『真田丸』 第26話 「瓜売」
天下統一したからこその唐入り。人には仕事を与えねばならないから。全国の兵が集められ、大金を使って城を築き渡海。半島で命のやりとりが行われる一方、肥前では茶番極まりない催しが。何という落差、何というバカバカしさ。天下泰平って何なのさ、全然すばらしくないやんと思わせる。#真田丸
唐入りを秀吉の狂気ではなく限界として描いていて、とても腑に落ちた。太平の世で多くの侍に仕事が必要なのは真理。それは理解していても、具体案が唐入りになり、士気の低さを悟っていてもどうにもできないのが豊臣政権の弱さ。続く徳川幕府は新しい社会システムを巧緻に作り上げる #真田丸
「これも戦じゃ」と昌幸は言ったけど、自分の領土を自分で守るために戦っていたあの頃とは違う。太閤の下知ひとつで海を渡り異国を攻める。太閤より芸達者ならば披露は許されない、そんな尊厳のない世界。秀吉自身も己を見失いかけている。あそこで茶々を身ごもらせたのは誰なのか? #真田丸
城の奥深い暮らしから全国の武将の集まる肥前に連れ出し、気分を変えよと。それは半分、公認したということ? 政権の安定化のため、もう一度、茶々が世継ぎを生むことが必要だと。序盤の秀吉と茶々は目も合わせず言葉も交わさなかった。無事のお産でも、なお硬い表情の大蔵卿局… #真田丸
飲み会のダブルブッキングや宴会芸に辟易する信幸。かつて昌幸に「乱世が終わったら、あいつの時代」と評された信幸は、秀吉の作った太平の世にまったく馴染めてない。上に媚びへつらったり、うまく立ち回ることのできない信幸のような男が真価を発揮できる時代はまだ先。#真田丸
とはいえ、今回の信幸は平八郎に嘘を見逃され、うまく立ち回れたのだと思う。いくらなんでも、おでこゴチンまでしといて酒と白粉の臭いに気づかないはずない。自分の面目もあれど、平八郎は信幸をかってるんだろうと思う。信幸のまっすぐさは着実に通じていってるんだよね。 #真田丸
真田家、心はひとつ!…とは、簡単にはいかないわけで…という、稲&おこうや、信繁&すえの描写。「怠るな」って訓戒がすごくよかった。失わないため、守り抜くためには、いつも怠らず励まねばならない。大変だけどそれが生きるってことなんだ。とりさんの風格とユーモアで自然と腑に落ちる #真田丸
先は読めない、大事なのは己のさだめというおばば様の言葉に、自分本位で生きることの大切さを感じる。おとり様の生きた長い時代、真田家はずっと大変だったんだもんね。時代や政権や上司など、環境に理由を求めたり振り回されず、己の道を生きること。己のための戦ができない時代になっても。#真田丸
あれだけの側室を従えてなお、きりを求め、しかも無理強いせず辛抱強く待つ秀次に逆に闇の深さを感じる…。そしてきりが言下に断らず、上田で決断したあともまだ保留し続けているのは、秀吉から離れられない信繁との相似形なのか。やるせない表情ばかりのきりちゃんはやるせないですな #真田丸
真田家のとり、豊臣家の寧というゴッドマザーが描かれる中、今日は、春・たか・すえという真田信繁に集う女たちが全員出てきた回でもあった。これからの後半、きりは真田信繁家のどんなゴッドマザーになるのかな。きりは、とりにも寧にも仕えたことがあるね。#真田丸
佐助、泣くこたぁなかろう(笑)
面白エピソードのはずのやつし比べが・・・なんて虚しい結末だったでしょう。張り切る者がいて、出場できない者がいて、ともあれ皆社長のの接待パーティのつもりだったのに、接待されている本人が実はその虚しさ徒労を悟りきっていた。
「士気などとうに下がっておるわ」 この一言の威力! けれどどうすることもできない。天下統一、虚しい。虚しすぎる。もはや誰もが・・・秀吉本人さえも、「天下統一された世界」に身を捧げるしかない。その中身はほとんど虚構というか空っぽというか。秀吉政権が過渡期であることを強く印象付ける。
足掻きながらもたくましく生きる人間たちの姿が描かれるドラマだけど、同時に「時代」「時代の移り変わり」を描こうとする意思も強く感じている。信長が滅び、大坂にこれまでとまったく違う秀吉政権が樹立して、やがて北条が滅び千利休が滅んで天下統一が成っている。時代は着々と移り変わっている。しかし未だなお、過渡期である。という今。
時代の激動が描かれていく中で、信繁兄弟の祖母にして真田家のゴッドマザー・とりがこの世を去るにあたり、「そんな時代に翻弄されない個」を語った。物語に打たれた楔、ここから大きな転機だな!
武田滅亡以前の真田の興亡について、ドラマは多くを説明しない。説明せずとも、「長い激動を雄々しく生きてきた戦国の女」としての存在感を草笛光子がばっちり醸している。そのとりが、死を前にしながら(ナレーションが物語を語ろうとするのに抗して!)堂々たる立ち姿と声音で言い遺したのは、時代を超越し、物語すら超越しようとする、この物語のシャーマンのお告げのような言葉なんだろう。
人はみな、さだめを持って生まれてくる。早いも遅いもない。己がさだめに気づくかどうか。
「さだめ」とは、もともと、天から与えられるような、不可避・必然なニュアンスの言葉だけれども、ここでは同時に「自分で決めるもの」という意味合いがあるようにも感じた。時代のせいにせず、環境のせいにせず、逆境にあっても己がさだめのために生きる。「真田を守り抜け」と行ったのは、それが戦国に生きる者の自然な姿でもあり、それがとり自身の「さだめ」であったということだろう。
「見ておるぞ、ばばは。怠るな」という声かけがよかった。先に逝った人が天から見ている。その人に恥じないように生きる、というのは日本人らしい死生観で、「怠らず生きる」というのは天に恥じない・・・それは、己に恥じない誇り高い人生を示しているように思える。天と己がイコールで結ばれるような感じをイメージした。そういえば氏政も家康・景勝・昌幸に対して「見ているぞ」のようなことを言っていたね。
時代を描きながらも、時代に押し潰されない兄弟の姿が、これから描かれていくんだと思う。まだまだ、時代の波間に消えていく人人がたくさんいるけど。というか主人公こそ、そういう類の人としてこれまで認識されてきたわけだけど。
これまでにも、兄弟2人並んで里を見下ろすシークエンスが何度かあった。2人が違う道を選ぶとき、きっとまた繰り返されるんだろうね(泣)
てか、やつし比べ面白すぎたんだけど(笑)。ああいう場面は、三谷さんはさらさらっと書くのかなあ。それとも腕によりをかけて念入りに仕込んでいるのかなあ。クドカンが「潮騒のメモリー」の歌詞を5分くらいでサラーッと書いた、みたいなこと言ってて、ああいうのってセンスなんだなーと思った記憶があるけど。
作り手も、視聴者の私たちも、内野さんの見事な腹作りを声を枯らして称賛したい。そんな感じでしたね。昌幸パパの美しすぎる&美声すぎる瓜売りも良かったし、小日向さんが売り口上始めたときにはひっくり返りそうになった(笑)。見ている堺さんの表情もいいし、「殿下はご自分を見失っておられます」三谷さんのセリフも冴えまくり。
印象的だったのは、兄弟2人してばば様に向かって「時代」について問うんだけど、同じ危機意識を持つに至る過程は対照的なんだよね。信繁は、秀吉を見たり、三成や刑部と話したり、実際の仮装大会での人々の様子など「外」のいろいろを見て、感じ、判断してる。信幸の心を揺さぶったのは(家康とも話したけれども)とにかく「父・昌幸」の瓜売騒動一部始終。いつもながらにそこは徹底されてるなと思った。信繁は自分の目で広い世界を見てる。信幸はいつも、父の姿を通して世界を見てる。であれば前者のほうが断然有利っぽいのに、2人の視野の広さや見通し能力にはほとんど優劣なく、むしろお兄ちゃんはなんだかんだいっていつも時代の先を見ていて、しかも生き残るんだよね。
もちろん秀次の乱高下もつらかったけど(新納さんほんとうまい!)やるせない顔ばかりのきりちゃんもなんか切ないなー。茶々に執着される(そしてなんだかんだ言って自分も気になっている)信繁と、秀次に執着されるきりちゃん(なんだかんだいって離れられない)きりは、今んとこパラレルなんだな。となれば、本来のウザさがなりをひそめてるきりちゃん同様、秀吉や茶々のそばにある信繁もやはり本調子じゃないのかもしれない。
いや、きりちゃんの「秀次さまはご自分の話ばっかり」はさすがだったけどね。身分差考えればあったりまえだろ! しかし身分柄、自分の話をいくらでも聞いてくれそうな側室を山ほど抱えながら、きりを求める秀次ねぇ・・・。
物語が折り返しまで来たのに、主人公(今作では兄も含めていいだろう)がまだ自分の家族をしっかり作っていないって、すごく珍しい大河だと思う。信幸にも妻2人いるけどどちらともおさまるべきところにまだまだおさまってない。もちろん、意図的な作劇なんでしょう。今回、とりの逝去と時を同じくして、稲とおこうが同席し、春・たかという信繁の妻になる女たち、そして娘のすえも出てきた。これからその辺もしっかりしなきゃね!って感じに描かれるんだろうなー。楽しみ。
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『とと姉ちゃん』 第13週 「常子、防空演習にいそしむ」 ツイートと追記: 二項対立ではない世界
昭和15年の出征と昭和19年の出征とは違う。「カーネーション」でもやってましたね、勘助(1)の出征のときと、勝さん(だったっけ?糸子夫)のときと、泰蔵兄さんのときとの違い……。本音と建前が違うのも。「ごちそうさん」の源ちゃんのときも。#とと姉ちゃん
のちに「みんなが自分の暮らしを大切にすることで戦争のない平和な世に」と願って創刊される「暮らしの手帖」だけど、「自分の暮らし」に集中するのは難しいね。人は周りを見ちゃう。周りにも笑わないことを強要したり、周りが苦しむのを見て自分も何か差し出さなければと思ってしまう #とと姉ちゃん
全然面白くないと思いながら戦意高揚の文章を載せ続ける常子たち。鞠子のように「ご時世だから」と肩をすくめる読者もいれば、三宅さんのようにそれを支持する読者もいるのかな。検閲以前に、戦意高揚でない記事が載れば、三宅さんのような読者から激しいクレームがくるんだろうな。#とと姉ちゃん
仕事があるだけありがたい、みんな我慢してるから私もしなくてはという状況は今とさほど変わらない気もする。それぞれに事情があると思いやりすぎて、受け入れて、自分を犠牲にするだけでは現状は何も変わらないんだよねぇ。 #とと姉ちゃん
よっちゃん手先器用なんだからおもちゃくらい作れそうだけど、これはまだ青柳が看板おろす前に模型作って遊んだ中に美子がいた話と対になっている…というか、そういう余裕がないんだよね、美子自身に。それは物書き志望の鞠子が万年筆を食べ物に交換しようとするとこにも出ている #とと姉ちゃん
そんな中でふかし芋の弁当に花にんじん添える君子は気遣いや余裕を失ってないというあたり、これが骨の髄までお嬢様だということの強さなんだなーと思うわけで #とと姉ちゃん
余裕が無ければ工夫は出来ない、という描写が徹底される中で唯一描かれた工夫が、君子さんが詰めた可愛らしいお弁当。君子さんみたいな人もいていいんだよ、と繰り返し描かれている所、好きです。(基本的には君子さんに対する見方がむしろ厳しい脚本だと思ってるけど) #とと姉ちゃん
