている

・天皇の位置づけ。今のまま「象徴」とするか。自民党案では「元首」と盛り込んでいる。

・武力攻撃や大災害に対して総理大臣が「緊急事態宣言」ができる、という案。
など、いろいろあります。

どこをどんなふうに変えるべきなのか、変えないべきなのか、1つ1つ考えていく必要があります。
 
もちろん9条についても、
・「戦力の放棄」
・「戦力の不保持」
・「交戦権の否定」

のうち、すべてを否定して改正したい人もいれば、
2項目は現状でOKだけど1項目だけは変えたいという人もいるでしょう。

あなたはどうですか?

ていうかさ、国民投票では、「改正案」にマルッと賛成か反対か、ていう二択なのですか?
改正案の○条は賛成、○条は反対、というように、条項ごとに判断できないと、非常に雑なことになると思うのですが・・・。
このあたり、知っている人がいたらご教示ください。


3.やっぱりすべてはつながっている・・・?

改正案が示されている条項は多岐にわたります。
そのひとつひとつについて、自分は賛成か反対か、どう思うのか、吟味しなければならない。

一言で改正したい / したくないと括れるものではなく、
その内容は実は人それぞれ違うもので、一人一人が自分なりの答えを探さなければならない。

というのはあるんだけど、一方で、
 
国会が発議する憲法改正案、
その変更箇所のすべてはつながっているのではないか
とも思います。
簡単に言えば、すべては「日本会議的思想」に貫かれているということです。
 
なんたって、首相はじめ、改憲推進本部のメンバーは「日本会議」に属しているわけなので。
 
・日本国憲法が発布された当初から改憲を主張してきた人々
・結党当初から憲法の自主改正を謳ってきた自民党
(中曽根康弘・元首相は、青年議員時代に「憲法改正の歌」の歌詞を5番まで自ら作詞し、今でも愛唱しているらしい!)
・そして、三島由紀夫の演説に感化された若者たちの流れを継ぐ「日本会議」
 
彼らが長きにわたり、草の根レベルから粘り強く続けてきた活動が今「日本会議」に結集し、強力に改憲を推し進めようとしている。

彼らが望む日本の姿とは何なのか。検索するとHPが出てきてハッキリと書いてあります http://www.nipponkaigi.org/about/mokuteki
 
(天皇を中心とする共同体)
・私たち日本人は、皇室を中心に同じ民族としての一体感をいだき国づくりにいそしんできました
 
・私たちは、皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有しているという歴史認識こそが、「同じ日本人だ」という同胞感を育み、社会の安定を導き、ひいては国の力を大きくする原動力になると信じています。
(現行憲法について)
・占領軍スタッフが1週間で作成して押し付けた
・自国の防衛を他国に委ねる独立心の喪失、権利と義務のアンバランス、家族制度の軽視や行きすぎた国家と宗教との分離解釈
(教育について)
・行きすぎた権利偏重の教育、わが国の歴史を悪しざまに断罪する自虐的な歴史教育、ジェンダーフリー教育の横行は、次代をになう子供達のみずみずしい感性をマヒさせ、国への誇りや責任感を奪っています。

・かつて日本人には、自然を慈しみ、思いやりに富み、公共につくす意欲にあふれ、正義を尊び、勇気を重んじ、全体のために自制心や調和の心を働かせることのできるすばらしい徳性があると指摘されてきました。
 
 わーお。
と、私などは思ってしまうのですが。あなたはどうでしょうか?

日本は天皇を中心としてまとまってきた国なのだと
天皇陛下万歳なのだと
全体のために我慢したり調和したりすべしと

それを子どもに教えるのですか
伝統だから、それを大事にするのですか

伝統には良いものも悪しきものもあり
時代の変化や人々の要請に応じて淘汰されるものですが

天皇を元首とし、全体のために尽くし・・・
それが本当に良き伝統なんでしょうか?

