卯月の九 「サク、ホットケーキを作る」
(『とと姉ちゃん』的副題。笑)
●4月某日: 今週1週間は自由登園期間。今日はお休みすることにした。3週間ぶりの幼稚園生活で、いきなり月曜から5日間みっちりは子どもも疲れるかなー、という母の思いやり(笑)もあるが、自由登園期間中は給食がない=お弁当を作らないといけないので、その中休みが欲しかったというのも大きい。
おうちでの昼ごはんは、サクたっての希望でホットケーキに。これまでも、材料や道具を用意し、混ぜ混ぜして生地を作るところまではサクがやってきたのだが、今日は焼くのもやってみるという。『よつばと!』でよつばちゃんがチャレンジする話があるので、それに触発されたらしい。
いつもは面倒なので割と大きめに作るが、サクがやるので、おたま1杯分ずつ焼くことに。「うえのほうから、フライパンのまんなかに、そーっとおとすんだよね」「ぷつぷつ、ってしてきたら、やけてきてるんだよね」と、『よつばと!』で得た知識を正確に覚えていて実践するサク。そしてひっくり返すのは・・・1回目から上手にできた! よつばちゃんが何度も何度も失敗して、大泣きするのを見てとーちゃんが新しい生地をこしらえ、「まだまだ作れるぞ。と―ちゃん実は、“ホットケーキ大好きマン”だ」という名シーンの実現は必要ありませんでした。
計4枚ほど作成したサク、「すっごくたのしかったー、おれ、やくのだいすき」。もちろんおいしい、おいしいと次々と平らげ、あとからも「どうだった?おれのホットケーキ」と得意顔で聞いてきたり、帰ってきたパパに報告したりしていた。
夜ごはんは、肉じゃが、ひじきとベーコン・玉ねぎの塩煮、小松菜のお浸し。肉じゃがが好評。やっぱり、ハンバーグとか肉じゃがとか豚汁とかみたいな「基本メニュー」って家族にウケがいいのよね。日本人の夜ごはんだよね。
>>うそ!つらい生理痛が? 鎮痛剤、飲みすぎかも・・・がまんできない痛みを天然ジュースで緩和しよう
『重版出来!』 第8話
和田さん回。松重さんは世に出てからもうキャリア長いけど(私が知ったのは1990年代後半の大河『北条時宗』)、この3年ぐらい、特にいい役が続いてるよな! 真のブレイクというか。
この和田編集長も、おもしろい役。熱狂的な虎党で、負け試合の翌日は機嫌が悪く、声が大きく、ぶちあげて勢いで何とか突破しようとする。要はいかにもなオヤジキャラなんだけど、マンガへの愛情は深く、仕事への情熱があって、部内の案件には的確な判断と指示をする。良い上司なのだ。そのうえ、情も深い。マッチゲさんの顔と身体性が和田を生き生きと立ち上げて動かす。
とはいえ、やってらんないよね、情熱も枯れそうだよねーっていうマンガ不況、雑誌不況、出版不況時代の編集長。編集部では威厳(というのかなw)があって、役員が居並ぶ会議ではガーッと大声でぶちあげといて、飲み屋では岡とぐちぐち言いながら一杯やる姿にホロリとくる。ごくろうさんです。
一世を風靡したあと今は廃人に近くなっているマンガ家、牛露田の娘アユに、黒沢はある少女漫画を薦める。綺麗な絵を描くその漫画家の本は、おなじみの書店員・河さんのつらい学生時代を救ってくれたものだった。仏像フェアなんか企画してたから、オタク方面の本読みかと思いきや、河さんの本の世界はそこから始まって、はるか広い裾野を持つようになっていたのだな(笑)。
繰り返し描かれる、本に救われる読者の姿が、本好きにはぐっとくる。
怪我で選手生命を絶たれた黒沢。若き日の高田純次社長。河さんの思い出話。そして今回のアユ。広げた本は、さながら翼を広げた鳥のようだと。
一方で、書く側の苦悩。新人の大塚と中田は共にスランプ。共感力が高すぎる大塚と低すぎる中田w 「中田くん、すごい顔してなかった?」と五百旗頭が言うと、シリアスなシーンにちょっとおかしみが加わる。中田が三蔵山の家に会いに行くこと自体が、視聴者にはなんかうれしい。「どうして沼さんはプロになれなかったんですか」それを聞いて、三蔵山は編集者に「良い兆候だ(大意)」と言う。中田の問いの答えは示さなかったのところに、作り手の意思を感じた。
売る側の苦悩も描かれる。和田の同級生、北野は梶原善。マッチゲさんと凸凹を意識したキャスティングだね。オール阪神巨人というか。阪神と巨人の大小が逆だけどw
苦しい経営状況ながら、プレミアム本をオークションか何かで売りさばくために高値で仕入れようとする若い子たちを毅然と叱りつけるのがこのドラマの作風。脇キャラまでまっすぐでいてくれる。こういう不快感の無さが人気の要因でもあるんだよね。
そんな北野の姿も受けて、
「世の中変わってわからんことだらけでも、大人はかっこつけなきゃいかんでしょう!」
と大声で怒鳴るのが、和田らしい現実との折り合い方、前進の仕方。
卑怯なエンペラーの営業に対抗して人気漫画家のサイン会を画策した小泉が、そんなの邪道だと自ら案を取り下げるんだけど、対抗心から書いた手紙でもめちゃくちゃ真摯な思いがにじみでちゃってそれ読んだ作家先生が登場、河さん固まる!
っていうラストがすごく良かった。小泉も、本を愛する気持ちを的確な言葉で表現し伝えられる人材なんだよね。
卯月の八
●4月某日: サク、久しぶりの幼稚園。といっても新学期ではない。現在、園のすぐそばで大きな建物を壊す工事をしているため、始園日が例年より一週間遅く設定された。しかし春休みが一週間伸びるってつらいよォ~という親子のために、来たい人は来てもいいですよ、騒音・粉塵などはご承知おきくださいという自由登園期間が設けられたってわけ。
幸い、工事は予定より早く進んだようで既に騒音も粉塵もピークは過ぎているが、今日、クラスで登園したのは半分ちょっとの数。幼稚園に持たせるサク弁も久しぶり。春巻き、卵焼き、マカロニサラダ、ごはん。本チャンの保育じゃないので、お弁当の中身もちょっと肩の力抜いていいよね、と自己判断。
さて11時過ぎ、関東から帰福してきた親友と待ち合わせ、見ごろはもう終わったけど・・・な、花の少ない花見ランチを我が家の近くで催す。親友、「おにぎらず」やら卵焼きやら持ってきてくれた。私はサクの弁当にも入れた、少し色黒の春巻きちゃんとさつまいもとりんごのサラダ、いちごを・・・。双子ちゃんは約半年弱ぶりかな、よちよちと歩くようになっている。2人ともご機嫌よろしく、「はい、どーぞ」してくれたり、たくさん笑顔とリアクションをくれてたまらーん。それにしても1歳児2人に同時に食べさせるのって当然ながらカオスだね!!