帰り道で泣くよっちゃんに寄り添い、嘆きつつも奮起する鞠子に寄り添い、空襲のあと自信喪失する鞠子にも寄り添って。防空壕の中での見開いた目といい、今日も常子の「見つめる」表情が印象的。森田屋や青柳の終焉のときといい、今の常子は多くを語らないけれど、つぶさに見ている。#とと姉ちゃん
食べ物を手に入れるために長距離往復して、それでもあんな食事で、工場の仕事もあり、夢を追えず、何よりそれがいつまで続くかわからない。心身共に疲れきって普通の状態じゃないよね。あの短距離で脆くも転ぶのも、足挫いてあんなに落ち込むのも、普通の状態じゃないって表れでつらい #とと姉ちゃん
「この状況がいつまで続くかわからない」のが人間にはすごくつらいんだよな。子育てや介護や職場環境や人間関係、続く余震や家に帰れない状態…何でもそう。トンネルの終わりが見えないから鬱になる。だから防御本能的に慣れようとするんだろうけど、そのための努力や犠牲もつらい #とと姉ちゃん
組長の三宅さんのように、戦場の家族を思い自分を鼓舞して何とかやっていった人もいるだろうけど、ここまで長引き悪化した状況では早く終わってほしいと願うのも当然だと思う。衣食住に始まり日常すべてが奪われてるから。戦争が始まる前に平穏な日常を過ごせていた人なら、なおさら。#とと姉ちゃん
同じく戦争経験者でも、物心ついて以来戦時中で最初に受けたのが軍国教育だった世代と、そこそこ自由な子ども/若者時代を謳歌した世代でも違うし、家族が出征したか否かでも違ったり、昭和15年は意気揚々と万歳してた人も19年では疲労困憊で厭戦的になってたり、いろいろだと思う #とと姉ちゃん
そんないろんな人がいても、建前としては皇国万歳で、疑問を感じても人の目や耳があるところでは口にせず、考えないことにしてやり続ける自分の仕事が実は戦争に加担していて、そんな何千万もの国民の動力で戦争が続いていったのがとても怖いところで、普遍性もあるとこだよね… #とと姉ちゃん
よっちゃんの悲しみ、まりちゃんの悲しみが描かれたあと、あまりに非日常な日常でも何とかやっていこうとしてる中、突然の空襲警報、走って逃げて寿司詰めの防空壕で感じる爆音や着弾、みんなどんなに怖かっただろうどんなに長く感じただろうと胸が詰まって思わず涙が #とと姉ちゃん
今日のとと姉ちゃん、昼ととーる前に書いておくけど。「仕事を選ばなかった常子」が、ついに「自分がしたくない仕事(お金を稼ぐための仕事であっても)は、したくない」って言葉にしたのは、しかもそれが「奪っていく戦争の否定」という形だってのは、書いて残しておく
戦争を内心で相対化して作品にする気概を持てたのは、室井さんたち「ごち」第一世代がそのときすでに人生経験豊富な中年だったからっていうのもあるよね。鞠子のは、土台となる思想や精神を平和な時期に築けなかった若い世代ゆえの弱さとか不安とか迷いみたいな感じもして、可哀想だなあと思う。
RT 今まさに室井さんとか悠さん世代の私。中年としてやるべきことってあるなぁ、って思った。
いろんな「本当と嘘」「本物と贋物」をやってきた #とと姉ちゃん。戦争末期の今、何が本当で何が本当じゃないのかわからなくなってる。優しいお隣さんは密告者かもしれない。組長の胸にも実は不安や心配があるんだけど、勇ましく強圧的な煽りを続けるうちに何が自分の本心かわからなくなってそう。
食べるものがなく、おちおち安心して眠れず、家族の安否も知れず、自由な発言も思考も奪われると、強い者に従って生きていくしか方法が見つからなくなるし、何が本当で何がそうじゃないのか判断がつかなくなる。自分の気持ちすら見失っていくんだろう #とと姉ちゃん
でも順番はどっちなんだろう?とプロポーズ週を思い出す。「言葉が状況を作り出す」乳繰り合いのくだりや神国日本、兵隊さんは頑張ってる、一億火の玉…。間違った言葉で糾弾したり大仰な言葉で煽ったり。みんなでウソの言葉を使い続けたから、戦争末期まで突き進んでしまったのかも。 #とと姉ちゃん
「貧すれば鈍する」の矢印でなく、鈍したから貧した可能性。それが念頭にある人が、「私は私、あなたはあなた、みんなそれぞれ自分の暮らしを大事に」「嘘をつかない」って雑誌を作るんだろうなって #とと姉ちゃん
女だけの防火訓練は、第2週の男たちの訓練と比べると当然遅く弱々しい。女は男の劣った代用品だ、とまざまざと見せる図。年かさの編集長や近眼の五反田は、足りなくなった若く屈強な男たちの代用品として徴収される。「おまえは誰かの代用品」そんな扱いってあんまりだよね。私は私 #とと姉ちゃん
戦争末期の家族でここまで和やかなのは珍しい。多分この家には昭和の父がいないからだ。竹蔵の心が生きていて、穏やか過ぎるいささか物足りない君子がいるからじゃないかな??もし君子がいなかったら常鞠はもっとギスギスしているし、美子は家出するかも。君子の特性に気が付きにくいが尊い
終戦前の描写ではマッサンとマッサンエマもギスギスしたし(ラブがテーマの作品)、西門家は解決策を積極的に模索し和枝ちゃんの家に行く。め以子の虚ろな期間もあった(食べ物とめ以子の人生)。糸子も疲れ切っていた(洋服そっちのけの時期)。
ゴチでは食と家族(め以子の大事なもの)が戦争で奪われ、カーネでは体力と家族と服とプライドが失われ(糸子が突出して高い能力)、ととねでは日々のささやかな生活と市井の人の中にあるその人なりの矜持が失われている。め以子や糸子に比べて常子はまだ年若く、また失われるものもささやか
親が子供のおもちゃやささやかな希望を取り去ったとしても、さして事件にならないように、年若い常子と小さな小橋家のささやかな心とありようが失われてもさほど気が付かず、戦争の描き方が生ぬるいというのは、たしかにあるあると思う。 URL
2016-06-29 09:15:48 via twicca to @yamada10th
コサージュ返したり、怒鳴りはしても殴らなかったり、三宅は元は暴力的ではないのだろうが、要はお上に与えられた権力が拠り所の小心者だ。配給しないぞと脅したあと、今日は大目に見てやると優しげに言ったときDV みたいで吐き気がした。 #とと姉ちゃん
三宅さん個人よりも、情を免罪符に理不尽な現状をしょうがないよねと受け入れる「空気」の方がどうなのと思う。私たちの多くは弱くて、力を与えられると三宅さんのようになるかもしれない。でも他人の命を害するラインを踏み越えた言動を力のない常子が咎めたことを、冷笑するほど弱くはありたくない。
充希ちゃんの演技が毎朝見られるのもあと3か月なのねぇ。オノマチの骨太図太い演技にも毎朝目を瞠ってたけど、充希ちゃんの常子のニュアンスあふれる演技も実に味わい深くて好き。私の中で忘れられない朝ドラヒロインになるだろうなー。いや常子はこれからが本番なくらいなんだけどw
常子がこれまで星野や森田屋や滝子たちを思い出す描写がなかったのは、彼らとの別れがすごくつらかったからだと思ってる。人はものすごくつらかった思い出を本能的に封印するとこあると思う。悲しみに浸るのではなく、家族を守らなければ進まなければと思う常子だからなおさら。#とと姉ちゃん
滝子との別れの直後、新居でおどけて見せたように「大丈夫、私がみんなを守る」と踏ん張り続けてきたけど、妹たちの嘆き、空襲、五反田出征、防火訓練。心が折れたんだと思う。家族の心も潰れかけてて悲しみを共有できない。卓袱台を囲んでいても孤独で、ついに遠くの人々を思い出した #とと姉ちゃん
ささやかだけど今では貴重な楽しみ、それがダメになる悲しさといったらないよね。一夜で黒焦げになった小豆たちは個の隠喩でもあるんだろな。1つ1つがつやつやほくほくしてた小さい粒。#とと姉ちゃん
三宅さん無双に対し、昨日の回で鞠子に「まっすぐすぎる」と言われたから常子は二の句をつぐんだ。常子に「臆病」と言われたから鞠子は言い返した(論理的に角を立てず喋れるのはもともと鞠子)。結果的に三宅さん撤退。やっぱり一人では解決しないのが #とと姉ちゃん で、やっぱり常鞠コンビは強い
あの時のとってつけたようなw 3姉妹誕生パーティがここにつながるのか。昨日の回想もそのシーンだったね。8年ほど前のこの時期、森田屋も青柳も星野も綾も皆集まって、酔って騒いでおはぎ食べて、常子は皆に感謝の辞を述べ、就職してついに経済力を得られる希望に燃えてたんだよね。#とと姉ちゃん
戦時中の描写には、絶対これが正解というものはない。スタッフがこう描きたいというポリシーがあることが大事なんだよ。#とと姉ちゃん
最近のTLざっと見てるだけでも、「戦争描写が見てられないほどしんどい」という声もあれば、「この程度では生ぬるい」という声もある。先の戦争関連の描写って、人によって感覚や考え方がものすごく違うところなんだろうなと思う。#とと姉ちゃん URL
あまちゃんは震災から2年後で、被災の程度に差はあっても日本人皆ある一定のライン以上のつらさを味わった状態だったから、ドラマ内での震災について「これぐらいの描写が適正だよね」ってゾーンを何となく共有できてた気がする。こういう怖さリアルだよねとか。直接描きすぎない方がいいよねとか。
一方で、先の戦争については、今では皆ほとんど自分では経験していないわけで、さらに年代や地域、見たり読んだりしてきた作品など、「戦争はこういうものだ」「こう描くべきだ」って感覚も、「こういうの見るのつらい」のラインも、かなり個人差が大きくなってるんだろうなと思う #とと姉ちゃん
そのあまりにも広い個人差のレンジ全てに配慮した創作は不可能で、作り手は各々のポリシーで作る、受け手は自由に見るしかないと思う。我慢して見ろなんて作り手は誰も言わないよね。辛いなら見ずに自分を守るのも大事。でも戦争のことは誰かが何かの形で伝え誰かが受け取っていかなきゃならん面もある
竹蔵の死や星野との別れ。常子が心底悲しいとき抱いて泣かせてくれたのは君子だった。娘たちの怒りやケンカすらも(良くも悪くも 笑)ギリギリまで見守ってる君子が、悲しみの涙とはいえ家庭内での自由な感情を封じるっていうのは、本当に非常時なんだなって思う #とと姉ちゃん
ただ朝ドラの制作側を勝手に想像すると、やはり各地での震災等で直接被害を受けた人も大勢いる今の日本だから、燃えるとか轟音・振動、瓦礫の山みたいな、視覚聴覚に直接訴える描写は避けてるんじゃないかと思う。とと姉の場合は今後暮らしの雑誌を作るわけだから今の描写は作風にもあってると思うし。
とと姉の感想見てて思うのは、昭和19年20年、もはや尋常でない生活状況ってのをあんまり感じてない人も多いのかなって。これも、ドラマの描き方が悪いんだろうか? 食事が満足にできない、夜も空襲警報でおちおち寝られないってのは割とちゃんと描かれてるんだけども。
ろくに食べられない、警戒警報で防空壕を往復してろくに寝られない、実際に空襲の死者も出てる、それだけで人間、精神的におかしくなるのには十分だよね。それが何か月も続いてる。ほどほどの繋がりの知人友人を心配できる状況とはだいぶ違ってもおかしくないんじゃないかなと。
たとえは悪いけど、今年の4月、大分の人が、自分とこもひっきりなしに揺れてる状態で、熊本在住の知人友人にサッと思いを馳せないとして、それを責められるかな? 非常時ってそういうことでは? ましてドラマの時代は情報インフラも異なり、天災と空襲も違う。自分も本当にいつ死ぬかわからない状況
そんな戦争末期でも、たとえば家の中では笑ったり冗談を言ったりするときもあった。ってのも多分本当にあった思うし、同時に、ろくに食べられず寝られず空襲に怯える毎日で、あとで思えば異常な精神状態だった。ってのも多分本当だと思う。両方あったんじゃないかな、と思うけど。
