『とと姉ちゃん』 第13週 「常子、防空演習にいそしむ」 ツイートと追記: 二項対立ではない世界
昭和15年の出征と昭和19年の出征とは違う。「カーネーション」でもやってましたね、勘助(1)の出征のときと、勝さん(だったっけ?糸子夫)のときと、泰蔵兄さんのときとの違い……。本音と建前が違うのも。「ごちそうさん」の源ちゃんのときも。#とと姉ちゃん
のちに「みんなが自分の暮らしを大切にすることで戦争のない平和な世に」と願って創刊される「暮らしの手帖」だけど、「自分の暮らし」に集中するのは難しいね。人は周りを見ちゃう。周りにも笑わないことを強要したり、周りが苦しむのを見て自分も何か差し出さなければと思ってしまう #とと姉ちゃん
全然面白くないと思いながら戦意高揚の文章を載せ続ける常子たち。鞠子のように「ご時世だから」と肩をすくめる読者もいれば、三宅さんのようにそれを支持する読者もいるのかな。検閲以前に、戦意高揚でない記事が載れば、三宅さんのような読者から激しいクレームがくるんだろうな。#とと姉ちゃん
仕事があるだけありがたい、みんな我慢してるから私もしなくてはという状況は今とさほど変わらない気もする。それぞれに事情があると思いやりすぎて、受け入れて、自分を犠牲にするだけでは現状は何も変わらないんだよねぇ。 #とと姉ちゃん
よっちゃん手先器用なんだからおもちゃくらい作れそうだけど、これはまだ青柳が看板おろす前に模型作って遊んだ中に美子がいた話と対になっている…というか、そういう余裕がないんだよね、美子自身に。それは物書き志望の鞠子が万年筆を食べ物に交換しようとするとこにも出ている #とと姉ちゃん
そんな中でふかし芋の弁当に花にんじん添える君子は気遣いや余裕を失ってないというあたり、これが骨の髄までお嬢様だということの強さなんだなーと思うわけで #とと姉ちゃん
余裕が無ければ工夫は出来ない、という描写が徹底される中で唯一描かれた工夫が、君子さんが詰めた可愛らしいお弁当。君子さんみたいな人もいていいんだよ、と繰り返し描かれている所、好きです。(基本的には君子さんに対する見方がむしろ厳しい脚本だと思ってるけど) #とと姉ちゃん
帰り道で泣くよっちゃんに寄り添い、嘆きつつも奮起する鞠子に寄り添い、空襲のあと自信喪失する鞠子にも寄り添って。防空壕の中での見開いた目といい、今日も常子の「見つめる」表情が印象的。森田屋や青柳の終焉のときといい、今の常子は多くを語らないけれど、つぶさに見ている。#とと姉ちゃん
食べ物を手に入れるために長距離往復して、それでもあんな食事で、工場の仕事もあり、夢を追えず、何よりそれがいつまで続くかわからない。心身共に疲れきって普通の状態じゃないよね。あの短距離で脆くも転ぶのも、足挫いてあんなに落ち込むのも、普通の状態じゃないって表れでつらい #とと姉ちゃん
「この状況がいつまで続くかわからない」のが人間にはすごくつらいんだよな。子育てや介護や職場環境や人間関係、続く余震や家に帰れない状態…何でもそう。トンネルの終わりが見えないから鬱になる。だから防御本能的に慣れようとするんだろうけど、そのための努力や犠牲もつらい #とと姉ちゃん
組長の三宅さんのように、戦場の家族を思い自分を鼓舞して何とかやっていった人もいるだろうけど、ここまで長引き悪化した状況では早く終わってほしいと願うのも当然だと思う。衣食住に始まり日常すべてが奪われてるから。戦争が始まる前に平穏な日常を過ごせていた人なら、なおさら。#とと姉ちゃん
同じく戦争経験者でも、物心ついて以来戦時中で最初に受けたのが軍国教育だった世代と、そこそこ自由な子ども/若者時代を謳歌した世代でも違うし、家族が出征したか否かでも違ったり、昭和15年は意気揚々と万歳してた人も19年では疲労困憊で厭戦的になってたり、いろいろだと思う #とと姉ちゃん
そんないろんな人がいても、建前としては皇国万歳で、疑問を感じても人の目や耳があるところでは口にせず、考えないことにしてやり続ける自分の仕事が実は戦争に加担していて、そんな何千万もの国民の動力で戦争が続いていったのがとても怖いところで、普遍性もあるとこだよね… #とと姉ちゃん