うちに移動、14時にサクを幼稚園に迎えに行くときは3人には留守番してもらった。サク、お客さん、しかも双子ちゃん来てるよーというとはりきって帰る。夜ごはんは、残りの春巻きを揚げたほか、手羽元煮、サツマイモサラダ、トマト。
●4月某日: サク弁、ごはん、春巻きの具の残りを卵巻きに、ウインナー、さつまいもサラダ、りんご。うちの園は「お弁当にくだものは、いりません」という教えなんだけど(!)、今は正式の保育期間ではなく自由登園期間なので、いいよねぇー別に。こういう自己判断って母親の性格出ますよねw はー、しかし、幼稚園って有難いな。実質4時間ちょっとだけど、この時間はすごく大きい。
とはいえ、子どものほうは、久しぶりの幼稚園=集団生活・・・しかも、自由登園期間で、みんなが来るわけじゃないし、年長さんに進級したわけでもない宙ぶらりんな状態に、ちょっと「?」な状態になっている様子もある。夜ごはん、うるめいわし、きんめ鯛の切り身西京焼き、豚と野菜の重ね蒸し、ニンジンサラダ。『嵐にしやがれSP』の続き、『ふしぎな選taxi』の録画の続きなど見つつ、ビール、白ワイン。マツコが出るの久しぶりに見たけど、面白いなー。
卯月の七 東京旅行 その3
●4月某日: 東京3日目、今朝はのんびり。部屋でとと姉ちゃんを見てから、夫とサクが地下階のコンビニに朝食を調達に行く。サク、レゴのアニメに夢中。地上波だったみたいだけど、福岡では見たことない。10時半過ぎにチェックアウト。いいホテルだった。
丸の内から無料巡回バス。真ん中のドアから乗ろうとして、運転手さんに「前から乗ってください」と言われる。ああ、夫ともども、真ん中から乗って前から降りるのは福岡のローカルルールだと知っているのに、ついつい・・・。
皇居、二重橋。初めて来た。都心からこんなに近いのに、とっても広くて、とっても静かなのですね。
外国人観光客も多かったです。
歩いて丸の内KITTE。テラスから新幹線見たり。山手線で上野に移動し、美術館(博物館だったかな?)のテラスで軽食。今日も良い天気で、外で食べるのが気持ちいい。さあ動物園へと向かって、行列ができているのに驚いた。最後尾に、切符売り場まで30分、とプラカードが掲げられている。動物園の切符を買うのに30分並ぶのか、トキオシティ!! まあ、並びましたよね。並んでる全員が切符を買うわけじゃないんで(グループごとに代表者がまとめて買うからね)、けっこうするすると進んで、20分弱で入場門にたどりついたかな、ぜぇ。
中は広いので、息苦しいほどの人口密度ではありませんでした。マップを手に、私たちの先を小走りで進む、動物園ではブイブイ言わせるサクである。同じ動物園でも、園によって少しずつ展示方法が違ったり、工夫が見られたり、けっこうおもしろいもんですね。村上春樹が、国内外を問わず旅先では行ければ必ず動物園に行く、というのが何となくわかるような。まぁ、子どもが大きくなれば足が遠のくものだろうけど、ふと行く機会があれば、こうしてはしゃぐ子どもと一緒に回ってたときのことを思い出すのだろうな。ホッキョクグマとジャイアントパンダは福岡市動物園にはいないので、さすがにテンション上がりましたね。特に、お尻向けてたパンダさんがこちらを向いた瞬間。「おお・・・!」と囲む人々から口々に歓声が漏れていました。
16時過ぎ、東京駅戻り、入場券を買って再び新幹線乗り場。E7系やらとの別れを惜しむ。モノレールで空港、おみやげを買って、18時フライト。さすがに疲れました。大人も疲れたから子どもだって当然疲れている。よくがんばった。帰宅すると「あー、とうきょうたのしかった。おれ、とうきょうすみたーい」と繰り返すサク。寝かしつけて、夫とおつかれさま会で白ワイン空ける。『精霊の守り人』第一部最終回。
●4月某日: 日曜日。旅行疲れからのもろもろ復帰デー。ゆっくり寝たいし、洗濯物もいっぱいあるよ。野菜をいっぱいとって、味噌汁とか焼き鮭とか、そういう食事で体が喜んでる。昼下がり、「サクの自転車散歩行ってくるねー ついでに買い物もしてくるね」と出て行った2人がなかなか帰ってこないなと思ったら、大人の自転車の前輪がパンクしていて、修理に持って行ってたとのこと。よ、よかったー。明日の朝、幼稚園に行こうとしたときに気づいたら、大変なところでした。真田丸、大坂編のスタート。面白い!!
卯月の六 東京旅行 その2
●4月某日: 旅先では「あ、そうだ、○○にいるんだった」て感じでスキッと目覚めの良いサク、今朝も起きるとすぐに窓際に、真下の線路を見に動いた。ちなみに部屋は、ツインに1つベッドを入れてもらっているので多少狭い。
昨日とは打って変わって良い天気であたたかい。ホテルから地上を歩いて地下鉄大手町駅へ。10年前、夫が2年間勤務していたビルも通った。今日は平日なので、午前中の大手町はもちろんビジネスパーソンだらけ。それを見てつくづく思うのは、東京は、日本人+外国人の組み合わせで歩いてたり、食事をしたりしているビジネスパーソンが多い。言語は、英語の場合もあれば日本語の場合も。同僚だったり、クライアントだったり、とにかく一緒に働く相手なんだろう。福岡では、こういうのはあまり見ない。
私たちは大手町から地下鉄半蔵門線に乗って押上まで。
スカイツリーに行くとき、押上という駅で降りた。日本一、高いタワーが、なんと古めかしい地名にあるのだろう!! くすぐられるー
とにかく東京に来ると、路線図や地図を見るのが楽しくてしょうがない。
こんなにも古い地名が、こんなにもたくさん、オフィシャルに(駅名や地図に)残っているのは、これほどの大都会か、あるいは逆にものすごい田舎か、どっちかだと思う。
スカイツリーってツリーだけじゃなくてショッピングモール部分めちゃめちゃ広いのな! これ全部地上げしたの? もともと、なんか広い施設だったのか? 4Fのテラスまで、うちのマンションのエレベーターと同じくらいのスピードで着いたのは驚き(そりゃ多少は盛ったけど体感としてほとんど差がなかった)。眺めはもちろんすばらしい。サクも地図と景色をじっくり見比べていた。天候はよかったけど富士山までは見えず。隅田公園や隅田川沿いの桜がとても綺麗。サクはプラレールショップ、私はおみやげを少し物色してフードコートで昼ごはんを食べ、いったんホテルに戻る。意外に時間を費やして、その分、すでに足を使った感じ。
しばしするとサクがやる気になったので、品川アクアパークへ。ここ、一昨年の夏、映画HEROの特番でキムタクと松たか子がアポなしデートしてたとこですよね!! デート向けっぽい、暗めだったり照明に凝ったりな演出もありつつ、奥に行くほどにシンプルな展示になっていって、トンネルになっている大きな水槽にはサメやエイやウミガメなど大物もたくさんで、子ども喜ぶ。
イルカショーも立派だった。夫とつきあってる時代は一度も行ったことなかった水族館という場所に、ここ2,3年で何度か来ている。大人が見ても、なんか非日常感あっていいよね、と話す。
地下鉄で東銀座に移動し、歌舞伎座。ちょうど夜の部をやっている時間だけど、観劇は再来週博多座でしまーす。地下でおみやげなど見る。小腹がすいていたサク、次から次に試食させてもらって満足げ。美味しそうなお菓子など家族や友だちへいろいろ買い、渋ーい三枡の柄の手拭いを自分のおみやげに。夕食は、有楽町イトシアのイタリアン。ここも、席とテラスから新幹線や電車が見られる。美味しい食事と赤ワイン。お店の人もとても優しく、あたりだった。
『とと姉ちゃん』 第11週 「常子、失業する」(下)ツイートと追記: どんな人のどんな暮らしも等しく大事なものなのだと
「仕事のことが心配」て会話だったけど、心中にはもっと襞があったろうな。3か条の誓いの達成も危うい。生活の危機だけでなくアイデンティティの危機。富江を祝って夫婦鶴を折りながら、自分が選んだ人生に対する不安もわくよね。そのシーンのあと、富江を見る常子の表情。深かった。#とと姉ちゃん
で、不安が胸に…てとこで現れるのが星野の件を唯一知る君子だけど、何ちゅうふわっとした慰めw 照代との対比すんごい。君子も愛情深く彼女なりに精一杯なんだけど残酷なほど差があるのも人間でしてね…。でも人は自分の環境でやっていくしかなく、それで #とと姉ちゃん の力も育ってくわけですね
君子はいつまでもお嬢さんで頼もしい母ではなく、娘たちも今やそれをわかりつつ、母の無償の愛情を当然のものとしてたっぷり享受してきた伸びやかさがあり、つらいとき母に胸を預ける(変な依存でなく)姿もとても自然。できる母じゃなくてもこんなふうに育てられるんだよね、と思える #とと姉ちゃん
1.私は今まで読んできたものから、戦前の婚前交渉は今思われてるより珍しくなかったと思ってて、ならば避妊技術の問題もあり妊娠もあったろうと思ってるのだけど、発覚した時に近所中で下世話な噂したりするのは今よりすごかったろう(娯楽替わりに使われる感じね)とも思ってて→ #とと姉ちゃん
2.→そういう意味では、平時でなく戦時中で、どこの家も苦しく、森田屋も店をやっていけない状況なのが逆に功を奏して、周囲では有耶無耶に扱われるんじゃないかな。思い合う2人が授かって結婚したいと言っているのだから、本来は周囲がそれを認め祝福できれば済む話。→ #とと姉ちゃん
3.→「皆が自分のささやかな暮らしを大事にすれば戦争もなくなる」という暮らしの手帖の思想(何かで読んだ)も、そんな主旨の話でもあるんじゃないかと。時代がどうとか、周囲の目、人と比べて…じゃなく、自分が大事にしたいものを大事にできる世の中にするため、暮らしを大事にと。#とと姉ちゃん
4.→宗吉やまつも、平時ならあれほどすんなりは受け容れられなかったろう。お得意様の目もあり、外聞の悪い結婚が売上減に繋がる可能性も十分。でも幸か不幸か既に店は壊滅的状態。純粋に富江とお腹の子の心配ができるし、新しい命は厳しい状況の中でも喜びになる。#とと姉ちゃん
