『真田丸』 第26話 「瓜売」

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佐助、泣くこたぁなかろう(笑)

面白エピソードのはずのやつし比べが・・・なんて虚しい結末だったでしょう。張り切る者がいて、出場できない者がいて、ともあれ皆社長のの接待パーティのつもりだったのに、接待されている本人が実はその虚しさ徒労を悟りきっていた。

「士気などとうに下がっておるわ」 この一言の威力! けれどどうすることもできない。天下統一、虚しい。虚しすぎる。もはや誰もが・・・秀吉本人さえも、「天下統一された世界」に身を捧げるしかない。その中身はほとんど虚構というか空っぽというか。秀吉政権が過渡期であることを強く印象付ける。

足掻きながらもたくましく生きる人間たちの姿が描かれるドラマだけど、同時に「時代」「時代の移り変わり」を描こうとする意思も強く感じている。信長が滅び、大坂にこれまでとまったく違う秀吉政権が樹立して、やがて北条が滅び千利休が滅んで天下統一が成っている。時代は着々と移り変わっている。しかし未だなお、過渡期である。という今。

時代の激動が描かれていく中で、信繁兄弟の祖母にして真田家のゴッドマザー・とりがこの世を去るにあたり、「そんな時代に翻弄されない個」を語った。物語に打たれた楔、ここから大きな転機だな!

武田滅亡以前の真田の興亡について、ドラマは多くを説明しない。説明せずとも、「長い激動を雄々しく生きてきた戦国の女」としての存在感を草笛光子がばっちり醸している。そのとりが、死を前にしながら(ナレーションが物語を語ろうとするのに抗して!)堂々たる立ち姿と声音で言い遺したのは、時代を超越し、物語すら超越しようとする、この物語のシャーマンのお告げのような言葉なんだろう。

人はみな、さだめを持って生まれてくる。早いも遅いもない。己がさだめに気づくかどうか。

「さだめ」とは、もともと、天から与えられるような、不可避・必然なニュアンスの言葉だけれども、ここでは同時に「自分で決めるもの」という意味合いがあるようにも感じた。時代のせいにせず、環境のせいにせず、逆境にあっても己がさだめのために生きる。「真田を守り抜け」と行ったのは、それが戦国に生きる者の自然な姿でもあり、それがとり自身の「さだめ」であったということだろう。

「見ておるぞ、ばばは。怠るな」という声かけがよかった。先に逝った人が天から見ている。その人に恥じないように生きる、というのは日本人らしい死生観で、「怠らず生きる」というのは天に恥じない・・・それは、己に恥じない誇り高い人生を示しているように思える。天と己がイコールで結ばれるような感じをイメージした。そういえば氏政も家康・景勝・昌幸に対して「見ているぞ」のようなことを言っていたね。

時代を描きながらも、時代に押し潰されない兄弟の姿が、これから描かれていくんだと思う。まだまだ、時代の波間に消えていく人人がたくさんいるけど。というか主人公こそ、そういう類の人としてこれまで認識されてきたわけだけど。

これまでにも、兄弟2人並んで里を見下ろすシークエンスが何度かあった。2人が違う道を選ぶとき、きっとまた繰り返されるんだろうね(泣)

てか、やつし比べ面白すぎたんだけど(笑)。ああいう場面は、三谷さんはさらさらっと書くのかなあ。それとも腕によりをかけて念入りに仕込んでいるのかなあ。クドカンが「潮騒のメモリー」の歌詞を5分くらいでサラーッと書いた、みたいなこと言ってて、ああいうのってセンスなんだなーと思った記憶があるけど。

作り手も、視聴者の私たちも、内野さんの見事な腹作りを声を枯らして称賛したい。そんな感じでしたね。昌幸パパの美しすぎる&美声すぎる瓜売りも良かったし、小日向さんが売り口上始めたときにはひっくり返りそうになった(笑)。見ている堺さんの表情もいいし、「殿下はご自分を見失っておられます」三谷さんのセリフも冴えまくり。