よっちゃんの悲しみ、まりちゃんの悲しみが描かれたあと、あまりに非日常な日常でも何とかやっていこうとしてる中、突然の空襲警報、走って逃げて寿司詰めの防空壕で感じる爆音や着弾、みんなどんなに怖かっただろうどんなに長く感じただろうと胸が詰まって思わず涙が #とと姉ちゃん
今日のとと姉ちゃん、昼ととーる前に書いておくけど。「仕事を選ばなかった常子」が、ついに「自分がしたくない仕事(お金を稼ぐための仕事であっても)は、したくない」って言葉にしたのは、しかもそれが「奪っていく戦争の否定」という形だってのは、書いて残しておく
戦争を内心で相対化して作品にする気概を持てたのは、室井さんたち「ごち」第一世代がそのときすでに人生経験豊富な中年だったからっていうのもあるよね。鞠子のは、土台となる思想や精神を平和な時期に築けなかった若い世代ゆえの弱さとか不安とか迷いみたいな感じもして、可哀想だなあと思う。
RT 今まさに室井さんとか悠さん世代の私。中年としてやるべきことってあるなぁ、って思った。
いろんな「本当と嘘」「本物と贋物」をやってきた #とと姉ちゃん。戦争末期の今、何が本当で何が本当じゃないのかわからなくなってる。優しいお隣さんは密告者かもしれない。組長の胸にも実は不安や心配があるんだけど、勇ましく強圧的な煽りを続けるうちに何が自分の本心かわからなくなってそう。
食べるものがなく、おちおち安心して眠れず、家族の安否も知れず、自由な発言も思考も奪われると、強い者に従って生きていくしか方法が見つからなくなるし、何が本当で何がそうじゃないのか判断がつかなくなる。自分の気持ちすら見失っていくんだろう #とと姉ちゃん
でも順番はどっちなんだろう?とプロポーズ週を思い出す。「言葉が状況を作り出す」乳繰り合いのくだりや神国日本、兵隊さんは頑張ってる、一億火の玉…。間違った言葉で糾弾したり大仰な言葉で煽ったり。みんなでウソの言葉を使い続けたから、戦争末期まで突き進んでしまったのかも。 #とと姉ちゃん
「貧すれば鈍する」の矢印でなく、鈍したから貧した可能性。それが念頭にある人が、「私は私、あなたはあなた、みんなそれぞれ自分の暮らしを大事に」「嘘をつかない」って雑誌を作るんだろうなって #とと姉ちゃん
女だけの防火訓練は、第2週の男たちの訓練と比べると当然遅く弱々しい。女は男の劣った代用品だ、とまざまざと見せる図。年かさの編集長や近眼の五反田は、足りなくなった若く屈強な男たちの代用品として徴収される。「おまえは誰かの代用品」そんな扱いってあんまりだよね。私は私 #とと姉ちゃん
戦争末期の家族でここまで和やかなのは珍しい。多分この家には昭和の父がいないからだ。竹蔵の心が生きていて、穏やか過ぎるいささか物足りない君子がいるからじゃないかな??もし君子がいなかったら常鞠はもっとギスギスしているし、美子は家出するかも。君子の特性に気が付きにくいが尊い
終戦前の描写ではマッサンとマッサンエマもギスギスしたし(ラブがテーマの作品)、西門家は解決策を積極的に模索し和枝ちゃんの家に行く。め以子の虚ろな期間もあった(食べ物とめ以子の人生)。糸子も疲れ切っていた(洋服そっちのけの時期)。
ゴチでは食と家族(め以子の大事なもの)が戦争で奪われ、カーネでは体力と家族と服とプライドが失われ(糸子が突出して高い能力)、ととねでは日々のささやかな生活と市井の人の中にあるその人なりの矜持が失われている。め以子や糸子に比べて常子はまだ年若く、また失われるものもささやか
親が子供のおもちゃやささやかな希望を取り去ったとしても、さして事件にならないように、年若い常子と小さな小橋家のささやかな心とありようが失われてもさほど気が付かず、戦争の描き方が生ぬるいというのは、たしかにあるあると思う。 URL
2016-06-29 09:15:48 via twicca to @yamada10th