今まで特に理由もなく理不尽にいじめていたアノニマスな人たちに対して、三宅さんが「顔の見えるいじめっこ」なのは、常子(や三姉妹)の成長に合わせてるんだと思う。「お国を守るために戦争をしなければならないのは仕方ないことです」もいじめっこ側の理屈もわかるってこと。 #とと姉ちゃん
とと姉ちゃん「飾るなら『贅沢は敵だ!』だろう」のシーンに強烈な違和感があった。何故なら私が見てきた戦中もののお話では『』には御真影や教育勅語が入るのが定番だったから。そこに標語を置き「進め一億火の玉だ」に四方八方取り囲ませる事で、一般市民の責任について描こうとしてるようにも見える
「飾るなら『贅沢は敵だ!』だろう」はあちこちに貼ってある「進め一億火の玉だ」とあいまって、多分「言葉(標語)」というものの怖さを描いているんでしょうね。花山さんがその「言葉」を全国に撒き散らしていたことの罪と罰が戦後に返ってくるのではないのかな。 #とと姉ちゃん
なんかすごく、梅ちゃん先生みたいって思った。梅ちゃんを1ヶ月くらいでリタイアした私が言いますが #とと姉ちゃん
弟妹の手を引いて逃げるお竜はもちろん、弟達のために働くかをるとか、家業を支えるまつや滝子とか、一家の「とと代わり」をする女性がいっぱいでてくるよね。常子が #とと姉ちゃん だけど、それは彼女を「格別な女」にはせず、彼女もまたありふれた女だという描写に力が注がれてると感じる。
RT あのとき必要以上(?)に颯爽と登場したお竜を、徹底的に「彼女もまたありふれた女」と描いたね。小さい弟妹がいて、食べ物は男たちに力ずくでとられて、空襲が怖くて、漢字が読めない、けれど早朝から家の前を掃除する心がけをもち、将来やってみたいことを語る、ありふれた女。#とと姉ちゃん
鞠子の「文学への情熱が足りない」ってTL評もある意味正解というか、史実の妹さんも村岡花子やらと比べ文学的に大成した方ではないし…といえば身も蓋もないけど、戦時中に生きることに必死で夢を追えなかった(情熱や才能の不足も含めて)「ありふれた人」としての描写なんだろう #とと姉ちゃん
美子も絵やお裁縫が上手だけど、岸和田で洋裁店やって格別な娘たちを育てた人とは違う。誰も彼もありふれた普通の人で、でもそれぞれに大事な暮らし・大事な人生がある。そんな人たちが読む雑誌を作ったのもまた、ありふれた普通の人たち。そこに奇才・花山がどう参加するのか楽しみ #とと姉ちゃん
朝ドラ8月15日史上、最高の歓喜w 一人一人が尊重され自由な生き方をめざすのが当然の小橋家だから、「敗戦イコール束縛からの解放、自由」て図式になるんだね。常子の雑誌作りも、自由の象徴として捉える思いが戦争中に醸成されたんだろう。誌面の具体案までにはまだ至っていない #とと姉ちゃん
戦争の影は戦後にも引きずるし花山が控えてるから、#とと姉ちゃん の戦争描写がこれで終わりではないけど、やっぱり今作での力点は、「戦争は人々のそれぞれの暮らしを蹂躙する」というところにあるんだろうな。大空襲よりも、森田屋や青柳の衰退・終焉のほうが見ていて痛かったのもそういうこと。
息子を亡くした三宅さんも描きつつ、小橋家のように誰も戦争にとられず焼夷弾も浴びなかった人々も実際に大勢いたけど、後世の私たちがそれに対して「他と比べるとさほど苦労せずよかったね」なんて言えるわけなくて、どんな人の「それぞれの暮らし」も滅茶苦茶にしたんだよね戦争は #とと姉ちゃん
家族が戦死したり、空襲で逃げ惑って…の経験はなくても、みんな戦争経験者なんだよね。その上で、森田屋や青柳や三宅やお竜…いろんな人の「それぞれの戦争」をつぶさに見たのが常子なのだと思う。空襲後に「お休みどころ」を作ったという大橋さんもそんなふうだったのではと想像 #とと姉ちゃん
とと姉ちゃん。登場人物の言動で表現すると視聴者は登場人物にシンクロする。ナレが語ると一歩引いて客観に近い形で捉えることになる。今週のナレ多用は、「いろんな人の“それぞれの戦争”を見た常子」、「その“常子の戦争”を見る視聴者の私たち」という入れ子構造を作ってた。
森田屋譚では、視聴者は家の外から中へと導かれて、「大声でうるさい?」という第一印象から「このうるささが彼らのかけがえのない日常なのだ」と理解できた。今週は、ナレが語ることで常子と私たちの間に線が引かれてた。どっちにしても、内と外との境界線とを意識的に操作してる作り手だなと感じる
常子は「自分で考えて動く」人だけど、戦争中は自由に動けないから「見て考える」までしかできないんだな、ということ。そんな中で醸成されていく思いがあること。ナレが語る=常子と私たちの間に線があることで、伝わってきたのは、それかなあ。どうだろ?
しばらく聞けなかった常子の「どうしたもんじゃろのう」、来週からまた聞けるかな。そんなセリフが出るほど余裕がなかったのだろうし、どうすることも出来ない状況だったんだなぁ………
あの「できる!できる!できる!」は、雑誌作りだけじゃなくて、鞠ちゃんの小説も、よっちゃんのお洒落も、色んな人の色んなやりたい事ができる!って事だよね。どちらかと言えば口下手な常子らしい感情の爆発でとても良かった。 #とと姉ちゃん
前半終了に終戦を重ねて、前半の古い世界で解決させずに先送りにしたいろんなモヤモヤを来週からの「新世界」でのお話につなげていくんですよ、と上手く予告した一週間だった。とと姉ちゃんが何を描きたいのかを希望とともに明確に示した、とと姉ちゃんらしい良い週だったよー #とと姉ちゃん
今週のとと姉、戦争が起こった時代と土地にいて、食糧事情は厳しく、空気が重苦しくなり、全体的な影響は受けてるけど大きな被害は受けてない、そういう微妙な立場にいる人の疲労と削られる日常が絶妙だった。男家族も家も仕事先も戦争で失ってないけど、不安と恐怖でどんどん圧迫されてく様がね。
家に鉄郎がいると心強いのは男性だからで、非常時の救いになる君子の濃やかな心遣いは女性らしさと称されるものだけど、それが単なる事実や個性で押し付けや教条的さになってないのが #とと姉ちゃん の良心的なとこだと思います。それは常子が「私が男の子なら」と後悔しないとことも繋がっている。
教条的でないのは「なんとなくとと姉ちゃん誕生」からずっとそうで、だから常子の稼ぎで女学校や女子大に行けてる鞠子や美子が常子に気後れするどころかウザいと思えばウザいと言うし、喧嘩だってするんだよね。小橋家の対等さの中にととが生きてるんだよなー。 #とと姉ちゃん
戦争体験も人それぞれなら戦争描写も作品それぞれ、異なる視点の作品で戦争というものが多角的に浮き上がってくる。その上、#とと姉ちゃん では、作品内で戦争体験も人それぞれである事を描く。男の家族がいる人といない人の差。引っ越して来たばかりの小橋家と前から組長さんを知っている人との差。
太平洋戦争、とくに空襲以降のとと姉の描写は「おひさま」にすごく似ていて、あまりウェットで悲惨な方面に踏み込むまいとするAKらしい配慮を感じた。カーネの戦時下の描写はうまかったけど、スポ根的な暑苦しい作風あってこそのもので、当時はあれを嫌がっていた朝ドラファンも結構いたのよね。
人はやっぱり二項対立で物事を捉えやすいのかな。#とと姉ちゃん はそこから脱する世界を指向していると思うけど。君子vs滝子、常子vs早乙女など、対立を描いても、決して簡単に善悪や優劣を断じない脚本で、だから対立が胸に突き刺さるんだけど。ジェンダーの問題にもまだ全く結論出してないし。
常子がいい女で早乙女がダメな女、そういう描き方では全くなかったと思う。早乙女は終始美しく凛として、さらにささやかな心がけを持つ女性として描かれた。仕事における頑なな態度や辞めてゆく人間を擁護しないのは環境が大きいという描き方だったと思う。環境の限界が個人の限界を作る
常子が早乙女と対立して己のやり方を貫けたのは、小橋家の教育と「自分で考えて動く」資質ゆえ。でも雑用をやり続ける根拠「困ってる人を助けたい」はビジネスの場においてあまりにあまちゃん論であり、最後はあのとき褒めた部長に切り捨てられた。あの環境に敗北したのは早乙女も常子も同じ
対立したあと常子と早乙女の心が通ったのは、全く違う考えでも「自分で考えて動く」点、共通してたから。そんな2人がそれぞれ頑張っても会社は変わらないというシビアな現実は、ドラマの将来に向けて必要な描写。2人とも等しく頑張ってて必死で、いい女・ダメな女という色分けには全然見えなかった
男と女しかいないんだからうまくやっていくしかない。それは滝子という人物の考えで、このドラマの結論では当然ない。常子はその言葉にとりあえず納得したけど、それが世間で簡単に実現しないのは、常子自身が女だからと容易く首を切られた現実によって示される。答えはまだ探し求められる途中
力では男にかなわないのは事実。物騒な世情では男がいるだけで安心なのも事実。中年女の君子になかなか仕事が見つからないのも、職業婦人でも簡単に首を切られるのも事実。そんな世の中で女性がどう生きていくか、そう考えて作られるのが主人公の出版社ではないですか。立派にモチーフしてるよ。
甲東出版で男女の別なく意見を言える環境を得たけど、そこでは男は全員徴兵されるという「男女の別」が皮肉に展開される。予告で社長も五反田も復員してたけど、常子は出版社を立ち上げるみたいだ。甲東出版ではなく自分で。何か理由があるんだろう。まだまだ物語は続いてる途中。
ジェンダーの問題にしても、どっちがエラいとか簡単に決めつけてない。女性の社会的・身体的弱さをきちんと描く一方で、男たちが徴兵され戦死する現実も描かれた。鳥巣商事の課長も部長も、やな奴なだけでなく、彼ら自身決して幸せには見えなかった。会社社会の男性の屈折や鬱憤をひしひしと感じた
男女の現実、時代の厳しさを描いたうえで、男だとか女だとかではなく、滝子のような強い人や君子のようなほわわんな人、どちらを称賛したり断罪したりでもなく、すべての人が「一人の人間として尊重される」のが #とと姉ちゃん 世界の理想。「あなたの暮らしを大事に」で常子はその実現を目指すんだろう
キャラ萌え的な視点で見てると「キャラが大事にされてない」「使い捨て」に見えるのかな? 私はバカ三兄弟も早乙女さんも多田さんも諸橋さんも、長谷川やお竜も、ずっと覚えてると思うけどな。出番の多寡はあってもそれぞれ鮮やかな印象。劇中で語られない部分もいろいろ想像させてくれたよ。
卯月の十四
●4月某日: 正式な新学期2日目だが、年長さんだけ園外保育。路線バス(! いつもながらすごいよね…)に乗って、「春の田んぼ」に行く。
年中さんの途中から、そんな日は前日に、先生が絵を描きながら「持ってくるもの」の話をする、らしい(うちの園では文字を教えないので)。大きなリュックサックの絵を描いて、その中に、お弁当とか敷物とか着替えとかビニール袋とかの図を描く。水筒と帽子はリュックの外に描く。そうしながら説明する(たぶん)。それと同じ絵をプリントにして配る。サクはそれを「これは、こどものおてがみやけん! みらんで!」と独占して、準備できるものは昨日から準備していた。えらい。そんな今日のサク弁は、おにぎり3種(塩、さけ、手作りふりかけ)、ハンバーグ、卵焼き、こんにゃくのおかか和え、りんご。食べやすさ重視ですな。
迎えに行くと子どもたちはすでに帰ってきていたが、テンション全開で園庭で遊んでいる子が多く、なかなか帰る雰囲気にならず。楽しかった感覚をそのまま持続しているんだなと。