印象的だったのは、兄弟2人してばば様に向かって「時代」について問うんだけど、同じ危機意識を持つに至る過程は対照的なんだよね。信繁は、秀吉を見たり、三成や刑部と話したり、実際の仮装大会での人々の様子など「外」のいろいろを見て、感じ、判断してる。信幸の心を揺さぶったのは(家康とも話したけれども)とにかく「父・昌幸」の瓜売騒動一部始終。いつもながらにそこは徹底されてるなと思った。信繁は自分の目で広い世界を見てる。信幸はいつも、父の姿を通して世界を見てる。であれば前者のほうが断然有利っぽいのに、2人の視野の広さや見通し能力にはほとんど優劣なく、むしろお兄ちゃんはなんだかんだいっていつも時代の先を見ていて、しかも生き残るんだよね。

もちろん秀次の乱高下もつらかったけど(新納さんほんとうまい!)やるせない顔ばかりのきりちゃんもなんか切ないなー。茶々に執着される(そしてなんだかんだ言って自分も気になっている)信繁と、秀次に執着されるきりちゃん(なんだかんだいって離れられない)きりは、今んとこパラレルなんだな。となれば、本来のウザさがなりをひそめてるきりちゃん同様、秀吉や茶々のそばにある信繁もやはり本調子じゃないのかもしれない。

いや、きりちゃんの「秀次さまはご自分の話ばっかり」はさすがだったけどね。身分差考えればあったりまえだろ! しかし身分柄、自分の話をいくらでも聞いてくれそうな側室を山ほど抱えながら、きりを求める秀次ねぇ・・・。

物語が折り返しまで来たのに、主人公(今作では兄も含めていいだろう)がまだ自分の家族をしっかり作っていないって、すごく珍しい大河だと思う。信幸にも妻2人いるけどどちらともおさまるべきところにまだまだおさまってない。もちろん、意図的な作劇なんでしょう。今回、とりの逝去と時を同じくして、稲とおこうが同席し、春・たかという信繁の妻になる女たち、そして娘のすえも出てきた。これからその辺もしっかりしなきゃね!って感じに描かれるんだろうなー。楽しみ。

 

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『とと姉ちゃん』 第13週 「常子、防空演習にいそしむ」 ツイートと追記: 二項対立ではない世界

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 人はやっぱり二項対立で物事を捉えやすいのかな。#とと姉ちゃん はそこから脱する世界を指向していると思うけど。君子vs滝子、常子vs早乙女など、対立を描いても、決して簡単に善悪や優劣を断じない脚本で、だから対立が胸に突き刺さるんだけど。ジェンダーの問題にもまだ全く結論出してないし。

常子がいい女で早乙女がダメな女、そういう描き方では全くなかったと思う。早乙女は終始美しく凛として、さらにささやかな心がけを持つ女性として描かれた。仕事における頑なな態度や辞めてゆく人間を擁護しないのは環境が大きいという描き方だったと思う。環境の限界が個人の限界を作る

常子が早乙女と対立して己のやり方を貫けたのは、小橋家の教育と「自分で考えて動く」資質ゆえ。でも雑用をやり続ける根拠「困ってる人を助けたい」はビジネスの場においてあまりにあまちゃん論であり、最後はあのとき褒めた部長に切り捨てられた。あの環境に敗北したのは早乙女も常子も同じ

対立したあと常子と早乙女の心が通ったのは、全く違う考えでも「自分で考えて動く」点、共通してたから。そんな2人がそれぞれ頑張っても会社は変わらないというシビアな現実は、ドラマの将来に向けて必要な描写。2人とも等しく頑張ってて必死で、いい女・ダメな女という色分けには全然見えなかった

男と女しかいないんだからうまくやっていくしかない。それは滝子という人物の考えで、このドラマの結論では当然ない。常子はその言葉にとりあえず納得したけど、それが世間で簡単に実現しないのは、常子自身が女だからと容易く首を切られた現実によって示される。答えはまだ探し求められる途中