私たちは一人一人違う人間。感じ方も考え方も違う。当然のこと。
その心を一つにするとはどういうこと?
というか、心を一つにしなければならないのはなぜ?

日本らしい伝統的な姿。
さだめられた義務を諾諾と果たし
親や上司や為政者など、上位者に対して従順で、
余計な主張をせず、謙虚や忍耐や沈黙を美徳とする。

天皇を元首とする。
総理大臣に力を与える(安倍さんは、国会でもことあるごとに「私は総理大臣なんですよ」と言う)。
家族で助け合うことを憲法で当然のこととして明記される。

そんな国民を創生したいのは、
それは、
そのほうが、管理しやすいからだよね
導きやすいからだよね。きっと。

いやしくも21世紀の先進国の政治家とあろう者が、
しかも、かつて父の代に戦争の大惨事を経験している国の政治家が、
なぜそんなにも前近代的で時代錯誤な理念を堂々と掲げるのか、
本当に理解しがたかったんですが、
今回のNスペを見て、ちょっとつながりました。初めて。

諸外国とのかかわり方についての話です。

歴代内閣がアメリカとの関係にかなり重きをおいてきたのは自明で、
番組中で当時のアメリカ側の文書が紹介されていたように、
自衛隊のPKO派遣を始め、
沖縄の米軍基地問題や、集団的自衛権の行使容認や・・・
アメリカからの要請によって決まっているところも大きいのだろうと想像できます。

そのことに対する批判も数々ありますが(いわゆる“アメリカの忠犬”的な)
結局、 「武力を持たない状態で、どうやって国を守るのか?」
という命題に対する答えとして
「アメリカに頼る(だから、ある程度言うなりにならざるを得ない)」
を選んできたのが、戦後70年の歴史なのだと思います。

自民党の議員たちや、日本会議の幹部たち(両者がイコールであることも多い)は、
それが耐えられないとずっと思ってきたということなのでしょうか?
アメリカの要求をのんで国内の政策決定をし法案を通してきた人たち。
実は彼ら自身がもっとも、内心そのことに汲々としてきたのでしょうか。

戦後まもなくから
「GHQの押しつけ憲法を破棄」
「自主憲法でなければ独立国家たりえない」
「憲法を改正しなければ、自衛隊はアメリカの軍隊も同然」
と主張してきた人たち・・・。

アメリカに唯々諾々とならないために打ち込む楔が、
「天皇中心の強い国家」
「日本の古き良き伝統」
を謳う、自主憲法ということなのでしょうか?

いつか武力を用いるとしても
それはアメリカ様からの拝命ではなく独立国家日本としての意思なのだと。
自分たちで判断するのだ、と。

自民党議員の多くが日本会議に名を連ねているのも、そういうことなんでしょうか。
彼らは彼らなりの歴史観で信念を実現しようとしているのだと。

であれば・・・
アメリカは日本の憲法改正について、どういうスタンスでいるのですっけ?
日本が武力保持をおおっぴらに解禁するのは、彼らはもちろん歓迎でしょう。
アジアの安全保障について、自分たちの影響力はもちろん保ちたいけれど
実質的なコストは日韓それぞれが負担したほうが具合良いはず。
「天皇を元首とする」「日本の伝統の姿」という思想についての
アメリカ側の反応が知りたい。

報道で見た記憶がないのですが、私の不勉強ですか
あるいは、そういうことは内政干渉になるから不表明なのかも。
 
(つづく)

【“ママじゃない私” ポートレート】 やっぱり好きなことを伸ばしていきたい ~インタビューと写真、“ママじゃな” エミ編~

(facebookの投稿より)

今回は私がインタビューされました。まあなんだ、今の私ってことです。

友だち(フルタイム会社員のママ)がインタビューしてくれたうえに、草稿も作ってくれました。感謝。彼女曰く、私の「厚かまキュート」なところを出したかった、とのこと。

かつて、エロかっこいいとかキモかわいいとか流行りましたが、「厚かまキュート」ってなかなか良くないですか? 空気読みすぎず、共謀罪に怯えず、みんなで厚かましくいこうじゃないですか。ちなみに高橋一生の芸風は「エロめんどくさい」と命名しました。

だーいぶ前のことですが、facebook上にみなさんに募集した質問にも答えています。みなさん、その節はありがとうございました!