先生からのクラスだよりに「れんげはもう咲いていないかもしれませんが、すずめのてっぽう、きつねのぼたん、菜の花、おおいぬのふぐりなどさがしてきまーす」とあったとおり、持参したビニールッ袋に草花を摘んで持って帰ってきている子が多く、サクは「はい、おかあさん」とレンゲ草などいくつかの種類ので編んだ首飾りをかけてくれた。くー、子どもって親に何とも言えない優しい思い出をくれますね。
「シートすべり楽しかったー」と、園での遠足では恒例の、弁当を食べた後は敷物を乗り物にして坂を滑るという遊びを今日も満喫したらしい。「ふたりのり したり、たって、こーんなポーズしたまますべったりした」危険行為も満喫したもようw 夜ごはんは、カツ丼、きゅうりとトマト・鶏ハムのサラダ、蒸しキャベツのおかか和え。
卯月の十三
●4月某日: やっとこさ、今日が1学期の正式な始園日。ということはサクもわかっていて、ついに年長さんになると張り切っている。「はんこノート(出席ノート)も、おたよりぶくろもあたらしくなるー。なふだももらえる!」とワクワクしてるし、年長さんは、幼稚園では特別な存在。うちの園は小規模でクラス替えもないので不安ってのはほとんどないのよね。先生は変わりました。ベテラン先生で、親は安心。
送って行った帰りにクラスのママ友にちょうど会う。彼女のご主人の実家が阿蘇方面ということもあり、週末から心配してた。聞くと、家の倒壊は免れたけど、集落の皆さんで避難してるらしい。彼女たち夫婦もそうだし、うちの夫の妹(つまり私の義妹ね)夫婦も熊本の大学で知り合って結婚した夫婦なので、必然、今も熊本に住んでいる友人も多く・・・。
土曜日に放送休止になったのと、2話連続で「とと姉ちゃん」が放送される。スーパーに行くと、ティッシュペーパー・トイレットペーパー・カップラーメンの棚ががらんどうだった。夜ごはんは、鶏肉とキャベツの味噌マヨ炒め、小松菜おひたし、卵とわかめのスープ。
息子5才がテレビを見たがらなくなった。見るときはパパかママがすぐ近くに(抱きつける範囲に)いないとダメ。だから「ごはんの準備してる間Eテレ見ててねー」が通じない(さほど居間と台所gあ離れている家ではないけどね…)突然、緊急地震速報の画面が出てくるのが怖いらしい。ま、そらそうだよね
トイレに行くときも「ついてきて。ドアのまえでまっててね」と言うし、とにかく家ではパパかママから距離を作りたくないらしい。ま、わかる。うち、古いマンションの高層階(ってほどでもないか)で、割とよく揺れるっちゃんね…水屋(九州弁)がガタガタいったりすると怖いもんね…
金曜深夜?土曜日にかけて相当揺れてから、「おとうさん(居なければ、おかあさん)、じしんがきたら、ぎゅっとしてね」と言うようになった。ギュッと抱きしめられてるとちょっとはマシなんだと思う。私と夫が地震関連の話をすると(あまりしないようにはしてるけど)「もう、そんなはなしせんで」
息子の場合、怖い気持ちを自分で認識して、「こうしてほしい」ことも含めて言葉に出して言えていることは、親としてはまだ安心材料。小さい子は自分の気持ちを自己認識したり表現できなかったりしたまま、内面で募らせていくこともあるだろうなあと、子どもたちのことはやっぱり心配になる。
東日本大震災のときも、被災した子どもたちが「地震ごっこ」をする例がよく見られて、それは地震の怖さを認識して乗り越えるためのプロセスだから、大人は見守ってあげてねとTLで回ってきてたけど、そういう知識が今回も共有されますように・・・
テレビ画面のL字テロップでも出てたんだけど、福岡市長、高島さんの仕事で、旧・大名小跡地に福岡市が支援物資を募って、現地にヘリ等で送っているらしい。募集品目を絞って(トイレットペーパー・おむつ・生理用品など6種類)それぞれ集める教室を決めて、何がどれだけ入っているかを明確にして送る、と。支援物資を送る場合、仕分けが最大の時間と労力のロスになるので、そこをできる限り送る方で負担し省力化したというのが重要らしい。諸岡の青果市場跡(最近、統合移転したばかり)は、政府主導の支援物資の拠点にしたんだって。ほんと、福岡から送ると近いもんね。
卯月の十二
●4月某日: 今朝は、夫とサクは4時ごろ、私は5時過ぎに寝た感じ。夫は余震の合間にもスースー寝息が聞こえてて、落ち着いてるなというか疲れてるんだなというか、まあ眠れるのはいいことである。
度重なる地震は、震源を大分に移したものもあり、交通網も遮断されつつあるというので、夫が朝9時前に近くの大きなスーパーへ買い出しに。客は普段のこの時間よりなかなか多く(夫談)、水は売り切れかけていたらしい。
とと姉ちゃんは休止(九州は昨日も朝は休止だった)、わずかに通常放送をしていたEテレをサクが見ていたが、やがて震度6弱の余震(?)が熊本で発生したのを機にこちらも関連ニュースに切り替わった。そののちも、普通の放送かなーとテレビをつけていると、緊急地震速報の画面になったりするので、子どもは怖がっている。トイレに行くときも、パパかママについてきてもらって、ドアの前で待っててねと言う。怖いという気持ちは当然だし、それをちゃんと言葉や態度に出せていることには、せめて安心するというか。
午後からは幸い、こちらでは大きな揺れはかなり減った。昼ごはんのあとは3人して2時間ほども昼寝。断水に備えて風呂に水を溜めていたので、ドライものの洗濯や、風呂の念入りな掃除などにじゃんじゃん使った。夜ごはんはもつ鍋。美味しかった・・・。ビール、白ワイン。サクを寝かしつけながら私たちも寝てしまう。
●4月某日: 福岡では余震がだいぶ減った。それで家族3人して寝坊したうえ、昼寝まで。たった一晩・二晩でも疲れるんだろうなと思う。まして熊本大分ではぐっすり眠るヒマもないだろう。もちろん福岡だってこれで終息に向かうわけじゃないかもしれない。ただ熊本大分では今も震度3や4、時には5クラスの余震がずっと続いていて、「いつまでこれが」と先が見えない思いがしたとき、人は気力がなくなるんだと思う。
あんまりしっかり外出する気にもなれないので、サクの散歩を兼ねて近所で買い物したり、自転車につきあったりしたぐらい。サクはプラレールやブロックなどパパとみっちり遊べて満足そうではあった。こむぎねんどに絵の具でいろんな色を付けて一口大サイズに切り、爪楊枝をさしたのを皿(に見立てたもの)に乗せていっぱい運んでくる。お店の試食ごっこらしい。
「こちらは、サーモンです(オレンジ)」「きゅうりです(緑)」とかはわかるんだけど、「これは、さくらんぼのわたあめです(ピンク)」あたりから独創的になってきて、「コーンスープを固めたものです(黄色)」とかだんだん謎のものを供される。
NHKでも、夕方のEテレ子ども番組や、総合「ダーウィンが来た!」「真田丸」など通常通り放送された(福岡)。真田丸の冒頭、画面に青い逆L字でニューステロップが出ていたので思わず「あー、L字かー」とつぶやいたら、サクが「なに? なになに?」と激しく興味を示したので説明すると、「なーんだ。もっとたいへんなことかとおもったら、あんまりたいへんなことじゃなかった」と一蹴される。夜ごはんは、ほっけ、味噌汁、きゅうりとわかめの酢の物、大根おろし。
『とと姉ちゃん』 第12週 「常子、花山伊佐次と出会う」 (下)ツイートと追記: 個は弱いけどきっと途絶しない
これもまた、怒鳴り散らす・群れるような「ニセモノ」の強さと、とことん自分本位に動く「ホンモノ」の強さの対比なのでしょうね。 URL
劣悪な素材で建築して、4畳半に4人。清、「収容する」って言葉を使ったよね。暮らすところじゃないんだよね。収容するところ。#とと姉ちゃん
4畳半4人のタコ部屋。「それじゃ暮らしを守れない」と滝子。「生きていくためにやるしかない」清は多田さんのリフレインだね。滝子は清を認め、でもそれを青柳の商売とは認めず、きっと看板を下ろすのだな。人間らしさを保とうとする者は消されていく時代 #とと姉ちゃん
勇ましい戦意高揚スローガンを考案する花山と、ささやかで明るい「ちいさいおうち」を描く花山。彼が見せた両面性のうち、後者は切り取られる。たとえ人の多面性のうちの一部でも切り取られて良いはずない。心に傷がつかないはずないよね。あんな花山でも。たとえ今は気づいてなくても。#とと姉ちゃん
切り取る作業を象徴的に見せたなあ。切り取ってるのは自分たちが編集した頁であると同時に、作家とイラストレーターが書いてくれた頁でもある。自分を殺し仲間も殺してる。上は「切り取れ」と命令するだけ。傷つけあうのは戦争に何の動機もない下の人間たち。でなきゃ生きていけない #とと姉ちゃん
そして、そんな残酷な「切り取る」行為も、前回の常子みたいに、事情を知らず思い入れがなければ、何の痛痒もなく張り切ってやってしまう。知らなければ、考えなければ、傷つける行為にも傷つく行為にも人はたやすく与してしまう #とと姉ちゃん
この会社で検閲による削除が何回目かわからんけど、何ごとも、1回や2回じゃ深く考えなかったりするのも人間。何となくやってるうちに、何となく流されているうちに引き返せないところまで行ってしまう。先の戦争にもそういう面があったんだろうな
先の戦争を描きながら、とても普遍的なこと、現代とリンクして考えられることを描いていると思います。面白い。#とと姉ちゃん
とと姉ちゃんで「第1週のテイストで続けばよかったのに」って意見も割とあるけど、むしろ自分はずーっとあのテイストだったら見るのしんどかっただろうなと思うのもそれなんだろうな。竹蔵が死してなお、あのままユートピアを疑いなくひたすら守って雑誌を作る物語なら、何か薄かっただろうなと思う
いくら個を尊重して育てられて「自分の暮らし・ささやかなを生活を大切に」といったところで、その価値観を疑いなく揺るぎなく常に美しく守れてきた人が、他の人の暮らし・価値観を、自分と等価値のものだと深いところで理解できるんだろうか? 「あなたの暮らし」は千差万別だけど等しく尊いのだと
苦労が必要だ(苦労してない人間は劣る)という意味ではなく、人は生きていれば自分とは違う価値観・暮らし方の人々にたくさん出会うのが自然で、「違う」というのは「みんな違ってみんないいね」と最初から疑いなく思えるわけではなく、荒々しかったり不安や不快な一面も持っていることだと思う
「あなたと私は違う」の荒々しさや得体の知れなさ。その不安や不快でへしょげず、「違っても、優劣ではない。等しく尊い」にまで持っていくには、根本として自己肯定感が必要で、そのために己の個を尊重される経験が大事ってことなんじゃないかな。
「個を尊重されて確立した自己肯定感」っていう土台の上に立って、「私と違ういろんな人・いろんな価値観、それによっておびやかされる私の個」という荒ぶる嵐の季節を幾度となく経験して、「私もあなたも同じく尊重されるべき存在」にたどりつくというか・・・・
常子にとっては、母と祖母の対立や、森田屋の騒々しい暮らしやタイピスト室&会社が、最初はまるで理解できず、不安や戸惑い、ショックを感じたこと。3兄弟や女学生たちの意地悪は理不尽でくだらない、世の中の一面。
でも母と祖母の双方の言い分がわかり、森田屋の暮らしも彼らにとってかけがえのない大切な日常だったことがわかり、多田さんや早乙女さんの言動も、当初は受け止められなくてもやがて「なぜ、ああだったのか」に思い至る日もくるだろう。世の中を知り、いろんな人のいろんな暮らしを知ってゆくことで。