力では男にかなわないのは事実。物騒な世情では男がいるだけで安心なのも事実。中年女の君子になかなか仕事が見つからないのも、職業婦人でも簡単に首を切られるのも事実。そんな世の中で女性がどう生きていくか、そう考えて作られるのが主人公の出版社ではないですか。立派にモチーフしてるよ。

甲東出版で男女の別なく意見を言える環境を得たけど、そこでは男は全員徴兵されるという「男女の別」が皮肉に展開される。予告で社長も五反田も復員してたけど、常子は出版社を立ち上げるみたいだ。甲東出版ではなく自分で。何か理由があるんだろう。まだまだ物語は続いてる途中。

ジェンダーの問題にしても、どっちがエラいとか簡単に決めつけてない。女性の社会的・身体的弱さをきちんと描く一方で、男たちが徴兵され戦死する現実も描かれた。鳥巣商事の課長も部長も、やな奴なだけでなく、彼ら自身決して幸せには見えなかった。会社社会の男性の屈折や鬱憤をひしひしと感じた

男女の現実、時代の厳しさを描いたうえで、男だとか女だとかではなく、滝子のような強い人や君子のようなほわわんな人、どちらを称賛したり断罪したりでもなく、すべての人が「一人の人間として尊重される」のが #とと姉ちゃん 世界の理想。「あなたの暮らしを大事に」で常子はその実現を目指すんだろう

キャラ萌え的な視点で見てると「キャラが大事にされてない」「使い捨て」に見えるのかな? 私はバカ三兄弟も早乙女さんも多田さんも諸橋さんも、長谷川やお竜も、ずっと覚えてると思うけどな。出番の多寡はあってもそれぞれ鮮やかな印象。劇中で語られない部分もいろいろ想像させてくれたよ。

 

 

卯月の十四

●4月某日: 正式な新学期2日目だが、年長さんだけ園外保育。路線バス(! いつもながらすごいよね…)に乗って、「春の田んぼ」に行く。

年中さんの途中から、そんな日は前日に、先生が絵を描きながら「持ってくるもの」の話をする、らしい(うちの園では文字を教えないので)。大きなリュックサックの絵を描いて、その中に、お弁当とか敷物とか着替えとかビニール袋とかの図を描く。水筒と帽子はリュックの外に描く。そうしながら説明する(たぶん)。それと同じ絵をプリントにして配る。サクはそれを「これは、こどものおてがみやけん! みらんで!」と独占して、準備できるものは昨日から準備していた。えらい。そんな今日のサク弁は、おにぎり3種(塩、さけ、手作りふりかけ)、ハンバーグ、卵焼き、こんにゃくのおかか和え、りんご。食べやすさ重視ですな。


迎えに行くと子どもたちはすでに帰ってきていたが、テンション全開で園庭で遊んでいる子が多く、なかなか帰る雰囲気にならず。楽しかった感覚をそのまま持続しているんだなと。

先生からのクラスだよりに「れんげはもう咲いていないかもしれませんが、すずめのてっぽう、きつねのぼたん、菜の花、おおいぬのふぐりなどさがしてきまーす」とあったとおり、持参したビニールッ袋に草花を摘んで持って帰ってきている子が多く、サクは「はい、おかあさん」とレンゲ草などいくつかの種類ので編んだ首飾りをかけてくれた。くー、子どもって親に何とも言えない優しい思い出をくれますね。

「シートすべり楽しかったー」と、園での遠足では恒例の、弁当を食べた後は敷物を乗り物にして坂を滑るという遊びを今日も満喫したらしい。「ふたりのり したり、たって、こーんなポーズしたまますべったりした」危険行為も満喫したもようw 夜ごはんは、カツ丼、きゅうりとトマト・鶏ハムのサラダ、蒸しキャベツのおかか和え。

卯月の十三

●4月某日: やっとこさ、今日が1学期の正式な始園日。ということはサクもわかっていて、ついに年長さんになると張り切っている。「はんこノート(出席ノート)も、おたよりぶくろもあたらしくなるー。なふだももらえる!」とワクワクしてるし、年長さんは、幼稚園では特別な存在。うちの園は小規模でクラス替えもないので不安ってのはほとんどないのよね。先生は変わりました。ベテラン先生で、親は安心。