5.そして宗吉がかつて従業員照代に手をつけたのと対になる設定は、「男が女に手をつける」ならさほどじゃないのに逆なら非難の的、というかつての時代の不思議を表現するためでもあったのでは。まつに指摘されて「男はいいんだよ!」と返さず黙っちゃう宗吉は、やっぱり憎めない奴だ。#とと姉ちゃん
それにしても、照代の「当たり前のことよ。あなたもそのお腹の子が生まれたら同じことするわ」と、まつの「富江に腹いっぱい食わせてやりたい」は、シンプルだけどよかったなー。従業員にも腹いっぱい食べさせたいまつさんだもん、そりゃ富江とひ孫にそう言うよね。#とと姉ちゃん
長谷川富江の想いあってる描写が以前からあればねーという感想がチラホラ。そういう萌えーを基本排除してるドラマなのだなと改めて。森田屋は憎まれ口を叩く=思いあってるという描写なので以前からちょいちょいあった2人のやり取りはそういう事だったんだね。#とと姉ちゃん
RT 私も萌えは好きだけど、萌えこそ正義みたいなのはなーと思ったりも。萌えじゃない描き方での魅力も描きつがれてほしいなー
(青柳の家に居候するのではなく)「森田屋」を設定したことは、ドラマ前半の最大の肝で、家族の範囲とはどこからどこまでか、2つの家族の境目はどこか、商売を家族経営するとはどういうことか、などというようなことを考えさせる契機になってたと思う。常子の役割を規定してるのはやはり家族だから。
とと姉ちゃん、「家族」をどう描くかも大事なんだけど、建物としての「家」をどう撮るかっていうのもこれまでの朝ドラと違う気がするんだよね。
常子の目標には「家を建てる」っていうのもあるし、建物としての「家」も大事な要素なんだな。思い返せば、このドラマのファーストシーンはカメラが2階に登って行ってまた降りてくる映像だった気がする(記憶が間違ってなければ)。
昨日のアバンで大将が長谷川を追い回すシーンあたりから森田屋の建物の構造を強調するような描写があって、それが今日の荷物を出してがらんとした森田屋の場面に効いてたと思う。常子の手入れ来るという気遣いとか、建物自体が主役のような回でもあった。やはり「家」が大事な要素なんだね。
RTsのとおり、「家」を意識的に取り上げてるよなあ。荷物を運び出してがらんどうになった家。浜松の引っ越しを思い出したもんね。星野の引っ越しでもプロポーズの回答ってとこなのに「小銭が出てきた」なんてエピソードをわざわざ挟んでた。#とと姉ちゃん
浜松、星野、森田屋、3つの引っ越しが描かれて。このあとはきっと、青柳の家がなくなってしまうんだなあ(実際に深川の地が受けた空襲を思えば、たぶん)。引っ越してがらんどうになるんじゃなくて、建物が物理的に失われることで家の喪失が描かれるんだろう。#とと姉ちゃん
「そこに家族(人)が住んでいる」ことが重要、って描き方だよね。からっぽになった家を掃除して手入れしても、それは意味ないと。家と家族と暮らしの道具がセットなんだ。だから、からっぽになった家を執拗に映す。#とと姉ちゃん
家とは何なのか。「家族の暮らしが守られる場所」なんだろうなあ。時代がどうだろうと、世間の“普通”や、視聴者の目wがどうだろうと関係なく、自分たちが望む暮らしができる場所。竹蔵が、あの時代に異例のフラットな家庭を作ったように。デキ婚が森田屋の中ではめでたいように。#とと姉ちゃん
「家=自分の暮らし=自分の価値観」を大事にすること。時代の流れや社会通念や周囲の目に振り回されないこと。暮らしの手帖らしい思想だよなあ。一見、強固な境界線を引いて社会から隔絶されることのようだけど、みんながそれをすれば平和な社会になるっていう。逆説的な真理。#とと姉ちゃん
だから、#とと姉ちゃん 世界で家を引っ越す、家が焼ける(まだ焼けてないけどw)のは、「自分たちの暮らしが世間の風に晒され、脅かされる」こと。自分たちの価値観を守って暮らせない危機。だから「家を建てる」目標が生じる。そんな危機を味わわず、ずっと自分たちの暮らしが守れるように。
しかし家は空襲で焼けるわけで(決めつけw)…というか、転勤とか天災とか、暮らしに家の移動や喪失はつきものなわけで。また、(多分)お龍たちのように家をもたず育つ子もいるわけで、だから「家」というガワじゃなく、暮らしそのものにこだわるようになるのかな。と予想 #とと姉ちゃん
あ、その「家=自分たちの価値観が大事にできる場所」の修正拡大版として、雑誌社という「会社」を作るってのもあるんだな。その「家」に入れるのは家族だけじゃない。常子たちが森田屋で家族のように(でも時々線を引きながら)暮らしたように、従業員たちと共に価値観を守る場所。#とと姉ちゃん
だから常子が作る「会社という疑似家」に入るのは、夫を亡くし生活が一変した君子や、不倫の事実はなかったかも…な諸橋や、弟を養うため嘘ついた多田や、裏社会?のお龍、そして常子らのように、時代や社会の強風の中で弱者にされてしまう女性たちなんだろうな。彼女たちを守れる場所 #とと姉ちゃん
#とと姉ちゃん を見てると、丁寧で美しい暮らしとか生活の知恵とかは、暮らしの手帖の思想としては副次的なものじゃないかと思えるんだよね。肝は「みんなが自分たちの暮らし=価値観を守れるように」。ホワンな君子や意地っ張りな滝子やうるさい森田屋、何であれ「自分」は肯定される。個の尊重
#とと姉ちゃん 常子が深川に来た当初、滝子とまつの当てこすりの言い合いはどうもギスギスして見えたものだけど、今日の別れ際のそれは、皮肉は同じでも「達者に生きな」という気持ちを込めたものだと分かる。今作で何度か繰り返されてる、そこに馴染んで一周すれば違う景色が見えてくる描写。
RT そう!滝子とまつのやりとりが痛々しく見えたり森田屋のうるささに耳がキンキンしたのも、意図的な演出だったんだよね。視聴者も「家の外」の人間だから理解できなかったんだ。今は「家の中」がわかるから、当てこすりも猥雑さも大事で守られるべき「彼らの暮らし」だとわかる #とと姉ちゃん
#とと姉ちゃん「偽もの」や「代用品」みたいな話が散々繰り返されてる中、女学校に通っていない富江の制服姿を、持ち主であり本当の女学生である鞠子より似合ってると長谷川が褒めたおかげで結婚っていうのは、そのなんてことはなさと含めてとてもととらしいエピソードだなあと思った
別れは辛いが森田屋さよなら編すごく良かった。ここで常子が「見る」人なのだと改めて提示されていたと思う。彼女は「ささやかな心掛け」を生み出す方よりも、見つけて認めたり他に広げたりする方の役割の人なのだと思う。だから常子が引いた位置にいる話の方がピシッと決まりやすい #とと姉ちゃん
RT そうだねぇ。まつが「ただ弁当作って暮らしたかった…」と語ってるとき、普通なら自分も泣きそうな顔してうんうん頷くような共感的な芝居になるところ、常子がものすごく「じーっと見つめ」てたり、長谷川の柳の話で表情がじっくり変わるところも、見る・見つける人なんだなと #とと姉ちゃん
#とと姉ちゃん のキャラ萌えに走らないキャラ描写、私は好きなんだよね。長谷川も、大将にどつかれ軽んじられながらも、いろんな名言の受け売りを心に留め、つらいときはシベリア食べて、自分の言葉「鞠子より似合ってる」で富江の心を掴んで、フッコの調理を申し出る気合を見せて…よかったなあ。
そして大将も常子たちも、視聴者も「大した人物じゃない」とちょっと軽視してたような長谷川が祝言で語った「柳のように」の話(しかも受け売りw)が、常子の心にはしっかり響き、留まっていくんだね…って脚本演出も好き。キャラ萌えじゃない方向で「誰の人生も尊い」こと感じさせる #とと姉ちゃん
別に今までもじゅうぶん楽しく面白く見てたけど、ミッチー&唐沢の華というか持っていく感、やっぱりすんごいな。くらくら目まいがしてきそうだったわw #とと姉ちゃん
そうかー、戦争の激化という一番つらい時代に合わせて、ミッチー&唐沢を投入なんだな。視聴者の皆さん、一緒に乗り越えましょう!と。待たされた分だけご褒美感も大きいし…。当たり前だけどちゃんと考えてあるなあ。でも、唐沢さんの本格登場は戦後かな? #とと姉ちゃん
プロポーズ週に続いて今週も常子の芝居とっても良くて、今日も 「就活ハリキリ!→撃沈「11円…」変顔→ゴロン→キャラメル至福→青柳商店横断疾走!」 の流れ本当にすばらしくて、充希ちゃんはやっぱり上手い。新しい登場人物との絡みも、戦争末期の芝居も楽しみ。#とと姉ちゃん
朝ドラでは仕事初めてです!状態から天職の仕事を始めることが多いけど、常子は弁当屋の仕事も、タイピスト(&商社(の仕事も知ってから出版の仕事を始めるわけで、社会人としてのあまちゃんぶりとかはもう過ぎてるから、仕事(戦況の絡みも大きいだろうが)パートは深めやすそうだな #とと姉ちゃん
仕事ってとにかく手を動かし続ける体力勝負、集中力の持続勝負みたいなところもあって、挿し込み業務は常子のそんな適性&キャリアが表れてたけど、やってる内容は検閲による差替えなんていう「暮らしの手帖」的には到底許せない案件で、「常子の新しい戦いが始まった!」感すごい #とと姉ちゃん
お笑い芸人からの転身に対してものすごい偏見っていうか軽侮する眼差しの人がちょいちょいいるな。 #とと姉ちゃん
五反田の「君よく見ると可愛らしい顔をしているね」は鳥巣商事での「君が一番マシだった」のひっくり返しだけど、清と初対面のときの「思ってたより可愛い」にもかかってるよね。常子、清に褒められたときは喜んだけど、もうそれだけじゃ喜ばないんだよな、大人だから #とと姉ちゃん
RT この辺はとても女性によりそって作られてるよね。常子が喜ばなかったのは、「かわいい」は清のような素直なほめ言葉だけでなく、鳥巣商事で男性に消費される価値でそれ以外の能力は認められないという意味の時もあることを学んだから。「かわいい」の多義性。 #とと姉ちゃん