母と祖母の対立を見たことも、森田屋で暮らしてああいう家族の在り方を知ったのも、会社での軋轢や理不尽も、それら未知の世界に踏み込んだから「あなたの暮らし」を作れるんだろうなって思う。ユートピアに居続けられた人じゃないから。
多くの物語が「どんな経験も糧になる」を描くのは、私たちの人生がそういえるからだと思う。反面教師とか、「こういうときは逃げなきゃ無視しなきゃ」みたいな負の教訓でも、あとから考えれば「あれはいい経験だったな」と思えなくもない、常子の物語も前半は経験の積み重ねなんだな。
とと姉ちゃんは痛みや悲しみ、ぞわぞわ心地悪い感じの描き方がうまいと思う。誰かが怒ったり傷ついたりするとき、「この人はこうするしかないんだ」と思えて、それが本人の弱さに起因するところがあったとしても、見てて痛みを感じる。多田さんもそうだった。
深川の女学生、タイピストたちや酒場の男たちの素性や心理描写は描かれない。でも、対立していた滝子と君子や、近しく暮らした森田屋や、正面きって対峙した早乙女さんの心理・価値観は充分描かれて伝わるから、「描かれなくても、モブにも行動原理があるんだろうな」ってスライドして考えられる。
多分、わざと説明しないんだろうなと思う。現実でもそうだから。関わる人みんなの氏素性や暮らし方や価値観がわかるわけじゃない。目に見える一部分から、想像したり誤解したり(されたり)理解できなかったり(されなかったり)する。
でも、若くて守られている頃にはわからなかったことが、年を経ていろんな人やパターンを知り、複数の立場に立ってみたことで、想像力・理解力が増していく。もちろんそれでも理解できない、いけ好かない相手だっている。両方とも、とっても自然なこと。
基本的に常子目線だから描かれないことがいろいろあって、視聴者なのに俯瞰できなかったりする。常子と同じく、わけのわからない世界に放り投げられていると感じることがある。そういう文法のドラマなんだと思う。あまり好かれやすい文法でないだけに、意思あって選択したんだろうと思うけどね
ユートピアの住人でいられなかった常子が作る雑誌が楽しみですよ
「守る」ってなんだろうね。どうしたら守れるんだろうね。って突きつけられるみたいな、今日の #とと姉ちゃん 。
清も滝子も、器が小さかったり耄碌したから…力が及ばないから青柳を守れない、と自分を責めるのは違うよな。心あるまっとうな商売をしようとするなら、どんなに有能でも若くても、あの時代に深川の木材商は守れないんでは? そしてそもそも老いや病気に本人の責任はない。 #とと姉ちゃん
かつて君子を守ると力強く言った自分の言葉を「とんだかっこつけ」だと滝子は言った。どんなに有能でも力を尽くしても、大事な誰か・何かを、個人の力で必ず守るなんて限界があるのでは。ていう示唆じゃないかと思う。「一人では解決できない・助け合う」が定石の #とと姉ちゃん ワールドだし。
甲東出版でも戦意高揚の記事ばっかり載せてるらしい。警察を殴った社長も「しょうがない」と言う。メシを食うために嘘の言葉を世に出してる。個人が自分や家族を守ろうとすると、権力に屈したり嘘に加担したり人を陥れたりしなければならなくなる。個の弱さ、個の限界。#とと姉ちゃん
強い滝子にも年齢や病気は襲うし、個は弱い。弱いから強い者に屈し集団の一部になって別の個を追いつめる。嘘をつく。…ってのを丁寧にやってるけど、「どうしたもんじゃろのー?」の具体策は戦後にしかできないだろうから、当分つらい展開? 意外にここから敗戦まで早い? #とと姉ちゃん
にしても、今日は始まって以来ぐらいの暗い回だったな。ミッチー唐沢で華々しく始まった週前半との落差がすごい。てか、後半とことん暗くやるために前半があれだったのか。清のクローズアップがこんなつらい局面とは悲しいね。でも清に惹きつけられるね。萌えキャラで終わらずよかった #とと姉ちゃん
滝子は嘘をついて去っていく。それは小橋家(主に美子)のためだけど、自分のためでもあったのかもな。お国のためでも保身のためでもなく、誇り高くあるための嘘。常鞠や君子はそれも察していたように思う。泣いて本音を吐露して去ったまつとは対照的な姿。常子は両方を見た #とと姉ちゃん
時代や権力という大きなものに潰される個の姿を描いてるけど、新しい命を抱え逞しく新天地へ向かった森田屋同様、小さな希望も感じる。青柳は滝子らしく、誇り高く終わり、商いの実体はなくなっても精神を託せる常子がいる。物事はそんなふうに続いていく。個のしぶとさも描いてる感じ #とと姉ちゃん
君子が滝子と決裂して青柳を出ると告げたとき。失業したとき。今、目黒の家に移って。常子がことさら明るく振る舞うのは「それでも暮らしは続いていく」からだよね。「普段通り」を守ろうとする。ある種の防衛本能というか。何となくわかるなあ。その姿が時に反発を生むのもわかる #とと姉ちゃん
店の中。「飽き飽きした」は滝子流の意地っ張りで、本当はとても見られやしない気分だっただろうね。でも昔の帳簿は懐かしく振り返ってた。文字や言葉は記号だけど、モノや実体がなくても、その豊かな姿を想起させることができるんだなあ。いずれ自分の雑誌を作る今作らしい表現だった #とと姉ちゃん
君子がやたら繰り返してた「お母様おかげんいかがですか」は、星野の新種発見週の「元気でいて下さい」のリフレインじゃないかな。「周囲は気遣う、願いことしかできない」という表現。それは哀しい現実だけど、そんな誰かの願いを感じることで、人は励まされることもある #とと姉ちゃん
これ。このときの「元気でいてください」の変奏が、君子の「おかげんいかがですか」の繰り返しじゃないかな。こんなことしかできないけど、切なる願いなんだよね。やっぱり、#とと姉ちゃん は現実の残酷さを踏まえたうえで描かれる優しい物語だな URL
清や長谷川にも、出自や若年期などの設定はいろいろあったと思います。視聴者としてはそれが見たいとこだけど、それを作中でいろいろ説明して肉付けするやり方じゃなく、「そういう設定の人物が今どういう言動をするか」に特化して人物を描くのがこの作品の作風なんだなと思います #とと姉ちゃん
平凡な男が暮らす小さなかわいい家は切り取られ、200年続いた伝統の店は看板を下ろすのだった。えらく偉そうで周りを振り回しているらしい男が書く存外綺麗な絵も、きっぷのいい女店主が関東大震災からも立てまわして切りまわしてきた店も、システムに対しては弱い個でしかない。
印刷された絵も文字も、検閲の結果、切り取らなければならなくなった。いっぽうで滝子は、店の中という実体ではなく、帳簿に書かれた文字を見る。ここも対称だったんだな。戦後、常子は書かれるものの強さを信じ、それを誰からも脅かされない雑誌を作るんだろう。もう二度と切り取らなくていい世の中への願いを込めながら。
「美しすぎる」なんて、もはや使い古された感のある形容詞がこれほどぴったりくることもないんじゃないかという、「美しすぎる祖母」滝子が登場したとき、これはいつか彼女がボロボロの老婆になる前フリの姿なんじゃなかろーかとも思ったけど、滝子は凛としたままで物語から去っていった。それが、彼女の誇りが守られたように感じてホッとしてる。
先週の森田屋・今週の青柳と立て続けに戦争によって店を閉めることになったわけだけど、森田屋は家族の絆をさらに強めることが示唆されながらの退場、青柳滝子は最後まで自分で決断し誇り高く、息子と番頭に支えられ、常子に自分の商いの(生き方の)精神を伝えた。ツイートしたように、個の弱さ、限界を描き、蹂躙される姿を描きながらも、しぶとい個、完全に葬り去られたりしない個の姿を描いていたと思う。
そして、絵が切り取られてから物語の舞台からも消えたままの花山伊佐次はどのような顔をし何を思ってこの戦時中を過ごしているのか、気にならずにはいられない。ここはもちろん、わざと、彼の気配を殺しているのだ。「一億火の玉」の激烈なコピーだけを残して。
卯月の十一
●4月某日: 冬の間、いろんな都合(主に子どもの体調不良など…)でキャンセルも相次いだりして、実質充電期間になっていた「ママじゃな」久々の取材! しかも今日のモデルは、帰福中の親友しず氏! ママじゃなを始めたあとに、お腹に赤ちゃんを迎えた彼女が、よちよち歩きはじめた双子ちゃんを連れて取材に応じてくれたことに月日を感じるぜー。
今日はちひろスタジオを拝借。双子ちゃん+ちひろちゃんの息子シュータと、1歳2か月児が3人なので、ちょっとベビーシッター頼もうかーと、ちひろちゃんが園のママ友にお願いしてくれて、結果、ママ友ちづちゃんの娘ちゃんも含めて1歳前半台の子どもたちが4人集合! 子どもたちみんななかなかご機嫌よろしく元気に遊んでて、ほのぼのー。お弁当や、持ち寄った美味しいものを食べつつ、楽しく取材ができた。
vol.22 こんどうしず の 「ママじゃない私」 ポートレート - “ママじゃない私” ポートレート
天気がいいので外に出て撮ったり。双子ちゃんにごはんを食べさせたり抱っこしてるうちに寝ちゃったりして、赤ちゃん充もしました。むふー。たまにだと、楽しくて癒されるんだよね。毎日、毎回だときついんだよねー。
夜ごはんは、ぎょうざ。キャベツと人参、ハムのコールスロー。いかの天ぷら(お惣菜)、りんごなど。夫は接待で、ソフトバンク戦をスーパーボックスにて観戦。ちょうど中継もやっていたのでテレビをつけていると、「あー、おとうさんにあいたくなってきたー」とサク。ヒーローインタビューの内川と一緒に私も泣いちゃった。
そして夜中の1時26分、のちに「これが本震」と言われるM7.3の大地震が再び熊本を襲い、ここ福岡も震度5弱だったとかで、激しく揺れた。ゆうべはちぃとも起きなかったサクも目を覚ました。てか、パパママのスマホからダブルで緊急地震速報がくるので、あの音で起きるよね…。
1時55分にも大きな地震、それからも余震多く、つまり緊急地震速報も多く、眠れない。福岡でこれなんだから、熊本はどれほど・・・と思う。サク、泣いたり騒いだりはなく、「じしんがきたら、ぎゅってしてね」と言って、夫にしがみついている。
>>私の疲れがすうっと消える。栄養豊富な天然オールインワンドリンク、サジージュース
卯月の十 / 劇団四季「美女と野獣」
幼稚園、迎えに行くと子どもは半袖。朝、着ていったものは、肌着・パンツに至るまで泥水にまみれて黒く重くなって手提げカバンに入ってる。あったかかったので、水もふんだんに使って泥んこ遊びをしたらしい。またこういう季節がやってきたのだね。うんうん、よいよい。 by 洗濯かあちゃん。
夜、定時で急いで帰宅してくれた夫にバトンタッチして、劇団四季『美女と野獣』公演を見に行く。姉がチケットをとって誘ってくれたもので、そのチケットといったらなんと最前列だった・・・・! これはすごいド迫力。
動きのひとつひとつや、歌う口元まで鮮明に見えるのはもちろんのこと、一曲激しく歌い踊ったあとは、プロたちでもさすがに小さくゼェハァしていたりするのがわかる。それでももちろん、表情にも次のお芝居にも乱れは見せない。主演ってすごい! ベル役の女優さんの歌声が本当に綺麗で、華奢で顔も小さく、すごくチャーミングだった。踊りもすごい。帰って調べてわかったのだが、彼女は弱冠25才で、去年、四季に入団したばかりで劇団内のオーディションを受け、ベル役をつかんだのだそうだ。実力社会…!