送って行った帰りにクラスのママ友にちょうど会う。彼女のご主人の実家が阿蘇方面ということもあり、週末から心配してた。聞くと、家の倒壊は免れたけど、集落の皆さんで避難してるらしい。彼女たち夫婦もそうだし、うちの夫の妹(つまり私の義妹ね)夫婦も熊本の大学で知り合って結婚した夫婦なので、必然、今も熊本に住んでいる友人も多く・・・。

土曜日に放送休止になったのと、2話連続で「とと姉ちゃん」が放送される。スーパーに行くと、ティッシュペーパー・トイレットペーパー・カップラーメンの棚ががらんどうだった。夜ごはんは、鶏肉とキャベツの味噌マヨ炒め、小松菜おひたし、卵とわかめのスープ。

 





 

テレビ画面のL字テロップでも出てたんだけど、福岡市長、高島さんの仕事で、旧・大名小跡地に福岡市が支援物資を募って、現地にヘリ等で送っているらしい。募集品目を絞って(トイレットペーパー・おむつ・生理用品など6種類)それぞれ集める教室を決めて、何がどれだけ入っているかを明確にして送る、と。支援物資を送る場合、仕分けが最大の時間と労力のロスになるので、そこをできる限り送る方で負担し省力化したというのが重要らしい。諸岡の青果市場跡(最近、統合移転したばかり)は、政府主導の支援物資の拠点にしたんだって。ほんと、福岡から送ると近いもんね。

 

卯月の十二

●4月某日: 今朝は、夫とサクは4時ごろ、私は5時過ぎに寝た感じ。夫は余震の合間にもスースー寝息が聞こえてて、落ち着いてるなというか疲れてるんだなというか、まあ眠れるのはいいことである。

度重なる地震は、震源を大分に移したものもあり、交通網も遮断されつつあるというので、夫が朝9時前に近くの大きなスーパーへ買い出しに。客は普段のこの時間よりなかなか多く(夫談)、水は売り切れかけていたらしい。

とと姉ちゃんは休止(九州は昨日も朝は休止だった)、わずかに通常放送をしていたEテレをサクが見ていたが、やがて震度6弱の余震(?)が熊本で発生したのを機にこちらも関連ニュースに切り替わった。そののちも、普通の放送かなーとテレビをつけていると、緊急地震速報の画面になったりするので、子どもは怖がっている。トイレに行くときも、パパかママについてきてもらって、ドアの前で待っててねと言う。怖いという気持ちは当然だし、それをちゃんと言葉や態度に出せていることには、せめて安心するというか。

午後からは幸い、こちらでは大きな揺れはかなり減った。昼ごはんのあとは3人して2時間ほども昼寝。断水に備えて風呂に水を溜めていたので、ドライものの洗濯や、風呂の念入りな掃除などにじゃんじゃん使った。夜ごはんはもつ鍋。美味しかった・・・。ビール、白ワイン。サクを寝かしつけながら私たちも寝てしまう。

 

●4月某日: 福岡では余震がだいぶ減った。それで家族3人して寝坊したうえ、昼寝まで。たった一晩・二晩でも疲れるんだろうなと思う。まして熊本大分ではぐっすり眠るヒマもないだろう。もちろん福岡だってこれで終息に向かうわけじゃないかもしれない。ただ熊本大分では今も震度3や4、時には5クラスの余震がずっと続いていて、「いつまでこれが」と先が見えない思いがしたとき、人は気力がなくなるんだと思う。

あんまりしっかり外出する気にもなれないので、サクの散歩を兼ねて近所で買い物したり、自転車につきあったりしたぐらい。サクはプラレールやブロックなどパパとみっちり遊べて満足そうではあった。こむぎねんどに絵の具でいろんな色を付けて一口大サイズに切り、爪楊枝をさしたのを皿(に見立てたもの)に乗せていっぱい運んでくる。お店の試食ごっこらしい。