加えてかわいいと言った清に早々に幻滅したこと、かわいいとは言わなかった星野さんから「ぼくの好きなった常子さんは結婚より家族を選ぶ人」と何よりうれしい言葉をもらったこと、それは見目形の話ではなかったこと…常子はいろんな経験をして少しずつ大人になってるんだね(涙) #とと姉ちゃん
RTs そういうことだよなあ。「外見に言及するのが不愉快」て散見するけど、「外見への言及がどう扱われているか? そのバリエーションや変化」を見るのが醍醐味だと思うんだけど、外見に言及した時点で「不愉快!やるな!」ってなるのがさ、臭いものには蓋的な、なんか思考停止…?て思う
しかもそこに「しょせんお笑い芸人のなりそこね」みたいなdisを絡めてくるご自分の差別意識っていうかゲスさのほうがどうかな?と思っちゃうけど。
この2か月半の物語を無意味だとして忘れるのも自由だけど、それあくまであなたの評価であって、森田屋が前座とか多田さんが使い捨てとか全然思ってない、全然大事な存在で彼らにもかけがえのない暮らしがあるんだよなって感じながら見てる人間もいるので、客観的評価みたいな書き方はちゃんちゃry
【おまけ】派生考など
#とと姉ちゃん で随所で念を入れて描かれる「家」の描写。とと姉世界における「家」とは、「家族の暮らし=個々の価値観が守られる場所」で、時代がどうだろうと、世間の“普通”や、視聴者の目wがどうだろうと関係なく、自分たちが望む暮らしができる場所で、→
→滝子とまつの刺々しいやりとりや、大声でやや品の無い森田屋・・・最初は見てて「うわぁ…(引き)」って思うけど、時を経て彼らの何たるかを知り視聴者も「彼らの家=彼らの暮らしの中」に入ることで、それらも大事で守られるべき当たり前の暮らしだとわかるって話だけど #とと姉ちゃん
「#とと姉ちゃん における家の中と外の描き方」って観点で考えてると、面白いな。視聴者と作品の関係にも応用できそう。作品を好きな人は、作品という「家の中」にいるから、いろんな描写が理解できるし大事に思える。逆に「家の外」から見てる人には理解できない(それが悪いわけではない)(続)
承前)描写が唐突とか人物造形がブレてるとかいう感想を見て、「え?別に唐突じゃないよ。全然ブレてないよ?」と思うことがしばしばなんだけど、私がそう思うのはとと姉が好きで、その作品世界という「家の中」にいるからで、「家の外」から見てる人にはわからない・おかしいと思えるんだろうなと(続
承前)とと姉ちゃんで描かれてる暮らしの手帖の思想って、「家を建てたい=家は大事」。なぜならそこでは、竹蔵があの時代にフラットな家庭を築いたように、富江のデキ婚が祝福されたように、時代も社会も周囲の目も関係なく、自分たちの暮らしができて価値観が守れるから、てことだと思ってて(続
承前)私が思う「暮らしの手帖」思想でいくと、大事なのは「家の中」。自分の家を大事にすることが大事なのであって、人んちを家の外から覗いてあーだこーだ言うのは無意味であり、争いのもと。そんなヒマあったら自分の家を大事にしようね、って感じ。でも嫌いなドラマを見て批判し続けるのは、続
承前)嫌いなドラマを見続け批判し続けるのは、そうすることで「自分の家=自分の感じ方、考え方=価値観」を守っている、といえるかもしれんね。言語化されてるのは「この作品のここがイヤ」だけど、「自分の価値観はこれだ、これを守りたいのだ」と自分を確認し続ける行為。あさ来たの時の私もそれw
週数がだいぶ進んだ段階でなお、作品を「家の外」から見てる人は、「家の中」に入る気はもうなくて、今後も多分「家の中」の描写を理解したり好もしく思ったりすることはない。作品という他人の家を、外から見ることで自分の家を見つめ守る、それが力点。悪いことじゃない、自分の家を大事にするのは。
ま、こんなことになぞらえるまでもなく、他人の意見なんてスルーすればいいのにどうしても気になっちゃうのは、自分と反対の意見を見ると、自分の価値観が否定されたように感じるからなんだよね。感想の対立≒価値観の対立 と感じるから。
んでも「暮らしの手帖思想」でいくと、やっぱり「重視すべきは、家の外より家の中」ってことになって、「人の意見がどうなのかより、自分の意見を大事にしようね」とか。「世の中にはいろんな家=意見があるんだよ。そのどれもが尊重されるべきなんだよ」とかなんだろうけど、でも、(続)
承前)世間の厳しい風に当たり、いろんな家があることを知ったから「自分の家を大事に」思想に辿りつく(だろう)常子のように、いろんな意見を知り、知って揺れるのも、大事なプロセスなのかもしれんな。
他人の家を外から覗いて批判するのも1つのプロセスなのかな、って。常子も父が健在で「竹蔵が築いた家」に守られて育ち、戦争経験もなけりゃ「家を建てる」「自分の暮らしをとことん大事にする」なんて思わなかったよね。世間を知り多くの人を知って目標が強固になる過程が常子の今。 #とと姉ちゃん
とはいえ、君子に対する風当りの強さや「迷惑をかけること」へのアレルギー的忌避感などを視聴者の感想に見ていると、そんな感想そのものが「世間の冷たい風」だなーと。ドラマは「世間」を二重に炙り出してるなと感じる(私はね)。劇中で苛めたり貶めたりする人と、ドラマの描写を批判する人の二重。
とはいえ、君子に対する風当りの強さや「迷惑をかけること」へのアレルギー的忌避感などを視聴者の感想に見ていると、そんな感想そのものが「世間の冷たい風」だなーと。ドラマは「世間」を二重に炙り出してるなと感じる(私はね)。劇中で苛めたり貶めたりする人と、ドラマの描写を批判する人の二重。
半年間。毎朝元気や心地よさを届けることもできるけど、それが朝ドラの唯一無二の役割じゃなくて、視聴習慣の定まった長丁場の枠だからこそ、作り手がやりたいこと、やれることはいろいろ考えられる。それをあなたが否定するのは自由にしても「それが存在すること」を否定するのはどうなのっていう
「他人の家=他人の暮らし=価値観」を理解できなくてもいいけど、そんな家が存在することは認める。肝だよね。雑用騒動の最後、早乙女が常子にそんなこと言った。部長が褒めたからだけでなく、常子の意志と遂行力を見て常子の存在を認めた。あなたの考えはわからないけど、と言って。 #とと姉ちゃん
暮らしの手帖思想の「暮らしを大事にする」の肝は、暮らしの知恵とか丁寧な生活とかよりも、「自分の暮らしにこだわって大事にする」で、そこには「他人の暮らしがわからなくてもその存在は認める」も付いてくるのでは? それは即ち「自分の暮らしが理解されなくても自分の存在は認められる」に通じる
自分の家=暮らし=個を大事にし、相手の暮らしに必要以上に立ち入らず(赤の他人の森田屋に寄宿したように、連帯はするんだよ。迷惑もかけ合う)、相手の暮らしも尊重する。それが平和への方法なんだ、っていう哲学が、なんか既に見えてくるんだよね。とと姉ちゃんでは。
そんな思想につながっていくから、早乙女さんも森田屋も大事な登場人物だし、多田さんや諸橋だって、愛すべき(萌え)キャラじゃなくたって、使い捨てや主人公アゲ要員なんかではなくて、作家は大事に書いてたと思うよ。
時代モノに出てくる人の思考が全員現代と同じ(例えば誰もが建前上でも男女平等だと言ったり、煙草を吸うのが嫌がられたり)だったらそりゃないわ…と思うけど、現代ぽい思考の人が存在するのはNGなのか?と言ったらどうなんだろう。その環境を借りて「今」を描くのはドラマとして無しなのか。
現代人が過去の舞台を間借りして作品を描く意味は何だろう。もし、今の思想(「戦は嫌でございます」的なもの)を紛れ込ますのは「不自然」だとすると、当時の人の書き残したものを読むのがベストで、ドラマ化なんてけしからんってとこに落ち着きそうな気も。
現代人が過去の舞台を間借りして作品を描く意味は何だろう。もし、今の思想(「戦は嫌でございます」的なもの)を紛れ込ますのは「不自然」だとすると、当時の人の書き残したものを読むのがベストで、ドラマ化なんてけしからんってとこに落ち着きそうな気も。
例えば悪いかもしれないけれど(というか暴言だと思うけど)、てるてるの照子はんが許容されるのって石原慎太郎的だよね。あれ、キャラがああだから叩かれないだけで、ちょっとでもキャラ造形間違ったらボコボコだと思う。
対し、とと姉の君子が毒親(と私は思わないけれど。完璧な母親でないだけで。そして完璧な母親なんて世の中にどれだけいるの?とも思う)だと言われるのは、本人が他者の批判をはねつけるタイプのキャラじゃないからなんだろうな。皆「おかしくね?」って言えちゃう、叩けるサイズの人というか。
その点、私はまれの藍子が圧倒的に怖かった。最後まで得体が知れなかったというか。
RTs 偏っていても、石原慎太郎的キャラは叩かれない。叩かれるか否かは、他者の批判をはねのけるタイプかどうか。叩けるサイズの人間だと思われるかどうか。鋭い示唆……そのとおりやね…… そして藍子さん(笑)
星野からのプロポーズを断り「とと姉ちゃん」人生を選んだあと、太平洋戦争期に突入するのかと思いきや、ここで森田屋が退場。ミッチー・唐沢の二大巨頭は戦後に登場かと思いきや、今から顔を出すようで、驚きの今週だったんだけど、すごく、すごく良かった。これまでの脚本が次々に実を結び始めている感。
そして退場時に、森田屋との暮らしが何だったのか、鳥巣商事での仕事が何だったのか、それが暮らしの手帖にどうつながっていくのか、ほとんどはっきり見えてきたのが何かすごくうれしくて、これから劇中は一番つらい時代になるけど、今後がますます楽しみになった。
ミッチー&唐沢以前・敗戦以前に見えたきたその「暮らしの手帖」思想(と勝手に命名)は、「生活の知恵・工夫」「丁寧で美しい暮らし」みたいなものより、もっと本質的なところまで掘り下げられているのが明らか。森田屋のガサツさやお下品さも、滝子とまつの意地っ張りで痛々しい当てこすり合いも、「守られるべき、当たり前の日常」だったのだ。誰のどんな日常も人生も等しく尊重されるべきもの。それを阻むのは、何?