コサージュ返したり、怒鳴りはしても殴らなかったり、三宅は元は暴力的ではないのだろうが、要はお上に与えられた権力が拠り所の小心者だ。配給しないぞと脅したあと、今日は大目に見てやると優しげに言ったときDV みたいで吐き気がした。 #とと姉ちゃん
三宅さん個人よりも、情を免罪符に理不尽な現状をしょうがないよねと受け入れる「空気」の方がどうなのと思う。私たちの多くは弱くて、力を与えられると三宅さんのようになるかもしれない。でも他人の命を害するラインを踏み越えた言動を力のない常子が咎めたことを、冷笑するほど弱くはありたくない。
充希ちゃんの演技が毎朝見られるのもあと3か月なのねぇ。オノマチの骨太図太い演技にも毎朝目を瞠ってたけど、充希ちゃんの常子のニュアンスあふれる演技も実に味わい深くて好き。私の中で忘れられない朝ドラヒロインになるだろうなー。いや常子はこれからが本番なくらいなんだけどw
常子がこれまで星野や森田屋や滝子たちを思い出す描写がなかったのは、彼らとの別れがすごくつらかったからだと思ってる。人はものすごくつらかった思い出を本能的に封印するとこあると思う。悲しみに浸るのではなく、家族を守らなければ進まなければと思う常子だからなおさら。#とと姉ちゃん
滝子との別れの直後、新居でおどけて見せたように「大丈夫、私がみんなを守る」と踏ん張り続けてきたけど、妹たちの嘆き、空襲、五反田出征、防火訓練。心が折れたんだと思う。家族の心も潰れかけてて悲しみを共有できない。卓袱台を囲んでいても孤独で、ついに遠くの人々を思い出した #とと姉ちゃん
ささやかだけど今では貴重な楽しみ、それがダメになる悲しさといったらないよね。一夜で黒焦げになった小豆たちは個の隠喩でもあるんだろな。1つ1つがつやつやほくほくしてた小さい粒。#とと姉ちゃん
三宅さん無双に対し、昨日の回で鞠子に「まっすぐすぎる」と言われたから常子は二の句をつぐんだ。常子に「臆病」と言われたから鞠子は言い返した(論理的に角を立てず喋れるのはもともと鞠子)。結果的に三宅さん撤退。やっぱり一人では解決しないのが #とと姉ちゃん で、やっぱり常鞠コンビは強い
あの時のとってつけたようなw 3姉妹誕生パーティがここにつながるのか。昨日の回想もそのシーンだったね。8年ほど前のこの時期、森田屋も青柳も星野も綾も皆集まって、酔って騒いでおはぎ食べて、常子は皆に感謝の辞を述べ、就職してついに経済力を得られる希望に燃えてたんだよね。#とと姉ちゃん
戦時中の描写には、絶対これが正解というものはない。スタッフがこう描きたいというポリシーがあることが大事なんだよ。#とと姉ちゃん
最近のTLざっと見てるだけでも、「戦争描写が見てられないほどしんどい」という声もあれば、「この程度では生ぬるい」という声もある。先の戦争関連の描写って、人によって感覚や考え方がものすごく違うところなんだろうなと思う。#とと姉ちゃん URL
あまちゃんは震災から2年後で、被災の程度に差はあっても日本人皆ある一定のライン以上のつらさを味わった状態だったから、ドラマ内での震災について「これぐらいの描写が適正だよね」ってゾーンを何となく共有できてた気がする。こういう怖さリアルだよねとか。直接描きすぎない方がいいよねとか。
一方で、先の戦争については、今では皆ほとんど自分では経験していないわけで、さらに年代や地域、見たり読んだりしてきた作品など、「戦争はこういうものだ」「こう描くべきだ」って感覚も、「こういうの見るのつらい」のラインも、かなり個人差が大きくなってるんだろうなと思う #とと姉ちゃん
そのあまりにも広い個人差のレンジ全てに配慮した創作は不可能で、作り手は各々のポリシーで作る、受け手は自由に見るしかないと思う。我慢して見ろなんて作り手は誰も言わないよね。辛いなら見ずに自分を守るのも大事。でも戦争のことは誰かが何かの形で伝え誰かが受け取っていかなきゃならん面もある