「こちらは、サーモンです(オレンジ)」「きゅうりです(緑)」とかはわかるんだけど、「これは、さくらんぼのわたあめです(ピンク)」あたりから独創的になってきて、「コーンスープを固めたものです(黄色)」とかだんだん謎のものを供される。

NHKでも、夕方のEテレ子ども番組や、総合「ダーウィンが来た!」「真田丸」など通常通り放送された(福岡)。真田丸の冒頭、画面に青い逆L字でニューステロップが出ていたので思わず「あー、L字かー」とつぶやいたら、サクが「なに? なになに?」と激しく興味を示したので説明すると、「なーんだ。もっとたいへんなことかとおもったら、あんまりたいへんなことじゃなかった」と一蹴される。夜ごはんは、ほっけ、味噌汁、きゅうりとわかめの酢の物、大根おろし。

 

『とと姉ちゃん』 第12週 「常子、花山伊佐次と出会う」 (下)ツイートと追記: 個は弱いけどきっと途絶しない

 

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平凡な男が暮らす小さなかわいい家は切り取られ、200年続いた伝統の店は看板を下ろすのだった。えらく偉そうで周りを振り回しているらしい男が書く存外綺麗な絵も、きっぷのいい女店主が関東大震災からも立てまわして切りまわしてきた店も、システムに対しては弱い個でしかない。

印刷された絵も文字も、検閲の結果、切り取らなければならなくなった。いっぽうで滝子は、店の中という実体ではなく、帳簿に書かれた文字を見る。ここも対称だったんだな。戦後、常子は書かれるものの強さを信じ、それを誰からも脅かされない雑誌を作るんだろう。もう二度と切り取らなくていい世の中への願いを込めながら。

「美しすぎる」なんて、もはや使い古された感のある形容詞がこれほどぴったりくることもないんじゃないかという、「美しすぎる祖母」滝子が登場したとき、これはいつか彼女がボロボロの老婆になる前フリの姿なんじゃなかろーかとも思ったけど、滝子は凛としたままで物語から去っていった。それが、彼女の誇りが守られたように感じてホッとしてる。

先週の森田屋・今週の青柳と立て続けに戦争によって店を閉めることになったわけだけど、森田屋は家族の絆をさらに強めることが示唆されながらの退場、青柳滝子は最後まで自分で決断し誇り高く、息子と番頭に支えられ、常子に自分の商いの(生き方の)精神を伝えた。ツイートしたように、個の弱さ、限界を描き、蹂躙される姿を描きながらも、しぶとい個、完全に葬り去られたりしない個の姿を描いていたと思う。

そして、絵が切り取られてから物語の舞台からも消えたままの花山伊佐次はどのような顔をし何を思ってこの戦時中を過ごしているのか、気にならずにはいられない。ここはもちろん、わざと、彼の気配を殺しているのだ。「一億火の玉」の激烈なコピーだけを残して。

 

 

卯月の十一

●4月某日: 冬の間、いろんな都合(主に子どもの体調不良など…)でキャンセルも相次いだりして、実質充電期間になっていた「ママじゃな」久々の取材! しかも今日のモデルは、帰福中の親友しず氏! ママじゃなを始めたあとに、お腹に赤ちゃんを迎えた彼女が、よちよち歩きはじめた双子ちゃんを連れて取材に応じてくれたことに月日を感じるぜー。

今日はちひろスタジオを拝借。双子ちゃん+ちひろちゃんの息子シュータと、1歳2か月児が3人なので、ちょっとベビーシッター頼もうかーと、ちひろちゃんが園のママ友にお願いしてくれて、結果、ママ友ちづちゃんの娘ちゃんも含めて1歳前半台の子どもたちが4人集合! 子どもたちみんななかなかご機嫌よろしく元気に遊んでて、ほのぼのー。お弁当や、持ち寄った美味しいものを食べつつ、楽しく取材ができた。

vol.22 こんどうしず の 「ママじゃない私」 ポートレート - “ママじゃない私” ポートレート

 