真摯な作り手だと思う。
キャラ萌えに走らない正統派な人物描写にも好感がもてて、長谷川の描き方にその良さを痛感。受け売りばかりのようで、彼はその言葉たちを自分のものにしているんだな。だいたい、その知識を何かで読んだり聞いたりする(テレビはまだないよね)インプットの時間が彼にはあったということだよね。
傷ついた常子に、早乙女さんの「まっすぐに生きて。負けないで」は通じず、長谷川の「柳のようであれ」が響く。「柳のようにやり過ごす」。「負けない=何者かと戦う」のではなく、「日々の暮らしを大事にしながら嵐が過ぎるのを待つ」なんだろうな。ただ、ここからの嵐があまりにも大きいのを、後世の私たちは知っている…。
『真田丸』 第24話 「滅亡」
信繁は歴代大河の“アゲられ主人公”のように、情を前面に出したトンデモ熱弁をふるったわけじゃないんだよね。冷静に状況説明をしつつ、降伏すれば命は助けるという条件を提示しその上で「どうか助かってほしい」と伝える。和睦交渉の使者として過不足ない弁。だから信繁は使者として十分に務めを果たしたけど、「信繁にしかできなかった仕事。信繁スゲー!」って意図で使われない。分相応に有能な使者の口上も合わせて、氏政は状況を考えた。考えて、氏直を呼んで、降伏を決意した。
厚化粧になり、城外の状況把握もままならず、どんどんやつれ正気を失くしていくように見える氏政が、「己のための戦をしている」の一言で、諸将の羨望の的に鮮やかに反転した。芝居がかった挙措や武士の命というべき髷を削ぎ落したあと、誇り高く、人の情が響く、大器たる本質が残った。 #真田丸
伊達は来ない。関東の諸将は誰も味方に付かない。勝つことはもうできない。そんな状況がようやく氏政にも腑に落ちた以上、「城を明け渡し降伏すれば、兵も氏直も助かる」最終的に、それが落としどころになったんだろう。“己の戦”をしても、多くの命を預かる大大名としての自負がそうさせたんだろう。広大な領土が良く治まっていたのは、北条の領国経営が良かったからで、氏政は良い領主だったはず。前回とは打って変わって、そんな姿が滲む今回だった…。「必ず命を助ける」と家康に握られた手を、「貴殿に災いがふりかかる」とふりほどいたのも、自らの矜持のためだけじゃなく、家康の真の情を感じたからこそ情で返したセリフだったと思う。
勝頼や滝川一益と同様、「滅びる(退場)」するときは美しい、「真田丸」における北条の最期でした。いやはやあの氏政さんがこんなに気高いなんて、と驚きつつ、すごく納得感があるんだよね。
ところで今回「誰も彼もが秀吉に降って組み入れられる中、氏政だけが己のための戦をしている」というロジックが非常に強く打ち出され鮮やかに印象付けられたことに、ちょっと「おや?」と思いました。
この真田丸世界において、大名や国衆たちは、「己のための戦」をしていたのかな?
物語の冒頭である第1-2話、岩櫃へ向かう真田の一行を半武装農民たちが襲ってくるシークエンスが印象的だったように、「貧しいから食うために殺す」のが根底にあって、真田の里の入会地紛争なんかもその延長線上にあり、「襲ってきたから防ぐ」「攻められないために同盟/臣従する」「奪われたものを奪い返す」ようなのが真田丸の戦国模様で、決して昔の戦国ドラマにあったように「領土拡大欲」「自己顕示欲」みたいなもので戦争をするわけではなく、それがあったとしてもせいぜい信長や秀吉レベル。家康ですら「生き延びればそれでいい」と言っていた。
でも、秀吉配下に入って、実際はポッと出の秀吉なんかよりよっぽど長年の腐れ縁的親しみを感じている北条を攻めなければならなくなったとき、昌幸も景勝も家康も、「生き延びるための戦」「自分の領土は自分で戦って(同盟や謀略も含めて)守る」ができたこれまでを「己のための戦ができていた」と思ったのだろうな。
しかし、危うく浪漫に流されそうになるけど、あっちゃこっちゃで「己のための戦」が繰り広げられる状況は全然良くなくて、己のための戦が勃発しないシステムを作れたから中世から近世に繋がっていくんだよな。ただ秀吉政権では人心が全然伴ってなくて、己のために?朝鮮に出兵しちゃうけど #真田丸
承前)その辺を意識したセリフを盛んに信幸に言わせてるよな。信幸自身には「戦場で暴れまわりたい」武者根性があるけど、乱世に戻らないため秀吉に従うべき、と。近世的信念というか。一方で乱世にしか生きられない言動の昌幸。そして高い理想を掲げていた三成が昌幸に教えを乞うた…(震) #真田丸
要は、「己の領土は己で守る」の時代になったのが中世なんだよね。武士が台頭したことによって、古代(平安まで)の律令・中央集権国家から脱して、自己解決・自己救済の時代になった。今はそれが終わろうとしている。己の領土を守るため・生き延びるためであれ、戦争していいか?したいか?って言ったらしないほうがいいに決まってる!って思うのが近世近代現代の人間であって。今はその過渡期なのだよね。
ただ、現実にその過渡期にいれば、「そうだよね秀吉に臣従するシステムであっても、やたらめったら戦争しない世の中のほうがいいに決まってるよね」ってみんながみんなすんなり思えるわけはなくて、どうにも思えなくって「乱世に戻って何が悪い」と言っちゃうのが昌幸で、「乱世に戻るなんて良いわけがない」と疑いなく思えるのが信幸なんだな、っていう構図ができてますね。
#とと姉ちゃん で「常子は ”見る”人」て分析があった。信繁もそうだな。氏政や、伊達と対峙したとき、堺雅人の透徹とした眼差しが印象的だった。勝頼、信長、春日や室賀。滅びた者に限らず、景勝の苦渋や伊達の咆哮、茶々や家康。自身は何もなし得ないまま、多くを見続ける。これからも。#真田丸
家康、景勝、昌幸の3人が雁首そろえて「秀吉の世は長く続かない。もうひと暴れ…」って、秀吉の死後この3人(ネタバレ?自重)。座ったままで天下餅食ってたけど、家康はこういうルサンチマンを身をもって知ってたので「己のための戦ができないシステム」を徹底的に作り上げるのですな… #真田丸
さっき、「信繁は “見る人”」とツイートしたけどそれは家康も同様で、(ドラマ外だけど今川義元や)武田や織田、北条の滅びを見て、秀吉や三成や真田のこともよく見てて。さまざま見たあげく、「生き延びればそれでいい」と言ってた彼が、最後には老体に鞭打ってまで豊臣を滅ぼすのだな… #真田丸
家康は今んとこ、どこまで考えてるかは謎。家康も、信幸ほどには「秀吉の下での天下一統」(統一じゃないのね!!)にすんなり割り切れてないのは明らかだけど、「いずれ俺が代わって起つ」とまでは、まだ、なさそう。やっぱり家康も、戦国システムにしっかり乗っかって大名してきたわけだからね。嫡男とはいえ信幸とは、預かってきたものの大きさや経てきた時間の長さが違うわな。
そう、信繁、家康ともう一人、信幸もまた、このドラマにおける「見つめる人」なんだな。「伊達と連絡をとれ」と、いけしゃあしゃあと言う父を見つめる表情は何とも言えなかった。慌てるでもなく、懐疑するでもなく、もはや父のことを透視できてるみたいに、ある意味澄んだ表情だったんだよね。
秀吉や三成、茶々や家康とも近しかったりして、今で言うなら「東京の超大手企業でインターンやってます」みたいな信繁に比べると、信幸が見たり動いたりしている範囲はずっと狭いんだよね。主に、父と共に、そして父を通して世の中を見ている。そんな信幸が、もう近世人の萌芽みたいなフラットさを身に着けている描写は面白いと思う。お兄ちゃんの成長はすごい。
んで、一方の昌幸なんだけど、景勝の「髻を切る」発言にぎょっとしたり、ずんだ政宗に落胆したり、秀吉に小県・沼田を安堵され与力を解かれて大喜びしたり、多彩な表情を楽しませてもらったんですけど(笑)、この人、オフィシャルの場で、ここまで露骨に顔に出るタイプでしたっけ?
