Nスペ『日本国憲法 70年の潮流』を見て雑感(後)

f:id:emitemit:20170525102054j:plain ←純金メダルだそうですよ。お値段1,080,000円!

 


アメリカに唯々諾々とならないために打ち込む楔が、
「天皇中心の強い国家」
「日本の古き良き伝統」
を謳う、自主憲法ということなのでしょうか?
 
いつか武力を用いるとしても
それはアメリカ様からの拝命ではなく独立国家日本としての意思なのだと。

 

でも、どうなんでしょうね。そのやり方は。
たとえ、日本の自主独立を推進するための方策だとしても。

私が日本国憲法に見るのは、私たちが歴史から学んだ財産です。

民主主義や、個人を尊重する人権意識、
そして武力を用いない解決への思いこそ、
先人たちの多くの犠牲や格闘から生まれ、獲得されてきたもので、
「歴史に敬意を払う」というなら、まずもってそこに対してだろうと思うのです。

日本会議のメンバーや、イベントに参加した人へのインタビューでは、
幾人もから異口同音に
「日本の良さを伝えていかなければ」
「日本の良さを知らないまま大人になっている」
というような言葉が出るのだけれど

彼らが非難する、戦後の個人主義(彼らはそれを利己主義だという)や、
核家族化の進行は、教育や思想の問題というより、
世界的な産業構造・経済システムの変化によるところが大きいはず。
それを、憲法改正でどうこうしようとするのは
私にはあまり知的な行為とは思えません。

そして、国民に、若者に、子どもたちに
日本の良さだけを伝えるのはとんだ片手落ちです

子どもたちに天皇陛下万歳と唱えさせるならば
「バンザイクリフ」のこと
戦時下の生活、思想の統制、
沖縄で一般市民がどんな戦いを強いられたか 
特攻隊のこと、植民地支配のこと・・・それらもすべて教えなければならない。

そういったことを教えずに
美しい国だ、天皇陛下万歳とだけ教えるのは卑怯だし
無知というおそろしい事態を招くのではないでしょうか?
 
というか、日本会議HPでは「かつて日本人は、自然を慈しみ、思いやりに富み、公共につくす意欲にあふれ、正義を尊び、勇気を重んじ、全体のために自制心や調和の心を働かせることのできるすばらしい徳性が…」と書かれてるけど、
かつての日本人も、先の大戦はおいたとしても、当時の技術の範囲内でバンバン木を切り倒したり海を汚したり、源平や戦国の戦乱は言うに及ばず、民衆側だって、古くは土一揆や一向一揆、近代でも日比谷焼き打ちを始めとする明治大正の都市騒擾事件や地方選挙での流血の争いなど、その時代時代でけっこうめちゃくちゃやってきた歴史あると思いますよ。



武力について周りが持つから自分も持つのか
恐怖のゲームに同じ土俵で参加するのか

「武力を持たない」というのは押しつけられたのではなく、
人々が膨大の犠牲を出し、血を吐き餓えに苦しみながら掴んだ信念と知恵なのではないですか?
もう二度と、(自国にも他国にも)犠牲を出さないためのストッパー。

アフガニスタンやアフリカなど紛争地域を渡り歩き、
国連の職員として「武装解除」の仕事をしてきた伊勢崎賢治さんは、
「世界にアピールするための9条を」と中高生向けの新書『さよなら紛争~武装解除人が見た世界の現実』に書いていました。
 
世界にアピールすることもなく、なんとなく内輪だけで議論して、そのあげく都合のいいように改定してしまうというのは、おかしいと思いませんか? 一度ぐらい、世界平和に貢献するために9条の考え方を広めようとチャレンジしてみてもいいはずです。
日本は、憲法9条が持っている潜在能力を1%も生かしていません。戦略的に広告できていないのです。