スピーディな舞台転換、めくるめく展開に、あー、劇団四季ってこういうのだった、と思い出した(10数年前にライオンキングとオペラ座を見て以来)。そして美女と野獣だけあって、歌や舞台背景は当然ながら、役者さんたちの動きもめっちゃディズニーだった! その再現性といったら目を瞠るものがあり、特にガストンさん! 臭ってくるようなマッチョさであった。ベルナールの人が及川ミッチーに見えてしょうがなかった、とは観劇後、姉と一致した意見。
姉は前半の終了時点で既に滂沱の涙で、私は感動しても絶対泣かないぞーと思ってたけど(泣くと疲れるから)、最後にチップ少年が人間に戻ってお母さんの前に出てきたら絶対泣くよなーとはうすうすわかっていて、当該シーンは歯をくいしばって臨んだけどやっぱりちょっと泣いちゃいました。いや、想像以上にとても楽しめました。
福岡シティ劇場ってすごく狭いのね。あれで群舞のときとかまったくぶつからないのスゲー。で、駐車券を機械に突っ込もうとしていた21時半前に、あちこちからブーブーと異音が聞こえ出し、「地震?!」という声があちこちで。キャナルシティにいると揺れはほとんど感じなかったけれど夫からすぐにLINEあり。福岡は震度4だったそうだがサクは既に眠っていてまったく起きなかったとのことで安心して帰ってから、熊本が震度7と知って驚く。しばらく、夫とテレビ画面に釘付け。震度3程度の余震も4,5回ほどかあったけど、子どもが一切起きなかったのが有難かった。
『真田丸』 第25話 「別離」
鶴松の死は、死ぬ前から葬儀の段取りや天下の行く末を算段される「政治的事項」であると同時に、幼い子の死という普遍的な悲劇でもある。という両義性が、力を入れて描かれたなという印象。前者が後者の悲劇をより際立たせもする。小さな子の死すら悼まれるだけではないということ #真田丸
「もっと美味いものを食べさせ良い衣を着せて、もっと楽しい思いを…」は、天下人らしい物質的豊かさを望んでいるようで、「笑顔でいてほしい、幸せになってほしい」という、すべての親の幼い子に対する願いを表した普遍的なセリフで泣けた。三谷さんはこういうとこに力入れる作家だと思う。 #真田丸
我が子を失おうとする悲しみに打ちひしがれる秀吉の外で語られる今後の政局。氏政に対してあれほどの情を見せた家康が、鶴松の死には政治しか見ていない。けれど信繁が指摘したように、秀吉もまた落首事件等で無実の人々に無残な仕打ちをしてきた。人間の残酷な面が描き出されてる #真田丸
寧。あの場で茶々を抱きしめる包容力や強さと、大蔵卿局が指摘した「他人事」感の対比が印象的。豊臣の母として大きければ大きいほど、彼女が我が子の母になれなかった運命が沁みる。あの抱擁で思いきり泣けたからこそ、茶々はもう一度子を産む気になったのかもしれない…と思うとなおさら #真田丸
利休の死は、時代の要請でもあり、彼自身の業が招いたものでもあり。やはり両義性をもって描かれていたのかな、と。堺衆の利益になるなら何でもする、は「己のための戦をする」によく似ていて、だから先週の氏政と同じく、戦国の世からは退場しなければならなかったということ。#真田丸
一方で、金の大いなる力を知るからこそ茶に打ち込み、俗を聖で打消しながら互いを両立させてきたようで、やはり己の業はコントロールできなかったということ。茶々が発注した像のサイズをあまりにもダイナミックに間違えたwのは、やはり無意識のうちの肥大というか、業の結実ではないかと。#真田丸
これまで、武士ではない茶人が切腹するというのがどうも腑に落ちなかったけれど、今作の「己のために戦をする利休」「業の深い生き方」という描き方を見ると、何となくナルホドという気はした。治部や刑部にとっては並みの武将や大名以上の端倪すべからざる人物だったんだろう #真田丸
そう、刑部。利休切腹のまさかの黒幕。当初、融通の利かない三成のサポート役のような顔で登場しといて、回を追うごとに「マキャベリストはこっちか!」て危うさがどんどん露呈してきて、何が「殿下に気に入られたら厄介だぞ」だ、おまえのほうやん!と叫びたいところで来週娘が登場って怖い!#真田丸
大谷刑部。軽率とは違うけど、直情的で「溜め」がないって印象。こうと思えばすぐ動く。名将・真田安房守に会いに来たり、落首事件で秀吉を諌めようとしたり身代わりを仕立てるのに躊躇なかったり。決して愚かではないけど、直情的な分、三成に比べると深慮や大局観に欠けるのかな。#真田丸
大谷刑部その2。「祟りなんてあるわけない」と言うセリフには近代的合理性が窺えたけど、その彼を襲うものを歴史好きは皆知っている…(戦慄)。重要なのは、この一部始終のすべてを三成が知っていることだ。合理性ではなく、加藤清正たちと共に水垢離することを選んだ彼が。#真田丸
因果応報よりさらにもっと大きな「運命の呼び水」、その畏ろしさや皮肉が次々に描かれた回。鶴松の存在と利休の死。利休の死と大谷刑部。茶々に魅入られていた利休。利休の茶を飲んだ信繁。今後、寧の抱擁で心を溶かした茶々が秀頼を産む。信繁が秀吉に求めたのは良い言霊のはずなのに… #真田丸
「運命の呼び水」。小さな真田家まわりの話では、矢沢の大叔父に苦労し稲に参ったから信幸はおこうを抱きしめる(そして多分子どもが…?)。松は茂誠と再会し記憶を取り戻すが、その幸福はおばば様との別離の呼び水にもなる。高価な煎じ薬を飲んだ昌幸は多分ちょっとだけ元気になるだろうw #真田丸
そして、山吹の花を食べるという荒業で茶々の呪いを封じて見せた「生命力の象徴」のようなきりちゃんが離れていくとき、秀次に何が起きるか、想像しただけで泣きそう。しかもこの秀次の良い人具合からして、今日は求愛したけど、結局は自分からきりちゃんを解放しそうな…(泣) #真田丸
寒がりで暑苦しい父親にスポイルされてる稲と、信幸と真田家への思いで心身を支えてるおこう。2人共を幸せにするには、2人共を抱くしかない。と思ってきた私だけど、あの謹厳な信幸が、自分の「辛…」に耐えきれず、離縁した方の妻に先に手を出す展開にはぐっときた。人間てしょうがないな!#真田丸
金を、利休は世を動かすために使いたい。秀吉は己(の大事なもの)のために次々と築城するのに使ったり。信幸は「城を補強するくらいなら領民のために使いたい」。細やかな苦労や胃痛を味わいつつも、信幸が「己のための戦をしない、新しい時代」に生き残るのがわかるね。差入れ上手な家康も。#真田丸
「地雷」と言いますか、とっても苦手な分野って人によっていろいろだと思いますが、私は「子どもが死ぬ」展開。だから鶴松の死をがっつりやられたらつらいよなー、でもこのドラマならがっつりやるだろうな、薄っぺらくされるのも違うしな・・・といろいろ考えながら録画を再生して、秀吉の「鶴松は何のために生まれてきたんだ」から涙をこらえるのに必死でした。悲しいよ。本当に悲しい。
これまで、どうも人間らしい情ってもんに欠ける(三成なんかよりよっぽど!)きらいがあり、正室の寧にも「昔から怖い人だった」と証言されている秀吉が、我が子に関しては、どこまでも普遍的な親の愛情を見せていたのが、なんかホッとするような、だからこそ怖いような…だよね。鶴松が息絶えたあと、呆然と部屋を出ていく茶々の表情と歩き方、今作の竹内結子には何度も何度も目を瞠らされます。後ろでとってもかわいい音がころころと鳴っていて、秀吉がやはり呆然と、愛児の亡骸に向かってでんでん太鼓を鳴らしているんだよね。抑制された中に想像を絶する悲しみが表現された演出だった。
鶴松の臨終を御簾を隔てて見届けた寧は、何を思っただろうか。秀吉に寵愛され、子宝にまで恵まれた茶々に対して、これまで心穏やかなだけだったとは思えない。けれど茶々は子どもを持ったからこそ、その子を失うという未曽有の経験をするわけである。同じく我が子を失くしためおとを前にして、寧が秀吉ではなく茶々のもとに行ったのはなぜだろう。女として茶々の悲しみのほうに共鳴したのだろうか。秀吉にはどんな慰めすら通じないと思ったんだろうか。
何にしても、寧は豊臣家の人間であり、茶々のこともまた「豊臣の家族」だと思っているんだろうな。秀次や、宇喜多秀家、小早川秀秋、そして清正や正則も、鶴松の死を家族の悲しみとして受け止めていた。一方で、外部の人間たちの薄情なこと。でも、それが人間ってもんだろうな。秀吉はこれまで、諸大名たちの心中など忖度せず、踏みにじることもかまわずに、駒のように使いながら天下統一への事業を行ってきたのだから、なおさら。
そんな中で、政治とは一線をおいた(というか何の力もない)存在で、鶴松の容態を父にも伏せ、秀吉や茶々の悲しみに心を寄せるという、「豊臣家の外の人間」としては唯一といっていいほど人間的な振舞いを見せていた信繁が、良かれと思って秀吉から引き出した言葉といったら・・・! 三谷さん恐ろしいもんを描くなと思った。
「さだめ」と言ったが、利休が結局は「己の業」によって滅ぼされるのなら、これまでの酷薄さにプラスして我が子への執着が、やはり秀吉と豊臣家の業になるのだろうか? そして、秀吉から大陸出兵の言霊を引き出してしまった源次郎は? それも彼の業としてカウントされちゃうんだろうか?!