天気がいいので外に出て撮ったり。双子ちゃんにごはんを食べさせたり抱っこしてるうちに寝ちゃったりして、赤ちゃん充もしました。むふー。たまにだと、楽しくて癒されるんだよね。毎日、毎回だときついんだよねー。

夜ごはんは、ぎょうざ。キャベツと人参、ハムのコールスロー。いかの天ぷら(お惣菜)、りんごなど。夫は接待で、ソフトバンク戦をスーパーボックスにて観戦。ちょうど中継もやっていたのでテレビをつけていると、「あー、おとうさんにあいたくなってきたー」とサク。ヒーローインタビューの内川と一緒に私も泣いちゃった。

 

そして夜中の1時26分、のちに「これが本震」と言われるM7.3の大地震が再び熊本を襲い、ここ福岡も震度5弱だったとかで、激しく揺れた。ゆうべはちぃとも起きなかったサクも目を覚ました。てか、パパママのスマホからダブルで緊急地震速報がくるので、あの音で起きるよね…。

1時55分にも大きな地震、それからも余震多く、つまり緊急地震速報も多く、眠れない。福岡でこれなんだから、熊本はどれほど・・・と思う。サク、泣いたり騒いだりはなく、「じしんがきたら、ぎゅってしてね」と言って、夫にしがみついている。

 

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卯月の十 / 劇団四季「美女と野獣」

●4月某日: サク弁、ごはん、豚バラとキャベツの炒めもの、たまごやき、さつまいもサラダ、小松菜。今春、放送大学の選科生になり、前期は1科目だけ申込んでみたのだが、午前中、その授業をパソコンで視聴。すごく面白い。2時、迎えに行くとサクは超元気。
 
 
そして楽しかった外遊びのテンションそのまま、公園にちょっと寄って帰り、いったん帰っておやつを食べると(トーストとエクレアという、それおやつ?なレベルの捕食)自転車乗りたいというので付き合う。元気で何よりです。

夜、定時で急いで帰宅してくれた夫にバトンタッチして、劇団四季『美女と野獣』公演を見に行く。姉がチケットをとって誘ってくれたもので、そのチケットといったらなんと最前列だった・・・・! これはすごいド迫力。

動きのひとつひとつや、歌う口元まで鮮明に見えるのはもちろんのこと、一曲激しく歌い踊ったあとは、プロたちでもさすがに小さくゼェハァしていたりするのがわかる。それでももちろん、表情にも次のお芝居にも乱れは見せない。主演ってすごい! ベル役の女優さんの歌声が本当に綺麗で、華奢で顔も小さく、すごくチャーミングだった。踊りもすごい。帰って調べてわかったのだが、彼女は弱冠25才で、去年、四季に入団したばかりで劇団内のオーディションを受け、ベル役をつかんだのだそうだ。実力社会…! 

スピーディな舞台転換、めくるめく展開に、あー、劇団四季ってこういうのだった、と思い出した(10数年前にライオンキングとオペラ座を見て以来)。そして美女と野獣だけあって、歌や舞台背景は当然ながら、役者さんたちの動きもめっちゃディズニーだった! その再現性といったら目を瞠るものがあり、特にガストンさん! 臭ってくるようなマッチョさであった。ベルナールの人が及川ミッチーに見えてしょうがなかった、とは観劇後、姉と一致した意見。

姉は前半の終了時点で既に滂沱の涙で、私は感動しても絶対泣かないぞーと思ってたけど(泣くと疲れるから)、最後にチップ少年が人間に戻ってお母さんの前に出てきたら絶対泣くよなーとはうすうすわかっていて、当該シーンは歯をくいしばって臨んだけどやっぱりちょっと泣いちゃいました。いや、想像以上にとても楽しめました。