竹蔵の死や星野との別れ。常子が心底悲しいとき抱いて泣かせてくれたのは君子だった。娘たちの怒りやケンカすらも(良くも悪くも 笑)ギリギリまで見守ってる君子が、悲しみの涙とはいえ家庭内での自由な感情を封じるっていうのは、本当に非常時なんだなって思う #とと姉ちゃん
ただ朝ドラの制作側を勝手に想像すると、やはり各地での震災等で直接被害を受けた人も大勢いる今の日本だから、燃えるとか轟音・振動、瓦礫の山みたいな、視覚聴覚に直接訴える描写は避けてるんじゃないかと思う。とと姉の場合は今後暮らしの雑誌を作るわけだから今の描写は作風にもあってると思うし。
とと姉の感想見てて思うのは、昭和19年20年、もはや尋常でない生活状況ってのをあんまり感じてない人も多いのかなって。これも、ドラマの描き方が悪いんだろうか? 食事が満足にできない、夜も空襲警報でおちおち寝られないってのは割とちゃんと描かれてるんだけども。
ろくに食べられない、警戒警報で防空壕を往復してろくに寝られない、実際に空襲の死者も出てる、それだけで人間、精神的におかしくなるのには十分だよね。それが何か月も続いてる。ほどほどの繋がりの知人友人を心配できる状況とはだいぶ違ってもおかしくないんじゃないかなと。
たとえは悪いけど、今年の4月、大分の人が、自分とこもひっきりなしに揺れてる状態で、熊本在住の知人友人にサッと思いを馳せないとして、それを責められるかな? 非常時ってそういうことでは? ましてドラマの時代は情報インフラも異なり、天災と空襲も違う。自分も本当にいつ死ぬかわからない状況
そんな戦争末期でも、たとえば家の中では笑ったり冗談を言ったりするときもあった。ってのも多分本当にあった思うし、同時に、ろくに食べられず寝られず空襲に怯える毎日で、あとで思えば異常な精神状態だった。ってのも多分本当だと思う。両方あったんじゃないかな、と思うけど。
今まで特に理由もなく理不尽にいじめていたアノニマスな人たちに対して、三宅さんが「顔の見えるいじめっこ」なのは、常子(や三姉妹)の成長に合わせてるんだと思う。「お国を守るために戦争をしなければならないのは仕方ないことです」もいじめっこ側の理屈もわかるってこと。 #とと姉ちゃん
とと姉ちゃん「飾るなら『贅沢は敵だ!』だろう」のシーンに強烈な違和感があった。何故なら私が見てきた戦中もののお話では『』には御真影や教育勅語が入るのが定番だったから。そこに標語を置き「進め一億火の玉だ」に四方八方取り囲ませる事で、一般市民の責任について描こうとしてるようにも見える
「飾るなら『贅沢は敵だ!』だろう」はあちこちに貼ってある「進め一億火の玉だ」とあいまって、多分「言葉(標語)」というものの怖さを描いているんでしょうね。花山さんがその「言葉」を全国に撒き散らしていたことの罪と罰が戦後に返ってくるのではないのかな。 #とと姉ちゃん
なんかすごく、梅ちゃん先生みたいって思った。梅ちゃんを1ヶ月くらいでリタイアした私が言いますが #とと姉ちゃん
弟妹の手を引いて逃げるお竜はもちろん、弟達のために働くかをるとか、家業を支えるまつや滝子とか、一家の「とと代わり」をする女性がいっぱいでてくるよね。常子が #とと姉ちゃん だけど、それは彼女を「格別な女」にはせず、彼女もまたありふれた女だという描写に力が注がれてると感じる。
RT あのとき必要以上(?)に颯爽と登場したお竜を、徹底的に「彼女もまたありふれた女」と描いたね。小さい弟妹がいて、食べ物は男たちに力ずくでとられて、空襲が怖くて、漢字が読めない、けれど早朝から家の前を掃除する心がけをもち、将来やってみたいことを語る、ありふれた女。#とと姉ちゃん
鞠子の「文学への情熱が足りない」ってTL評もある意味正解というか、史実の妹さんも村岡花子やらと比べ文学的に大成した方ではないし…といえば身も蓋もないけど、戦時中に生きることに必死で夢を追えなかった(情熱や才能の不足も含めて)「ありふれた人」としての描写なんだろう #とと姉ちゃん
美子も絵やお裁縫が上手だけど、岸和田で洋裁店やって格別な娘たちを育てた人とは違う。誰も彼もありふれた普通の人で、でもそれぞれに大事な暮らし・大事な人生がある。そんな人たちが読む雑誌を作ったのもまた、ありふれた普通の人たち。そこに奇才・花山がどう参加するのか楽しみ #とと姉ちゃん