滅亡目前の勝頼に対して、「武田は絶対に滅びません!」って微塵の揺らぎもなく言ってた人ですよ。内心は「武田は滅びるぞ」だったくせに!! それができる昌幸だから、生き馬の目を抜く戦国乱世で生き延びてこられたはずですよ。秀吉の配下なんてイヤだ、乱世に生きたいんだと言いながら、実際は戦国の武士としての能力、弱ってない?! ってちょっと心配になる。
心配といえば三成で、なんでよりによって昌幸に戦の指南を頼むんだ!! 三成こそ「戦国乱世を終わらせたい」という気高い志を掲げているというのに、近世人の志と昌幸の汚い手の食い合わせ悪すぎるだろ!!w おまけに幼なじみにすら理解されないくらいに冷酷無比人間と思われてて、それでも芸の無い純粋まっすぐ君なワザに徹してれば「三成ったらぷぷぷ」ですむものを、眉ひとつ動かさずに汚い手を使ってごらんよ、ああ惨状が目に浮かぶ。
忍城攻防戦をここに帰着させるのかー、ってくらくらしたね。そして名前も出てこない成田長親っていうか萬斎さんの影がどでかい2週間でしたね。三谷さんのことだから絶対狙って書いてたと思う。萬斎さんだし、「のぼう」も絶対押さえてたはずだ。
政宗のずんだ餅作りパフォーマンス! 政宗といえば…と大河界隈で長く語り継がれるだろう場面が誕生。信繁への述懐で、秀吉との相似形が語られる。若い日の秀吉もあんなふうに、軽侮の眼差しを承知で屈辱を隠しながら、快活にへりくだった振舞をしてたんだろうな。#真田丸
「もう少し早く生まれていたら」は政宗につきものだけど、「もう少し京に近く生まれていたら」もちゃんと入れるのが歴史好きの三谷さんだね。そしてその背後に「もう少し若かったら」「もう少し国土が豊かだったら」etc…と無数の人間の無念が見えるんだな。聞きようによっちゃ言い訳…? #真田丸
あの宴にいたみんなが道化を演じる政宗に苦笑してたけど(たぶん秀次以外)、でもあの場のみんなが政宗でもあるんだよね。秀吉になれず、氏政にもなれず、秀吉に降って命乞いをし本領安堵を願い、そのために身を粉にして働かざるを得ない姿。そして、それは私たちの姿かもしれない。ひと握りの成功者になれなかった大勢の私たちの。「もしもう少し○○だったら」「もう少し○○でなかったら」と悔いながら何かに屈し現状に甘んじるしかない私たちの姿。
それをじっと見つめる信繁がね。何を思ったか。こういう日々がどう結実していくのか。それにしても政宗役の長谷川朝晴さん、よかったなー。次に出るのはいつかな。
大坂城がドラマに登場したとき、配下たちの疑心暗鬼が渦巻く様子に戦慄した。落書き事件では民からの不信とそれに残虐な方法で応える秀吉が描かれた。全国の諸大名が集結した北条攻めでは、誰もがやる気なく、氏政に同情的。天下統一ってこんな絶望的な状況かい。関ケ原の戦いまであと10年。#真田丸
秀吉。家康を江戸に押込め東海を没収、真田の与力を解いて監視させる。仕置きはさすがだけど、直臣の足並み不揃いや諸大名のルサンチマンに全く無頓着。群雄渦巻く信長配下で出世したからには人並み以上に人心に敏かったはずで、これは秀吉の変化として描かれてるのか?元からの欠落として? #真田丸
これ、ツイートしたあとで考えてたんだけど、秀吉は人心に敏い部分はあっても、「情」でのケアは昔からしてなかった、できなかったんじゃないかなあ。やっぱりそこは「欠落」なんじゃないかな。
その部分を担っていたのが、「秀吉は昔から怖い人」と知っていた寧や、人格者である秀長なんじゃないかな。前回、その2人が聚楽第に残って会話するシーンが「何の意味が?」ってわかんなくて印象に残ってたんだけど、秀吉が茶々を身辺におくようになり寧とはこれまでの違う距離感になることによって、そして秀長が病で世を去ることによって、これまで寧と秀長とで支えてきた大事な「人情」みたいな部分がどんどん機能しなくなって政権の崩壊にもつながっていくのかなあ・・・と。
それから今回は利休についての面白い描写が、また。仮にも戦場の小田原でまで移動店舗営業してたと思ったら、何と北条にも鉛を卸していた! これはさすがに「商魂たくましい」では済まされないことのようで、急いで引き上げていく画がありましたね。
秀吉と対照して「聖人」のように描かれ、「だからこそ滅ぼされた」描写がほとんどな利休を、利益重視の商人、つまり思いっきり俗人として造型しているのが本作の面白さですよね。
で、今回がこんなだったから、利休切腹(これネタバレじゃないよね?w)への道筋が見えた気がした。自分が、自分が率いる堺商人たちが儲かるから、そのためなら戦争だってやってほしい。という利休もまた、「己のための戦をしている」一人なんだ。そして、そんな人間は、氏政同様、滅ぼされなければならない。己のための戦ができない新しい社会システムを作るために。そこに噛んでくるのは、きっと、乱世を終わらせたい三成ですよね・・・。
しかし秀吉の立ち位置がまだよく見えないんだよね。彼が何で天下統一したかったのか。彼にとって天下とは何なのか。それは今後、朝鮮出兵の局面で明らかになってくるのかな? そして三成の忠誠心の源も、これからだと思う。私たちは「石田三成だから秀吉に尽くすのは当然」って目で見ちゃうけど、このドラマの三成の秀吉への思いは、(思いの強さは描かれていても)思いの何たるかはまだ明らかになっていないんだよね。
勢いで髷を落とす宣言しちゃう景勝とか、そんなお屋形さまの性分を熟知してそこだけ心配してる直江の「ったく、おまいらときたら…!」感がたまらんのだけど、それが上杉の限界、って描写にもなってて感心する。先進性とか大局観とかないんだよね。局所的な視点しかない。家康との違い… #真田丸
景勝と直江がものすごく香ばしかったんだけど戦国大名的にはものすごく痛かったw
江雪斎の退場はものすごくかっこよかった。ほんと、印象に残る場面だった。主君の助命ならず為すすべもなくその場を去った画としても印象的だし、このあと秀吉に・さらには家康に仕え旗本としての家を残すという史実を知っていれば、また含蓄がある。北条の旗を両サイドに、主君の居間をじっと見つめ、そして彼は足早に去った。
そうそう、触れるのが遅くなったけど「生きていればいいこともある」を地でいったのが小山田の義兄上でしたね。関東の大大名、氏政と対比されるのが、浪人あがりの一兵卒の彼というのが面白く・・・というか、茂誠さん自体が面白かったですよねw 気になるなー。ものすごく気になるなー、って。でもさ、「生きていればいいことがある」は真理だけど、「生きていれば、いいことがあるかもしれないけど、そのあとでまた悪いこともあるかも」ってのがホントの真理なんだよね。トットてれびで向田さんがこないだ言ってた、「禍福はあざなえる縄の如し」。義兄上の喜びに留保をつけたのは、そういうことなんじゃないかな。
>>身体が冷える・風邪をひきやすい・近頃元気がない
そんなあなたに キラキラ、果実ジュース。
『とと姉ちゃん』 第11週 「常子、失業する」(上)ツイートと追記:どんな統制も超えるものがあるってカタルシス
こういう描写を見て、このドラマの描き方を見て、「常子以外は悪者」「常子アゲ」に見えるのかー。そうかー。と思う。怖いね。#とと姉ちゃん
あと、暮らしの手帖には疎いんだけど、見聞きする情報だけでも、丁寧な暮らしの美しさしか知らない人が作った雑誌じゃない感じがする。厳しいまでのこだわりを兼ね備えてる感じ。「なぜそこまで暮らしにこだわるようになったのか」を、常子の若者時代(と時代背景)で描いているのでは #とと姉ちゃん
なんか、平成のスローライフ礼賛的な雑誌と同じイメージ持たれてるような・・・? 丁寧で美しい暮らしをしたいと思っても、それに専念するのが難しい環境・難しい時代を過ごしてきたからこそ、厳しいまでの視線で日常にこだわる雑誌を作るようになるのでは? #とと姉ちゃん
そして若い常子が経験し体感する、性差による生きづらさや社会通念による思い込みの強さ、時代の閉そく感…その結果、弱い者がしわ寄せを受ける現実は現代にも大いに通じるものがあって、だから今この物語なのでは?「誰もがささやかな日常を大事にすることで平和に」その思いの切実さ #とと姉ちゃん