鶴松の死と、利休の死。
鶴松が死ぬことによって「やはり豊臣は一代で終わるかも」と関東の両狸がほくそ笑む。全国に似たような大名・諸将は大勢いただろう。彼らは秀吉に押さえつけられ、場合によっては虐げられてきた。自分の領国を自分で差配し、それがままならないときは戦場で暴れまわる、そんな世に戻りたいと思っている。戦国乱世はある意味フリーダムなんである。
でも利休は言った、「戦は儲かりまっせ」 誰か源次郎が儲けるための戦をするために払われている犠牲は何だろうか? やっぱり戦の時代が終わっていくのは正しいんだと思わされる。けれど利休が死に、鶴松が死んで、このあとは半島出兵の時代になる。
利休の祟り。について考えると、頭がこんがらがる。
死んだ利休が、秀吉への恨みで鶴松に祟った?
でも、利休の死を呼び寄せたのは、茶々?
では、結局は死神たる茶々が鶴松の死を招いた?
鶴松の死によって大陸出兵の言霊が成った。
それを引き出した源次郎は、いつかどこかでその代償を払うのか?
でも、源次郎って、「利休の業の茶」を飲んだんだよね。だから、あれは利休が(利休の業が)引き出した言葉ともいえるのかな。
大陸出兵は多くの悲劇を生む。
秀吉政権の大いなる負の財産になる。
もとをただせば、利休の祟り? その元をたどれば、茶々の死神パワー?
いやいや、秀吉の単なる自業自得?
利休は、大谷刑部にも祟る?
その大谷と運命を共にする三成は?
そして三成と、最後まで豊臣のもとで戦う源次郎は?
しかし、利休にそんなに祟られるいわれはあるのかね(笑)。
ただ、氏政に続いて滅ぼされた利休もまた、やはり「戦国の象徴」なんだと思う。己のための戦をする人。
新しい時代を迎えるまでに、戦国人は駆逐されていくさだめということだろうか。昌幸なんて典型的な戦国人だ。その昌幸をリスペクトして、いの一番に会いに来たのが大谷刑部だ。三成は「戦乱の世を終わらせる」ビジョンを持っていて近世人に近いポジションのようでいて、今回は水垢離をしていた。というか、前回は昌幸に戦の指南を頼んでいた…。そして不器用な自分をずっと友がら的に遇してくれる大谷刑部に対する情が厚そう!
近世人になれる者だけが生き残る。お兄ちゃんのように。お兄ちゃん今日も苦労してたw 苦労して足掻いてかっこ悪くても、自分のための戦争をしない新しい時代に順応できる者が生き残る、と。うん、源次郎は最後に、己のための戦をするような気はする。これまで死んでいった盟友や愛すべき人々の思いを勝手に背負って。源次郎って、そういう業の深い人間なのかもしれない。いや、まだわかんないけどね。
(おまけ)先週の月曜日、北条滅亡回についてまだ考えてる、つらつら連ツイ
1.抗戦する氏政を諸将が羨むキーワード「己のための戦」。「戦国とは、貧しいから(食うために)/ 生き延びるため戦う時代」って時代考証が根底にある #真田丸 ワールドだから「ン?」と思ったんだけど、己が生き延びるための戦を「己のため」と表現したんだな、と腑に落ちてつらつら連ツイ→
2.己のための戦=己の領土を守るため己が戦う(←同盟や謀略等も含め)。そんな「自己解決・自力救済」が中世の特徴なんだよね。土地が律令による支給の口分田だったり、大貴族の荘園だったりした古代から、武士が台頭して「この土地は俺のだ」と主張し戦うようになったのが中世。→ #真田丸
3.そんな「己のための戦」ができなくなるのが江戸時代。自力救済とはいえ戦はしないほうがいいに決まってて、大名配置や法などのシステムをガチガチに作りあげ戦を卒業し、日本は中世(乱世)から近世に突入した。秀吉政権はその過渡期。三成などには乱世終結のビジョンが窺える→ #真田丸
4.昌幸や景勝にしてみれば、今まで中小とはいえ独立企業の社長だったのが、超メガ企業にM&Aされて連結子会社になり国際会計基準を押しつけられ、経営判断のひとつもできなくなる、って感じ? そりゃやっぱり素直に馴染めない人間がいるのもわかるよね。でもそうしないと潰される。→ #真田丸
5.氏政はそれに抗った。それが小田原合戦、「己のための戦」。諸将は羨むけど、やはり氏政は滅ぼされなければならない。「己のための戦」をする者は生き延びられない。それが中世から近世に向かう時代の波なのだ。そう考えると、#真田丸 における利休切腹の解釈にもつながりそうで面白いなと。→
6.北条にも鉛を卸していた利休。己や堺商人が儲かるため軍需は大歓迎で、だから戦をけしかけ、敵味方双方に武器を売る。それは利休の「己のための戦」であり、中世ではある意味当然のことだった。でも「己のための戦をしない」近世システムからは排除される。だから利休は滅ぼされる→ #真田丸
7.戦国→織豊期→江戸 という流れ、今その過渡期なのは歴史の知識として自明だけど、ちょっといきなり出てきたような「己のための戦」って言葉が、大河でよくある「乱世を終わらせる」教のお題目とは一線を画して時代をよく表現していて、利休はもちろん、今後の展開にも繋がりそうだなと。#真田丸
秀吉の天下統一が1年のほぼ折り返しにもってこられて、「己のための戦をする時代がとりあえず終わっていく」のを見て思うに、#真田丸 はやっぱり「中世(戦国乱世)→近世(江戸)」という時代の境目を意識して書かれてるんだなあと。本当の中世の終わりはきっとドラマの最後なんだろうね
「己のための戦をする氏政を羨みつつも、秀吉に頭を垂れ道化を演じる政宗になるしかなかった諸将。もう少し早く生まれていれば、もう少し○○だったらと、さだめを悔いる者たち。それは私みたいな一市民も同じ」…って書いたけど、結局、氏政は滅びて政宗は生きるんだよね江戸時代まで。 #真田丸
変化をよしとせず、誇りを守り、時代に殉じて死んだ氏政ではなく、屈辱をかみしめながらでも生き残って、「己のための戦をしない」江戸時代の新しいシステムを運用した諸将たちによって、簡単に戦が起こらない、人命の価値が上がっていく「近世」が作られるんだよね。#真田丸
今の秀吉の描き方を見ていると、秀吉時代には届かなかった近世が家康の時代に始まるのは、家康(徳川)のシステム作りの巧さもあろうけど、(秀吉と違って)独裁的じゃなかったのではと思う。「己のために戦をする時代はもう終わろう」という多くの「政宗」たちの合意に拠って始まる江戸時代。#真田丸
家康が、主人公にとってラスボスでありながら、情深く魅力的な人物として描かれてるのは、もちろんそのほうが物語に厚みが出るからだけど、秀吉とは違ったやり方で=諸将の合意のもとで天下を治めた「近世という新しい時代にたどりついた英雄」として捉えてるんじゃないかなとか。 #真田丸
でもさ、そうやって考えると、信繁が完全に迷子。#真田丸 見てて、秀吉も、家康も、三成も、氏政も、茶々も、昌幸も信幸も何となくわかるの。天下取るのも滅ぼされるのも取り残されるのも生き残るのも、人物描写や時代の描き方を見てると未来が何となく想像できるの。でも信繁だけが本当に謎!
#真田丸 では、滅びる者を、気高く、自分の生を生ききったとして描くけど、決して滅びのセンチメンタリズムには陥らないよね。かっこ悪く足掻きながら生きる者の面白さすばらしさも描いてて、「戦は嫌でございます」とは言わせないけど、無数の生と死の後にやってくる新しい時代を肯定すると思う
だとしたら、その新しい時代に乗らず、辿りつかず、大坂で滅びてゆく信繁って何なの?っていう。もちろん自分の生をまっとうするんだと思うよ。でもなぜ、豊臣のほうほうを選んで滅びていくのか?って、ほんっとそこ、有働さんがどんなにナレバレしても謎すぎる、#真田丸 の最大のミステリーだよね!
やっぱり、先に滅びる者を決して貶めず、尊く描いてるんだけど、あとに生き延びる者(それは政宗や景勝のように心ならずも権力者に従い生き延びることしかできなかった人々)たちも決して貶めない脚本だよなあ。だって政宗や景勝は、今を生きてる視聴者の私たちそのものだもん #真田丸
誇り高く滅びず江戸時代まで生きのびる諸将たちは、勝ち組じゃなく、足掻きながらなりふり構わず現実を生きる「かっこ悪い組」なんだよね。それを視聴者の姿に重ねてあるんだと思う。そういう無数のかっこ悪い組が新しい時代を作っていった。家康はすごいけど、彼一人の力じゃなくて。#真田丸
『とと姉ちゃん』 第12週 「常子、花山伊佐次と出会う」 (上)ツイートと追記: ひとつひとつ、すべてに意味があるねって
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常子も誌面の企画を考えるのはいいんだけど、そもそもどんな雑誌を作ってるんだろーか? #とと姉ちゃん
「人々の暮らしのために」以前にも滝子は言ってたね。常子は前の会社で「困ってる人を助けるため」雑用してた。今、大日本婦人会はお国のために活動してる。どれも、役に立ちたい・役に立ってるという自負のもとに為されてる。違いは何? 渦中にいながら見つけるのは難しいよね… #とと姉ちゃん
「若い女性が道の真ん中を堂々と歩くんじゃありません」朝ドラ名物、大日本婦人会の狼藉ここに極まれりw 笑いたいとこだけど、「ベビーカーが堂々と電車に乗ってんじゃありません」との相似を感じて、おおぅ…となってしまった。「私の勝手です」って返せないよ私…。 #とと姉ちゃん
店をたたみ去る人々、逼迫した経営状況、活気の無い深川、家族が外地へ。諸々の鬱屈を晴らすように大日本婦人会の活躍があり、負の連鎖…。今、役に立つって「明るい気持ち」を作ることかな。常子の再就職や仕事の話が青柳家の食卓を明るくしたように。綾が学生時代を思い出したように。#とと姉ちゃん
昭和16年。木材問屋は瀕死、米屋まで潰れる中、雑誌作れるの?って話。「少年倶楽部」は18年新年号もまだ誌面208ページ。衣食住等の物資は戦争に直接関わるため統制。そういうの正当化するため=間接的な戦争支援のためにも活字の流通は続いたのでは。花アンで詳しくやった? #とと姉ちゃん
女性が仕事で意見を求められることがなかったという描写のあと、大日本婦人会の女性逹を見ると胸にささるな...勿論全員がそうでないけど、ずっと外に向かって物を言わずにきた人達が意見する力をもった途端に強権的になった、そう見えてしまった... #とと姉ちゃん
道の歩き方にまでケチつけるのは、流石にいちゃもんだと思うけど、我こそ正義(大義)を体現してると信じて疑わない人たちにとっては、自分が気に入らない事象はなべて正すべきって意識なんでしょうね。 #とと姉ちゃん
人々がラベルで分断されて、本当の敵ではなく、身近な悪いことでもないことを敵のように扱い憎んでいく様子は、現代の見当外れな生活保護叩きや在日叩き、ゆとり叩き、若者叩き、女性叩きなどにとても似てるよね。不況の原因、生きづらさの原因はそこじゃない。 #とと姉ちゃん
RTs 先週もtamicさんが「#とと姉ちゃん は現代を描いてる」ってツイートしてたけど、ほんとそうなんだよね。