朝ドラ8月15日史上、最高の歓喜w 一人一人が尊重され自由な生き方をめざすのが当然の小橋家だから、「敗戦イコール束縛からの解放、自由」て図式になるんだね。常子の雑誌作りも、自由の象徴として捉える思いが戦争中に醸成されたんだろう。誌面の具体案までにはまだ至っていない #とと姉ちゃん
戦争の影は戦後にも引きずるし花山が控えてるから、#とと姉ちゃん の戦争描写がこれで終わりではないけど、やっぱり今作での力点は、「戦争は人々のそれぞれの暮らしを蹂躙する」というところにあるんだろうな。大空襲よりも、森田屋や青柳の衰退・終焉のほうが見ていて痛かったのもそういうこと。
息子を亡くした三宅さんも描きつつ、小橋家のように誰も戦争にとられず焼夷弾も浴びなかった人々も実際に大勢いたけど、後世の私たちがそれに対して「他と比べるとさほど苦労せずよかったね」なんて言えるわけなくて、どんな人の「それぞれの暮らし」も滅茶苦茶にしたんだよね戦争は #とと姉ちゃん
家族が戦死したり、空襲で逃げ惑って…の経験はなくても、みんな戦争経験者なんだよね。その上で、森田屋や青柳や三宅やお竜…いろんな人の「それぞれの戦争」をつぶさに見たのが常子なのだと思う。空襲後に「お休みどころ」を作ったという大橋さんもそんなふうだったのではと想像 #とと姉ちゃん
とと姉ちゃん。登場人物の言動で表現すると視聴者は登場人物にシンクロする。ナレが語ると一歩引いて客観に近い形で捉えることになる。今週のナレ多用は、「いろんな人の“それぞれの戦争”を見た常子」、「その“常子の戦争”を見る視聴者の私たち」という入れ子構造を作ってた。
森田屋譚では、視聴者は家の外から中へと導かれて、「大声でうるさい?」という第一印象から「このうるささが彼らのかけがえのない日常なのだ」と理解できた。今週は、ナレが語ることで常子と私たちの間に線が引かれてた。どっちにしても、内と外との境界線とを意識的に操作してる作り手だなと感じる
常子は「自分で考えて動く」人だけど、戦争中は自由に動けないから「見て考える」までしかできないんだな、ということ。そんな中で醸成されていく思いがあること。ナレが語る=常子と私たちの間に線があることで、伝わってきたのは、それかなあ。どうだろ?
しばらく聞けなかった常子の「どうしたもんじゃろのう」、来週からまた聞けるかな。そんなセリフが出るほど余裕がなかったのだろうし、どうすることも出来ない状況だったんだなぁ………
あの「できる!できる!できる!」は、雑誌作りだけじゃなくて、鞠ちゃんの小説も、よっちゃんのお洒落も、色んな人の色んなやりたい事ができる!って事だよね。どちらかと言えば口下手な常子らしい感情の爆発でとても良かった。 #とと姉ちゃん
前半終了に終戦を重ねて、前半の古い世界で解決させずに先送りにしたいろんなモヤモヤを来週からの「新世界」でのお話につなげていくんですよ、と上手く予告した一週間だった。とと姉ちゃんが何を描きたいのかを希望とともに明確に示した、とと姉ちゃんらしい良い週だったよー #とと姉ちゃん
今週のとと姉、戦争が起こった時代と土地にいて、食糧事情は厳しく、空気が重苦しくなり、全体的な影響は受けてるけど大きな被害は受けてない、そういう微妙な立場にいる人の疲労と削られる日常が絶妙だった。男家族も家も仕事先も戦争で失ってないけど、不安と恐怖でどんどん圧迫されてく様がね。
家に鉄郎がいると心強いのは男性だからで、非常時の救いになる君子の濃やかな心遣いは女性らしさと称されるものだけど、それが単なる事実や個性で押し付けや教条的さになってないのが #とと姉ちゃん の良心的なとこだと思います。それは常子が「私が男の子なら」と後悔しないとことも繋がっている。
教条的でないのは「なんとなくとと姉ちゃん誕生」からずっとそうで、だから常子の稼ぎで女学校や女子大に行けてる鞠子や美子が常子に気後れするどころかウザいと思えばウザいと言うし、喧嘩だってするんだよね。小橋家の対等さの中にととが生きてるんだよなー。 #とと姉ちゃん