朝は明るく楽しいものを見せてほしい、暗く刺々しくスッキリしないものを見せられるから嫌い、というのは個人の感想だけど「だから駄作・朝ドラとして間違ってる」って断言されるのはねー。毎朝届けるもので何を描きたいかは作り手次第。何を見たいかも視聴者それぞれ違いますよ。
あの場にいた客が誰も助けないの自業自得wみたいなものならまさに現代にも通じる怖さ #とと姉ちゃん
社会が困窮するとみな苦労し、弱い人間が自分より弱い人を叩いて憂さをはらす。男と同じ日の当たる場所に出ている職業婦人は格好の標的。女だけでビールを飲むなんて「生意気」というショボイ理由でOK。そんな場所に女だけで行ったのが悪いと言う人もいるんだろうな。ああ嫌だ。 #とと姉ちゃん
#とと姉ちゃん は「現代」を書いてるんだよね。怖いなぁと思う。
「嘘をつくこと」「自分の頭で考えないこと」のふたつだけは頑として許さない #とと姉ちゃん ワールドだから戦争は負けるんだな…ということに気付いてなんだかぞわっとした今日の回であった。お客に正直であることがお国に楯突くことになったらそりゃもうお終い、なんですね…
おはようございます。去年か一昨年に見かけた、個人サイトにまとめてある亡き伯母さんの日記……常子と同世代?の職業婦人の日記……の感じだと、対米開戦ギリギリまで外食楽しみにしてるような描写があったような気がするのでビアホールの描写はありだと思ったんだけどもそのサイトが見つからず残念。
RT 戦時中とはいえこの頃はまだ百貨店も歌舞伎もやってるし外食もできる。マッサンの工場は軍の物資確保のため早めに接収されたのでしょうがすべての酒類や娯楽が禁止されているわけではありません。黒木華ちゃんで映画化された『小さいおうち』の原作小説なんか見ても詳しいです。#とと姉ちゃん
多田さんは相談というより本人談の通り憂さ晴らし目的なんだろうな、「こんな時だからこそ酒場に人が集まるんじゃ?」てセリフも酒をよく知ってる雰囲気。お金に余裕なくても飲んじゃうとかパチンコしちゃう、服買っちゃうって人いるよね。劇中でその気配匂わす描写あればよかったけど #とと姉ちゃん
作中でも言われてたけど「あるところにはある」だったんだろうね。「お上に楯突いちゃいけない」と平時の倫理観で商売していると、立ち行かずに潰れてしまう。嘘で塗り固めて戦争に向ってゆく国に思考を預けることで、普通の人々もどんどん歪になってゆく恐ろしさ… #とと姉ちゃん
「弁当屋は厳しいのに酒場にこんなに人が居るなんて」のセリフも然り、RTの通り「あるところにはある」描写だけど、「酒は出せないって場面の直後に酒場?」と驚く人あり、「わかるはずないんだからナレーション付けろ」という人も。作り手は自信もってスタンスを貫くしかないよね #とと姉ちゃん
多田さんに幼い弟がたくさんいる設定、ちゃんと意味があったんだよね。当たり前だけど。#とと姉ちゃん
お前は恵まれているだろう!譲れ!もっと厳しい人もいるんだ!もっと我慢しろ!と言われても「それは仕方ありませんね」と黙って譲るわけにいかないことが人間には沢山ある…というのは現代にも通じる話だけど、それってつまり「日本人なら贅沢はできないはずだ」思想だよね… #とと姉ちゃん
多田さん>弱い人なんだろうな。先輩の前で常子を庇わない、自分だけ逃げる、常子を陥れる嘘をつく。どれも弱い彼女が職場に居続ける為に必要なのだろう。でもその弱さを常子に認めて貰おうなんて考えたらいけない。まして自分と常子を同じ人間と見なすなんて、しちゃいけないことだ #とと姉ちゃん
多田さんのあれは、わかりやすい悪役なんじゃなくて、弱い人あるあるですよね弱い人が善を行う人であるというのはファンタジーであって、実際には、筋を通すにも強さがないとムリだからリアルな弱い人は日和るしじぶんにプライド持てないぶん卑怯にもなれるという #とと姉ちゃん
私は今日のえぐい展開好きだな。常子に優しく接したかをるさんも、咄嵯に常子を陥し入れたかをるさんも、許しを乞うて楽になろうとしたかをるさんも、どれも一人の人間であるという描写が #とと姉ちゃん
#とと姉ちゃん? 自分の生命や財産が脅かされる時、人を蹴落としてでもってのは、まぁあるだろう。まして守るものがあれば泥水飲むこともあるだろうさ。でもそれを蹴落とした相手に許してもらおうと乞うのはダメだ。それはひどく卑しいことで、そこを駄目押しする脚本は相当確信犯的にえぐいと思う。
これまでも戦争で苦しくなっていく庶民の生活を描く朝ドラはあったけれど、ここまで胸の悪くような、やるせない描写をしてきたのは初めてだなあ。ある意味すさまじい反戦描写だと思う #とと姉ちゃん
しかし入社時の面接で言い放った「家族のためにお金をたくさん稼ぎたいから」が、常子以上のとと姉ちゃんである多田さんから最後に常子に跳ね返ってきて辞めることになるってほんとエグいな #とと姉ちゃん
多田さんの言動、どこが「許されない一線」だろう? 「わかってね」のダメ押しはひどいけど、それがなくても解雇の時点で常子には大打撃。でも2人のうち1人がクビとわかっていて養う弟たちがいる場合、どちらかが首になるのを手をこまねいて待つしかない? 嘘つかなければOK? #とと姉ちゃん
多田さんの言動は、森田屋の仕入れを断り、闇で卸しているらしい乾物屋(?)の描写にも繋がる。古い付き合いの森田屋(ここで森田屋は落ち度なくまっとうな商売をしてるのがポイント!)を切るのはひどい所業ではある、でもそうしなければ家族が生きていけない。であれば仕方ない? #とと姉ちゃん
嘘つくのはひどい、人を陥れるのはひどい、相手が食い詰めるとわかっていながら付き合いを断ち切って闇取引に走るのはひどい。でもそうしなければ家族が生きていけない場合、どこまでが仕方ない? そんな状況の場合、嘘とか陥れるとかを超えてはならないボーダーと感じられるのか? #とと姉ちゃん
自分や家族が生きていくため、守るためなら、人はたぶん保身に走るし嘘もつくしエゴイストにもなる。そうやって強い者・したたかな者が生き残る。動物の弱肉強食にも似た論理。だけどそれは、弱い者は死ね、しょうがないって話でもある。環境に弱い者が淘汰される。それでいいのかな #とと姉ちゃん
多田さんの弱さは裕福でない上に弟たちがいるからってのも大きい。あんなことした背景には社会(戦況悪化)や会社(上役の一声でお払い箱)の環境がある。綺麗で安定した環境にあれば危険や非道に手を出さずに済むことも多い。弱い人を糾弾するだけでいいのか、環境問題を考えるべきか #とと姉ちゃん
あの御時世に女だけで、ビアホールに行くのは悪いこと? しつこく絡まれても仕方ない?自業自得?自己責任? 視聴者の価値観を揺すぶってくるよねえ。#とと姉ちゃん
でも社会が悪い戦争が悪いっていっても、社会を作ってるのは私たちでもあって、個人が保身に走ったり責任から逃れたり(そのために嘘をついたり人を陥れたり)することで社会は悪くなっていくのかもしれない。だから戦争も止められなかったのかもしれない #とと姉ちゃん
戦争もずーっとやってたわけで、遡れば #とと姉ちゃん でも触れてた二二六事件、あれも青年将校は貧しい東北の農村出身者が多かったわけだよね。極貧の暮らしを知ってて何とかしたい彼らがああいう事件を起こしたり…大陸に手を伸ばしたり…やらなきゃやられるからって論理が戦争に向かわせたり…
#とと姉ちゃん では、個人レベルや小さなコミュニティで起きることに社会や時代という大きな背景を感じるし、社会現象や時代の流れも、これと同じなんだろうなーと感じさせる作りになってる。だから「しんどいよね」の後に「でもね」と提示される小さな希望は、大きな希望になりうるんだろうなと。
その「世の中しんどいよね」を「不快感を与えるからけしからん!」と言われたり、「でもね」って小さな希望を「常子アゲ」って言われたりするのがなかなかつらいところですが、それもまあ社会ですよね、と。
多田さんあんなことするなんてひどい、の声が充満するのはまあわかるとして、それが「そんなふうに書く脚本家(作り手)が悪い!」って声になるのは結構びっくりするんだよね。
多田さんが昨日からああいう言動したのは、全然不自然さはないんだよね。常子の新人時代も気にかけてはいても何ひとつ表立って行動せず周りの顔色を読んでた。弟たちを養ってる家庭環境も明示されてた。それを脚本のブレというのは…既に以前からこのドラマに好意を持ってないんでしょうな