戦争も紛争も、広告や宣伝(プロパガンダ)が世論を誘導して現実化していくもの。
ならば、それを逆手にとって、広告の力を戦争回避や平和に使うべきだ、というのです。

憲法9条は、私たちは誰も憎まない、誰も傷つけないという宣言。
武力で解決しない、成熟した国民であろうとする意思。

そのためには、本当はすごく勉強して、考え続けなければいけない。
自分の主張をしながらも、相手の立場も尊重し、想像し、粘り強く交渉する能力が要る。
国会で感情的になるとか、強行採決をするのとは、まったくベクトルが違うことです。
 


一方で、
「自衛隊の位置づけ」
というものについて、このままでいいわけはないと思います。

憲法を変えるか変えないか以前に、私たち国民が自衛隊をどう規定するかという問題です。

軍であって軍でない自衛隊。
海外派遣も「平和維持活動」のため。
殺すために行っているのではない、戦闘には参加しない、
それがPKO派遣の最初のころの建前だったけど。
役割はどんどん拡大していきました。

かつてカンボジアPKO派遣(1992年)ではあれだけ紛糾したのに
ソマリア沖で「国益を守るため」海賊対策の活動をすることになったときも
南スーダンにまで行っても、
そこで日報が適当な扱いをされたり
「駆けつけ警護」任務が付与されたり
「戦闘ではなくて武力衝突です」と言い換えられても
ほとんど世論は盛り上がりません。

幸いというべきか、南スーダン部隊は帰国となったけれど、
相手が押し入ってくれば何らか対抗しなければならなかった。

殺されたかもしれない。
殺したかもしれない。
どちらに対しても準備がない、きちんとした法律がないままで行っているのです。

このままどこまで任務を拡大するのか?
そのことに対する国民の冷淡さ。
それを利用した政府のなし崩しの方策・・・。

国民が考えなくなった、意思表明しなくなったから、
自衛隊の海外任務はここまでよくわからないことになってしまっているのでは?

有事に際して自分たちが武器をもたないなら、どうやって守るのか
代わりに外国人に守ってもらうのか?
「日本の平和を守るため」に、何を、どこまでやる?

堂々巡り 袋小路
それでも考えなきゃいけない
今まで考えずにきてしまったのですよね。

伝統を失ってしまったと言うけれど、
移り変わる季節や自然の恵み/災いを粛々と受け容れるように
物事をあまり考えずにきたのは、非常に伝統的な日本人の姿のようにも思います。

「改憲は国民が主役」「国民の議論を期待」
と、首相は言っていました(5月、中曽根元首相の白寿祝いの場にて)
それはそのとおり。

だからそれを国会で言えばいいのに。
日本会議宛のビデオと読売新聞のインタビューだけで応えて、
国会では答弁しない首相。

もしかしたら、国民の賛否を喚起するための演出なのでしょうか?
いや、国民の反応を見ているのでは?
ここまでやっても国民に議論が起きないのであれば
彼らは思うままに改憲案をつくる。つくれる。

そして
「家族の絆」「生活をもっとよくしよう」のような、
ふわっとした、何となくの「いい言葉」に惹かれた人々が投票して決まってしまう・・・。

番組で流れた、英米法学者・高柳賢三の言葉を紹介します
「憲法改正というのは、子孫に長く伝わる問題で
 これを我々現代住んでいる人だけでもって軽々しく決めると
 とんでもないことになる恐れもある。
 慎重に取り扱わねば 将来の国民に対してすまない」
 1957年、自主憲法制定に向けて、内閣が設置した憲法調査会の会議での発言です。
ちなみにこのときの内閣総理大臣は岸信介。安倍首相の祖父にあたる人ですね。

高柳賢三の言う通りで、
私は、ふわっとしたイメージからの国民投票で憲法改正が決まってしまうのはイヤだなと思っています。
そりゃみんな、自分の生活だけで毎日忙しいでしょうが
もうちょっとは話題になって、考えてもいいんじゃないかと思います。

子どもたちに伝えたい「大事なこと」は何なのか?

メディアには、冷静で知的な情報提供と関心喚起をお願いしたいところ。