戦争ではメディアも画家も文学者も教育者も動員される。そうすれば売れるから、そうしないと潰される空気だから、時代の閉そく感を彼らも感じてるから。そんな相乗効果で熱狂が起こり戦争は遂行されていく。メディアや創作作品が勇ましさや綺麗ごとだらけになるときは怖いんだよね…。#とと姉ちゃん
常子、ケンカ騒動で会社クビに 『とと姉ちゃん』第十一週で描かれた厳しい現実と人間のたくましさ URL @realsound_mさんから #とと姉ちゃん
RT 「言葉使いがキレイで品のある小橋家とは育ちの違う人間が平気で出てきて両者が混ざり合うのが本作の面白いところだ。小橋家の団らんは朝ドラの典型とも言える箱庭的な世界観を構築しているが、だからこそ、その外側にいる荒々しい人間にも目が行くのだろう」 #とと姉ちゃん
RT 「こういう身も蓋もない姿を描くのかと驚かされる」「戦時下の過酷な状況でも人間は意外とたくましいということだ。戦争中でもビアホールに集う人々、ちゃっかり子どもを作っている富江と長谷川、多田の裏切りや闇商売業者も視点を変えればたくましいといえる…」 #とと姉ちゃん
雑誌ってこの時期に作れたの? 昭和16年はこんなふう? 婦人会は本当にこうだった? たとえ今作が嫌いで細部が気になってしまうからにしても、いろんな疑問を持つの有意義だよね。今わざわざ調べたりしなくても、いつかどこかで同じトピックに出会うときアンテナが鋭くなったり。 #とと姉ちゃん
RT うん、綾さんの手紙文すごくよかった。劇中で手紙の文章がすてきだとうれしくなる。そして美しい言葉遣いからのトホホめっちゃかわいかった! 綾さん、戦後はぜひ常子の雑誌に寄稿してー! でもトホホは確かにいつ頃からあったんだろ。多分考証してあるよね。教えて詳しい人! #とと姉ちゃん
綾さん名古屋にいたんだ!結婚して汽車で行くほど遠くの夫の勤め先に付いていった彼女もまた常子ifだったんだ。経営難に悩む清の姿も、もし常子が彼と結婚して青柳継いでたら隣で一緒にうんうん言ってた筈という含みを感じた。 #とと姉ちゃん
「共感」と、「あなたは私であったかもしれない」と想像する事は、実は全然違うものなのではないか。後者は意識して訓練しないと身に付かないもののように思う。
RT ああ確かに「あなたは私であったかもしれない」は共感と違うかもしれない。『ごちそうさん』の戦争が一番身にしみたのは、まさに「私はめ以子であったかもしれない」と思ったからだ。かっちゃんの志願を悩みまくって本人のためと思って送り出し失っため以子は私だった。思い出すだけで涙が出る。
とと姉ちゃん。常子ifを細かくあちこちに忍ばせてあって、リフレインも多いし、誰もが常子で常子は誰でもある、ような。私はあなた、あなたは私。「あなたの暮らし」という架空の雑誌名には結構こだわりがあるのではないかと思い始めたここ数週。
RT「ささやかな日常を守るために戦う常子の物語」だけど、暮らしの手帖は「わたしの暮らし」じゃなくて「あなたの暮らし」になるんだよね。「(第1週浜松時代に根ざした)丁寧で美しい私の暮らしを大事にします」じゃなく「あなたの暮らし」を常子は創刊する。ほんと重要な名前だ #とと姉ちゃん
「あなたの暮らし」には、森田屋の騒がしい暮らしやデキ婚や、まっすぐだけど悔しさを抱えて張り詰めてる早乙女さんや、弟を養うために必死で汚れた手に出ちゃった多田さんや、もっと違う世界にいるお龍のような人の暮らしも、みんなみんな含まれてて、肯定される世界なんだろう。#とと姉ちゃん
いじめる人たちの事情を一切見せないんだよね。それに不満がある方もちらほらTLでお見受けするけど、いじめられるときって相手の理由なんて全くわからないもんね。そこは徹底して相手の気持ちを見せてないなと思う<RT #とと姉ちゃん
とと姉ちゃんは、苛める相手に理由や弁明の場を一切与えないんですよね、それこそ潔いほどに。RT
高畑充希さんの大きな瞳が物語をうつすレンズの役割を果たしてるんだろうなぁ
まさかの火曜日から花山! しかもいきなり1億総火の玉! 唐沢オーラはもちろんだけど、ド直球の登場ぶりに「出版業界の戦争協力、そして戦後」を真正面からやるんだなーと見てても気合が入る。常子の「見る人」ぶりを発揮した表情もよかった。先々週くらいからターボかかってるなあ #とと姉ちゃん
「1億総火の玉」の前に「使って育てる代用品」を入れてくるのがね。やっぱり、それが通底音なんだなと再確認できる。ボール投げてくれる脚本だよね。今日、美子や、もっと小さい子たちの無邪気な姿もあっただけに、花山がどんな思いで今の仕事をしているのか、非常に気になるところ。#とと姉ちゃん
編集長で1回ボツになったのが覆された経緯に、なんかフックを感じた。空気を読んで?多数派につく社員。一度は「ご時世」を慮った五反田。彼の「美しい女性大好き」キャラも、“ミッチーだから” で納得はできるんだけど(笑)、どういう造型なのかまだよく見えなくて興味津々 #とと姉ちゃん
昭和16年秋。戦中っぽくない、のんびりしすぎって感想もあれば、綾さん夫の満州赴任、この時期にしては心配しすぎでは?って感想も。朝ドラ過去作を参照してる感想もちらほら見られる。いいねって思う。どんな疑問であれ疑問を持つこと自体が。#とと姉ちゃん
空襲が始まる戦争末期に比べ、昭和10年代前半から半ばってあまり知られてないもんね。この時期の生活はどうだったか、それは軍部や政治がどういう統制をし、いろんな立場の人がどう協力した結果か、そもそもなぜ戦争の方向に進んで引き返せなかったのか…知りたい考えたい #とと姉ちゃん
食料が配給になり、しかも欠配も出ていると美子の言葉からわかっただけじゃなく、あれほど品数豊富で豪華だった青柳の食卓さえ淋しくなってる絵面だけでもウワーと思うし、あの滝子が「口をつけた残り物だけど食べて」と言うなんて、もう相当だな、と思ったなあ #とと姉ちゃん
戦前、特に都市部では、豪華な食卓やデパートでのプチ贅沢を楽しめた人々もいる。それが配給になり欠配も…すごい落差。それを国民が団結して何年も耐えた。耐えるしかなかったんだろうけど、どんな気持ちだったのかなと思うね。スローガンに励まされたり拠り所になったりしたのかな #とと姉ちゃん
「日本が勝ったら戦争終わるでしょ?」と無邪気に言えてしまうよっちゃんみたいな子の裏には、それを信じさせる花山みたいな人間がいるんですよという話の組み方で、唐沢兄貴の背負ってる物語の重さにくらくらしますよ… #とと姉ちゃん
実体のない「このご時世」とやらを、みんなが忖度していくうちに、想像の共同体としての「ご時世」が出来上がるというのが、日本社会の特徴か。忖度という言葉は難しいが、今風に言えば「空気を読む」だ。この言い方にすると、戦前も戦後も日本社会の底流が変わっていないのが判る。 #とと姉ちゃん
#とと姉ちゃん 昨日、滝子様の病名を明かしたことで喧々諤々になって、昨日の今日で自粛意識の蔓延やら、感情表現もままならないという話になったけど、ここでの反応も狙ったうえでの描写だったなら狙い通りだよ。
居丈高でひねくれ者、「一億火の玉」と檄文を唱えた花山さんから出てきた挿絵は、明るく綺麗な彩色の「ちいさいおうち」。胸に大事に抱きたくなるような、素敵なカットだった。興味が募る人だなあ。常子が彼に迫っていくのが楽しみ。#とと姉ちゃん
あんな怖くてめんどくさい初対面の花山に、常子がまるで臆せず賭けまでできちゃうのがわかるんだよね。心無い意地悪や知らんぷりに、卑屈にならず相手の土俵に乗らず、いつも良い意味で「自分本位」な対応をしてきた常子だから。#とと姉ちゃん
三兄弟にも、モブ女学生たちやタイプ室の女性たちにも、常子は卑屈にならないし対決しないし恨まない。二人三脚とかテストで一番になるとか、いい意味で自分本位なんだよね。小橋家の子育てで培われた自己肯定感が芯にあるからできることなんだよね。
お。初めてやってみたよ、自分のツイのRT。
意地悪や怒鳴られたりなど、負のはたらきかけに対する常子の「怖がらない・まともに相手しない・自分本位の対応に徹する」処し方は、本当に見るべきものがあるな。それをできるのは小橋家の子育てによって芯に強固な自己肯定感があるから。常子には既に暮らしの手帖の核があるよね #とと姉ちゃん
”ご時世” ”お国のために" をバックにした国防婦人会に対して「どこを歩こうが私の勝手です! スタスタ…」ができたのもそれだよね。相手の土俵に乗らず、自分の意思をぐらつかせず、必要以上に議論しない=勝とうとしない。個が確立してるからできる華麗なるスルー術。#とと姉ちゃん
常子の場合いろんな人に出会う中で培われてきた経験値があって、人間どんな経験も糧になるけど、だからって苛めの存在が許されるわけじゃないよもちろん。肝心なのは、経験値があるからじゃなく、確固たる自己肯定感があるから、どんな人に会っても流されたり怖がったりしないってこと。#とと姉ちゃん
逆に考えれば、自己肯定感や個の確立がしっかりあれば、意地悪するとか、虎の威を借りて優位に立とうみたいな、他人への負のはたらきかけもしない・必要ないんだろうな。「自分の暮らしを大事に」の価値観につながるね…。#とと姉ちゃん
大声で怒鳴るキャラの枚挙にいとまがないのも、逆説的にそういうことを表してるんだろうな。自分で自分を肯定できてれば外界を恐れる必要ないから怒鳴ったりしなくていい。宗吉にも大声と裏腹に気弱いところがあった。だったら、今の花山さんもそうなのかな。あー楽しみ #とと姉ちゃん
清、昔は自分を認めてほしくて構ってほしくてトンチキ自慢話してたけど、今はみんなを笑わせたくてミサワを買って出ているのが泣かせるぜ。いい男になったもんだねえ #とと姉ちゃん
なんといっても、唐沢さんの登場、そしていきなりの常子との対峙に尽きるでしょう!
五反田ミッチーよろしく、土曜にでもチラッと顔見世して終わりかと思いきや、火曜日にいきなりきましたよ。「また一人、とと世界に大声で怒鳴るキャラ登場か」という火曜のあと、水曜日にはもう複雑な内面を見せる。居丈高に常子を追い返したかと思うと「書く気がなくなってしまったよ~」とおどけて見せ、めんどくさいと言われて賭けに乗り、負けると、サラサラと迷いない優しい筆遣いで描く。ヒールの折れた靴を脱いで笑顔で去る常子を見つめる表情! 芝居のひとつひとつに意味がある。なんて楽しい。
その唐沢さんにして花山さんと対峙する常子がまたすばらしい。素っ頓狂なキャラに相対して、びっくりはしても怖がらないのは常子そのもの。迷わず素足で帰るのも。私たちの常子が、唐沢寿明演じる花山伊佐次と対峙している。物語はとうとうここまで来たんだねえ!
・・・という裏で、着々と立ってゆくフラグにおののく前半でもあった。当たり前だけど、相変わらず、よく練られている構成だと思う。一週間が終わってみれば、花山が出たのに前半は後半のクライマックスへの序章のようでもある。でも火曜と水曜、合わせて10分も出たかどうか?な花山の印象はやはり強く、「戦時中の花山」の姿が物語の中でどれほど重要かもよくわかるのだ。