このインタビュー当日、自分では二日酔いだと思い込んでいたのですが、実際は軽い胃腸炎ぽいやつだったみたいで、この日含めて3日寝込み、1週間禁酒した(飲もうって気にならなかった)のもいい思い出……(子どもの遠足の弁当は夫が作った)。

それで後日、ちひろスタジオで再撮影してもらった分も入っています。皆さんお世話になりました。ありがとう!
 
※なにかしら、ご感想など聞かせていただければうれしいです!
メールフォームもあります→ moonshineをお読みの方へ
 

『おんな城主直虎』 第20話 「第三の女」

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直親ーーー!机バンバン
 
かつて、悲劇的な死を迎えたあと、ここまでゲスにクサされた登場人物(しかも主人公の元婚約者で二番手にクレジットされてたというのに!)がいたであろうかww
 
まあ、死んでから隠し子が見つかるって、時代劇では珍しくないシチュエーションではありますが、そのクサされ方がねw 当時、流れの中で通して見ていたら、心から発されたエモーショナルな言葉でそれなりに感動的であったのに、いま回想でブツ切りにして見たら、ひでーのなんのってw 
 
よくもまああれだけ、微に入り細を穿ちというか念には念を入れた演出するよねw OPクレジットに井伊直親(回想)って出てなかったから、あらっ新撮あるんだーと思ったら、しのに対する歯の浮くようなセリフだったというw 三浦春馬さんおつww
 
直虎も、皆に心配されての「我はそんなこと微塵も気にしておらぬ」の、ぶっすーとした仏頂面がよい。

で、気にしてないと言ってるのに、「直虎様は御出家までされたというのに、一生懸命修行に励んでおられる間に、直親さまはどこぞの女に笛を吹き、甘ったるい言葉をかけ、あまつさえ子までなして・・・・」って、みなまで言っちゃう、しのさんw なんという淀みない口舌ww これ、直虎への「ザマァw」って言う気持ちじゃなくて、天然で言ってるのがすごいわかるよね。そして、「首を洗ってお待ちなされませー!」貫地谷しほりサイコーだな!
 
直親スケコマシコノヤロー連盟で直虎としのが共闘することになるとは、なかなか想像し難い流れではないでしょうかw
 
しかし、直虎にしてもしのにしても、美しい思い出が台無しになったとはいっても、やっぱり直親はいつまでも心にいるのだろうね。故人だからなおさら。
 
 
直親。「おとわが俺の竜宮小僧になってくれるのか?!」の迷ゼリフがあったように、亀時代から「ちゃっかりマン」の素質は十分だったとはいえ、どちらかといえば口ベタで、それを象徴するのがあの笛の音だったりしたのに、なぜあんなに口が達者になったのか気になるなー。
 
 
逃亡潜伏時代のことにはあまり触れないまま死んじゃったなーと思ってたけど、ここで娘は出て来るわ、娘の母の「ユキ」は出て来るわ、松岡さまの名前も出てくりゃ、そこに南渓和尚・不義の子疑惑の話まで出てきたわで、この先まだなんかあるのかもしれない。亀のエピソードも。
 
 
高瀬。ていうネーミングがまたいいよね。水に関する名前。高瀬って、浅瀬って意味だよね。井戸は深いものだけど、それに対応してるような名前。名前だけで怪しいヨ!
 