福岡シティ劇場ってすごく狭いのね。あれで群舞のときとかまったくぶつからないのスゲー。で、駐車券を機械に突っ込もうとしていた21時半前に、あちこちからブーブーと異音が聞こえ出し、「地震?!」という声があちこちで。キャナルシティにいると揺れはほとんど感じなかったけれど夫からすぐにLINEあり。福岡は震度4だったそうだがサクは既に眠っていてまったく起きなかったとのことで安心して帰ってから、熊本が震度7と知って驚く。しばらく、夫とテレビ画面に釘付け。震度3程度の余震も4,5回ほどかあったけど、子どもが一切起きなかったのが有難かった。
 

『真田丸』 第25話 「別離」

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「地雷」と言いますか、とっても苦手な分野って人によっていろいろだと思いますが、私は「子どもが死ぬ」展開。だから鶴松の死をがっつりやられたらつらいよなー、でもこのドラマならがっつりやるだろうな、薄っぺらくされるのも違うしな・・・といろいろ考えながら録画を再生して、秀吉の「鶴松は何のために生まれてきたんだ」から涙をこらえるのに必死でした。悲しいよ。本当に悲しい。

これまで、どうも人間らしい情ってもんに欠ける(三成なんかよりよっぽど!)きらいがあり、正室の寧にも「昔から怖い人だった」と証言されている秀吉が、我が子に関しては、どこまでも普遍的な親の愛情を見せていたのが、なんかホッとするような、だからこそ怖いような…だよね。鶴松が息絶えたあと、呆然と部屋を出ていく茶々の表情と歩き方、今作の竹内結子には何度も何度も目を瞠らされます。後ろでとってもかわいい音がころころと鳴っていて、秀吉がやはり呆然と、愛児の亡骸に向かってでんでん太鼓を鳴らしているんだよね。抑制された中に想像を絶する悲しみが表現された演出だった。

鶴松の臨終を御簾を隔てて見届けた寧は、何を思っただろうか。秀吉に寵愛され、子宝にまで恵まれた茶々に対して、これまで心穏やかなだけだったとは思えない。けれど茶々は子どもを持ったからこそ、その子を失うという未曽有の経験をするわけである。同じく我が子を失くしためおとを前にして、寧が秀吉ではなく茶々のもとに行ったのはなぜだろう。女として茶々の悲しみのほうに共鳴したのだろうか。秀吉にはどんな慰めすら通じないと思ったんだろうか。

何にしても、寧は豊臣家の人間であり、茶々のこともまた「豊臣の家族」だと思っているんだろうな。秀次や、宇喜多秀家、小早川秀秋、そして清正や正則も、鶴松の死を家族の悲しみとして受け止めていた。一方で、外部の人間たちの薄情なこと。でも、それが人間ってもんだろうな。秀吉はこれまで、諸大名たちの心中など忖度せず、踏みにじることもかまわずに、駒のように使いながら天下統一への事業を行ってきたのだから、なおさら。

そんな中で、政治とは一線をおいた(というか何の力もない)存在で、鶴松の容態を父にも伏せ、秀吉や茶々の悲しみに心を寄せるという、「豊臣家の外の人間」としては唯一といっていいほど人間的な振舞いを見せていた信繁が、良かれと思って秀吉から引き出した言葉といったら・・・! 三谷さん恐ろしいもんを描くなと思った。

「さだめ」と言ったが、利休が結局は「己の業」によって滅ぼされるのなら、これまでの酷薄さにプラスして我が子への執着が、やはり秀吉と豊臣家の業になるのだろうか? そして、秀吉から大陸出兵の言霊を引き出してしまった源次郎は? それも彼の業としてカウントされちゃうんだろうか?!

鶴松の死と、利休の死。

鶴松が死ぬことによって「やはり豊臣は一代で終わるかも」と関東の両狸がほくそ笑む。全国に似たような大名・諸将は大勢いただろう。彼らは秀吉に押さえつけられ、場合によっては虐げられてきた。自分の領国を自分で差配し、それがままならないときは戦場で暴れまわる、そんな世に戻りたいと思っている。戦国乱世はある意味フリーダムなんである。

でも利休は言った、「戦は儲かりまっせ」 誰か源次郎が儲けるための戦をするために払われている犠牲は何だろうか? やっぱり戦の時代が終わっていくのは正しいんだと思わされる。けれど利休が死に、鶴松が死んで、このあとは半島出兵の時代になる。

利休の祟り。について考えると、頭がこんがらがる。

死んだ利休が、秀吉への恨みで鶴松に祟った? 
でも、利休の死を呼び寄せたのは、茶々?
では、結局は死神たる茶々が鶴松の死を招いた?