戦争体験も人それぞれなら戦争描写も作品それぞれ、異なる視点の作品で戦争というものが多角的に浮き上がってくる。その上、#とと姉ちゃん では、作品内で戦争体験も人それぞれである事を描く。男の家族がいる人といない人の差。引っ越して来たばかりの小橋家と前から組長さんを知っている人との差。
太平洋戦争、とくに空襲以降のとと姉の描写は「おひさま」にすごく似ていて、あまりウェットで悲惨な方面に踏み込むまいとするAKらしい配慮を感じた。カーネの戦時下の描写はうまかったけど、スポ根的な暑苦しい作風あってこそのもので、当時はあれを嫌がっていた朝ドラファンも結構いたのよね。
人はやっぱり二項対立で物事を捉えやすいのかな。#とと姉ちゃん はそこから脱する世界を指向していると思うけど。君子vs滝子、常子vs早乙女など、対立を描いても、決して簡単に善悪や優劣を断じない脚本で、だから対立が胸に突き刺さるんだけど。ジェンダーの問題にもまだ全く結論出してないし。
常子がいい女で早乙女がダメな女、そういう描き方では全くなかったと思う。早乙女は終始美しく凛として、さらにささやかな心がけを持つ女性として描かれた。仕事における頑なな態度や辞めてゆく人間を擁護しないのは環境が大きいという描き方だったと思う。環境の限界が個人の限界を作る
常子が早乙女と対立して己のやり方を貫けたのは、小橋家の教育と「自分で考えて動く」資質ゆえ。でも雑用をやり続ける根拠「困ってる人を助けたい」はビジネスの場においてあまりにあまちゃん論であり、最後はあのとき褒めた部長に切り捨てられた。あの環境に敗北したのは早乙女も常子も同じ
対立したあと常子と早乙女の心が通ったのは、全く違う考えでも「自分で考えて動く」点、共通してたから。そんな2人がそれぞれ頑張っても会社は変わらないというシビアな現実は、ドラマの将来に向けて必要な描写。2人とも等しく頑張ってて必死で、いい女・ダメな女という色分けには全然見えなかった
男と女しかいないんだからうまくやっていくしかない。それは滝子という人物の考えで、このドラマの結論では当然ない。常子はその言葉にとりあえず納得したけど、それが世間で簡単に実現しないのは、常子自身が女だからと容易く首を切られた現実によって示される。答えはまだ探し求められる途中
力では男にかなわないのは事実。物騒な世情では男がいるだけで安心なのも事実。中年女の君子になかなか仕事が見つからないのも、職業婦人でも簡単に首を切られるのも事実。そんな世の中で女性がどう生きていくか、そう考えて作られるのが主人公の出版社ではないですか。立派にモチーフしてるよ。
甲東出版で男女の別なく意見を言える環境を得たけど、そこでは男は全員徴兵されるという「男女の別」が皮肉に展開される。予告で社長も五反田も復員してたけど、常子は出版社を立ち上げるみたいだ。甲東出版ではなく自分で。何か理由があるんだろう。まだまだ物語は続いてる途中。
ジェンダーの問題にしても、どっちがエラいとか簡単に決めつけてない。女性の社会的・身体的弱さをきちんと描く一方で、男たちが徴兵され戦死する現実も描かれた。鳥巣商事の課長も部長も、やな奴なだけでなく、彼ら自身決して幸せには見えなかった。会社社会の男性の屈折や鬱憤をひしひしと感じた
男女の現実、時代の厳しさを描いたうえで、男だとか女だとかではなく、滝子のような強い人や君子のようなほわわんな人、どちらを称賛したり断罪したりでもなく、すべての人が「一人の人間として尊重される」のが #とと姉ちゃん 世界の理想。「あなたの暮らしを大事に」で常子はその実現を目指すんだろう
キャラ萌え的な視点で見てると「キャラが大事にされてない」「使い捨て」に見えるのかな? 私はバカ三兄弟も早乙女さんも多田さんも諸橋さんも、長谷川やお竜も、ずっと覚えてると思うけどな。出番の多寡はあってもそれぞれ鮮やかな印象。劇中で語られない部分もいろいろ想像させてくれたよ。