常慶を見て、含みのある顔をしてた高瀬ちゃん。なんかあるんだろうね。虎松が高瀬に挨拶を渋ってたのはもしかして、人見知りとか、異母姉へのわだかまりとかじゃなくて、何かを見たり、話されたりしたのかな。
 
それでも、高瀬はまだ子どもで、もしこの先の運命がどうだとしても、今日の回を見る限り、なんていうのかな、不当に貶められたりはしなさそうでホッとする。
 

 
「当時の状況を鑑みて、直親に女がいてもやむを得ない」「ていうか当時の倫理観的にはおかしくないし」「現状、井伊に血筋の者が増えれば使えるし」っていう理屈はみんなが共有してるうえで、「でも直虎さまの気持ちを思うといたたまれないよね・・・」ってなってるみんなが面白かったw 之の字や六左どころか、こう天、傑山までが気を使ってたもんねw
 
みんなが「直虎を思いやりつつ娘を確保する」だったのに対して、「直虎の心情のために娘を放り出す」案を囁いたのが政次。理性的なのは前者ですw 政次ったら! 
 
直親に娘がいたと知ったときの政次の動揺っぷり。おとわ、どんなに傷ついてるだろう・・・とか、直親てめー!!・・・とか、いろんな思いがよぎったでしょうね。だからとっとと、おとわに誠心誠意の甘い言葉を囁いてくっついときゃよかったんだよー!って思うけど、それができる政次じゃないのよね。
 
高瀬の鼻歌を聞いたときの2人の顔。時が止まり、ふっと過去につながったような。この旋律を知っているということはきっと亀の娘で間違いなくて、それはおとわにとって切ない話で、でも、悲しいだけでなく懐かしさやうれしさや・・・なんともいえない表情に見えた。
 
「直親が寄こしてくれた忘れ形見」その言葉は単なる建前や強がりじゃなかったと思う。もう二度と聞けないと思っていた旋律が蘇る。故人が遺していったものが見つかり、目の前にある。そのことの不思議と、有難さを感じた直虎の顔だった。そしてそんな直虎を見つめる政次ね。
 
鼻歌を聞いてから、「われの娘じゃ」までの直虎はとても綺麗に撮られていた。メリハリのある撮影演出なのよね。
 
直虎と政次、夜の囲碁。くーっ、作り手はわかってるね! 短いシーンで、色っぽいことは何もなくて、とどめが「いつでも降りていいですぞ」の一言。こーゆーのが欲しいんだよね!!
 
 
方久ってムロさん成分の強い演技で、大河らしくないと思う向きもあるかもしれないけど、大河ってそのときどきの人気者を集めてかなりごった煮にするのが昔(昭和の終わりごろ)からのお決まりだと思ってる私には面白い。てか、ムロさんがムロ味を存分に出しちゃうくらい人気者になってるのねーとしみじみする。
 
方久が今川をへーきで思いきりこき下ろす様子は、かつての井伊の者たちが今川に腹を立ててるのとはちょっと違う。おじじ様たちは、今川に抑圧され使われている者たちの反抗だった。方久にとっては、今川なんかドーンのパーンのブーンで、こっちからポイッと捨てちゃえる。最初からそのシステム・安全保障の傘に入ってない周縁の者の強み。
 
それが、気賀という商人の町にいた旅の男=柳楽くんと同じで、そういう者たちが蠢動し世の中のシステムをワヤにしてのし上がっていくのが戦国時代で、「直虎」世界ではこれからがその本番なんだろうな。ここで初めてその名が出てきた「織田」も、このドラマでは「周縁から出てきた者」という存在なのかも。
 
家康、久しぶりに出てきたけど、相変わらず全然わかんねーな。器が大きいのか小さいのか、何考えてるのか、さっぱり読めない。
 
その場限りのちょっとしたたとえ話にしては、イヤに印象的すぎる南渓和尚の不義の子疑惑。何?どこかにつながっていくの?この話。ていうか、だとしたら、妙にインモラルな雰囲気を漂わせていた佐名様と南渓だが、この2人はほんとは兄妹じゃないってこと? それとも、佐名様も南渓と同腹で、出生の暗い秘密を共有する兄妹だったということだろうか・・・?