鶴松の死によって大陸出兵の言霊が成った。
それを引き出した源次郎は、いつかどこかでその代償を払うのか?
でも、源次郎って、「利休の業の茶」を飲んだんだよね。だから、あれは利休が(利休の業が)引き出した言葉ともいえるのかな。

大陸出兵は多くの悲劇を生む。
秀吉政権の大いなる負の財産になる。
もとをただせば、利休の祟り? その元をたどれば、茶々の死神パワー?
いやいや、秀吉の単なる自業自得?

利休は、大谷刑部にも祟る?
その大谷と運命を共にする三成は?
そして三成と、最後まで豊臣のもとで戦う源次郎は?

しかし、利休にそんなに祟られるいわれはあるのかね(笑)。
ただ、氏政に続いて滅ぼされた利休もまた、やはり「戦国の象徴」なんだと思う。己のための戦をする人。

新しい時代を迎えるまでに、戦国人は駆逐されていくさだめということだろうか。昌幸なんて典型的な戦国人だ。その昌幸をリスペクトして、いの一番に会いに来たのが大谷刑部だ。三成は「戦乱の世を終わらせる」ビジョンを持っていて近世人に近いポジションのようでいて、今回は水垢離をしていた。というか、前回は昌幸に戦の指南を頼んでいた…。そして不器用な自分をずっと友がら的に遇してくれる大谷刑部に対する情が厚そう!

近世人になれる者だけが生き残る。お兄ちゃんのように。お兄ちゃん今日も苦労してたw 苦労して足掻いてかっこ悪くても、自分のための戦争をしない新しい時代に順応できる者が生き残る、と。うん、源次郎は最後に、己のための戦をするような気はする。これまで死んでいった盟友や愛すべき人々の思いを勝手に背負って。源次郎って、そういう業の深い人間なのかもしれない。いや、まだわかんないけどね。

 

(おまけ)先週の月曜日、北条滅亡回についてまだ考えてる、つらつら連ツイ

 

















 

『とと姉ちゃん』 第12週 「常子、花山伊佐次と出会う」 (上)ツイートと追記: ひとつひとつ、すべてに意味があるねって

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なんといっても、唐沢さんの登場、そしていきなりの常子との対峙に尽きるでしょう!

五反田ミッチーよろしく、土曜にでもチラッと顔見世して終わりかと思いきや、火曜日にいきなりきましたよ。「また一人、とと世界に大声で怒鳴るキャラ登場か」という火曜のあと、水曜日にはもう複雑な内面を見せる。居丈高に常子を追い返したかと思うと「書く気がなくなってしまったよ~」とおどけて見せ、めんどくさいと言われて賭けに乗り、負けると、サラサラと迷いない優しい筆遣いで描く。ヒールの折れた靴を脱いで笑顔で去る常子を見つめる表情! 芝居のひとつひとつに意味がある。なんて楽しい。

その唐沢さんにして花山さんと対峙する常子がまたすばらしい。素っ頓狂なキャラに相対して、びっくりはしても怖がらないのは常子そのもの。迷わず素足で帰るのも。私たちの常子が、唐沢寿明演じる花山伊佐次と対峙している。物語はとうとうここまで来たんだねえ!

・・・という裏で、着々と立ってゆくフラグにおののく前半でもあった。当たり前だけど、相変わらず、よく練られている構成だと思う。一週間が終わってみれば、花山が出たのに前半は後半のクライマックスへの序章のようでもある。でも火曜と水曜、合わせて10分も出たかどうか?な花山の印象はやはり強く、「戦時中の花山」の姿が物語の中でどれほど重要かもよくわかるのだ。