純愛やまれに通じる部分もあり、TLの反応とかはごちを連想させる部分もあるけど、それ以外の近年の朝ドラを含めても、#とと姉ちゃん はずば抜けて理想主義というか、この世の中に希望を持ちましょうと切実に願ってる物語だと感じるなあ。青臭いくらいに。見ててちょっと恥ずかしいくらいに。
ビアホールで暴言ご都合主義志田ちゃんご都合主義多田さん許さんという辺りは、私は違うけどそういう感想持つ人がいるのも納得できる。でも鞠子大学やめろっていうのはさあ…それを「現代の」視聴者が言っちゃうのはさあ…悲しいというより血の気が引くような怖さすら感じます。#とと姉ちゃん
こういう(期せずして当時の戦争礼賛側の)感想がでる所まで狙った戦争描写なのかもなあ。巧みに今や今を生きる自分自身にオーバーラップさせて(幾重にも)、物語が普遍性を持っていくのかな。#とと姉ちゃん
弱いから害をなさない のでなく、弱さはときに悪にもなる という好例ですよね。特に集団になったときには付和雷同して巨悪にもなる 「凡庸な悪」の一例かと(凡庸な悪の元ネタは権力者についての言及ですけども)これから戦争が激しくなる展開でこの辺も描写されるでしょうか#とと姉ちゃん
最高! いやー、先々週土曜日の「こんなご時世に乳繰りあって」は、ここにかかっていたんですね。いい。すごくいい。今週きてるな!いやちゃんと仕込んでるな! #とと姉ちゃん
このタイミングで露見するの、物質的・精神的にどんなに統制されても、個々の人間の「乳繰り合いたい欲」は絶対にコントロールできない、そうやって人間は命を繋いできたんだ、こんな状況でも赤ちゃん楽しみ!かわいい!ってなるんだ、ってダイレクトに伝わってきてすごくいい。感動 #とと姉ちゃん
付き合いがどれくらい長いのか、たった一度でできたのかまだわからないけど、よくよく考えて結婚を断った常子がいる一方で、求めあって(今も2人並んで働いてるんだから仲良しだよね)子をなしちゃう富江もいて、戦時下でも人は灰色一色じゃなく本当にそれぞれの人生を生きてるんだね #とと姉ちゃん
宗吉が言い出せずズルズルきちゃったの、自分もギリギリまで店たたむ決心つかなかったんだろうけど、松・竹弁当間違い事件で常子たちに任せて自分は謝りに行かなかったことや借金取りに結局びびってたことなど、これまでの人物造形と一貫してるよね…隈井の酒癖の悪さも心配だなあ #とと姉ちゃん
デキ婚て言葉はなくても、婚前交渉や未婚の母は当時あり得ない話じゃないよ。庶民の世界では逆に今より純潔概念なかったり。意外に知られてないんだね。もちろん外聞の良い話じゃないけど、老舗とはいえ酒飲んで阿部定の猥談するような家風だし、中田さんが妊娠するのとは違いますね #とと姉ちゃん
社会が暗く厳しくなり物質的にも精神的にも欠乏するからこそ性に走るってのは、古今東西いろんな小説にもある人間の普遍ですね。性文化の今とは違う部分は、宮本常一『忘れられた日本人』や赤松啓介『夜這いの民俗学』でも読めます URL #とと姉ちゃん
この状況で生まれたって親も子も苦労するだろうけど、どんなときでも子どもは生まれてくるんだよね。別れや老いや死を悲しみ、同時に、乳繰り合って、子どもがかわいくてならなくて必死に育てて、何なら育てられなくても必死に育って、人間は生きてきた。それは絶対統制できないの。#とと姉ちゃん
この、さんざん「いい加減森田屋出て青柳に帰れ」「どうせ隣に実家があるんだからどうなっても安心」と言われてた小橋家がこのタイミングでそのハシゴすらはずされるのね。 #とと姉ちゃん
でもこの状況で呑気な君子、小橋家を叩くのって、まさに戦中に「皇国民一丸となってこの難局に立ち向かわなければならない時に何をたるんだことを抜かしているんだ」と言うことと繋がってくるからなー。 #とと姉ちゃん
今までの小橋家のゆるさ呑気さは、状況に許されてた感ある。でもそっちの状況が当たり前でありたいよね。女四人だけの家族があれだけ平和に暮らしていけて当たり前であってほしい。 #とと姉ちゃん
こういうドラマを今、NHKがやることに反骨心を感じるなぁ。NHKのニュース番組が軒並み残念なことになっている中、ドラマ部門は攻めているというか。NHKも一枚岩じゃないんだなー、まだこういうドラマが放送出来る以上、マスコミのあれこれは勝手な自粛なのかなーとか。
これは叩いても大丈夫みたいな対象が見つかってからのそこへ流れ込む加速度がちょっとおっかない。
RT 反省会タグの存在も「叩いても大丈夫な対象化」に寄与しているとこあると思うんだよね。そこに仲間がいると思うから叩きやすくなっている。枠の中で叩いているうちにどんどん気持ちよくなってエスカレートしていく。棲み分けというメリットは確かにあるけどデメリットも認識しないとね
徳の高い顔して常子を褒めた部長はコネ入社のため平然と首切りを命じ、それを知った多田さんは常子を陥れる。ビアホールでは粗暴な男たちが常子を囲み、誰も助けない(多田さんは逃げる)。助けたのは、社会の底で生きていると思われるお龍。彼女の子分が夜道の常子を護衛する「自分とあんたとは生きてる世界が違う」。
森田屋ではいっそう仕入れが困難になり得意先も潰れ、宗吉が荒れている。君子の給料も差し止めに。不安がる家族に、自分が稼ぐから大丈夫、自分は恵まれている、と語る常子は翌日、解雇になる。部長にくってかかる常子。早乙女は目を背ける。多田は常子に許しを乞う。常子ははねのける。会社を去る常子に早乙女「まっすぐ生きても報われない時代。でも負けないで」。常子は悄然と「今は受け止められない」。
深川も不景気極まりない。材木問屋は陸軍から、肯定か買うの半額で木材を拠出するよう言われる。心労で倒れる滝子。商いの寄合では商売をたたむという者が続出、森田屋の最後の得意先もその1つ。まつは泣きつくがもちろんどうしようもない。そこで最近、家を空けることが多かった照代が「うちもたたみます」発言。照代の兄を頼って高崎に引っ込むことにしようと言う。自分だけが知らされていなかったまつは激怒し、移転を承諾しない。そこで明かされる富江の妊娠、相手は長谷川。
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いやー、とんでもなく面白い週前半。
常子は理不尽な解雇に遭い、しかも同僚の心無い仕打ちまで知ってしまうんだけど、同時に多田も早乙女も「社会的弱者」であることが際立つ。自分が弱者だから、人を陥れる。人を庇えない。自分が生きなきゃいけないから。そこでさらにお龍たちが現れることで、「世界が違う」=「さらなる弱者」の存在が示される。彼らは社会システムの中にいる側からすると「どん底」の人間に見えるんだけど、ある意味社会システムの「外」で生きているから、システム内での力関係などは関係ない。だから常子を助けることができたんだと思う。
まっとうな商売をしてきた森田屋や青柳にも時代の波。社会の中で生きていれば誰もが弱者になりうる。社会の統制により人々は共に疑心暗鬼になり共倒れしていく。その裏でひとり奔走していた照代。まつに黙ってたのは道義的にひどくても、それもやっぱり生きるため。彼女は正面きってまつに頼む。切実に、何度でも。その強さがどこからきたか? ひとつには、富江のお腹の命である。こんな世の中で、人々の様々な欲望を統制している世の中で、2人は個々の欲望に忠実に「乳繰り合って」新しい命が宿っているんである。すごい。
もちろん個人は弱い。こんな世の中で、窮状にある森田屋に生まれて子どもが楽な人生を送れるか? わからない。弱者の再生産かもしれない。それでも、どんなときにも新しい命は生まれてきた。どんな時代でも、どんな紛争地でも。生まれる命のために人は奔走し、生まれてきた命は必死に生きる。月曜からの3日間、沈鬱な描写が続いたけど最後の1分のものすごいカタルシス! 人は社会システムのためじゃなく個々の人生を生きるんだ、っていう希望。
卯月の五 東京旅行その1
●4月某日: 早起きして、いろいろ雑事&準備。旅行前に済ませておきたいことがいろいろあったけど、昨日・一昨日と具合が悪くてストップしてたので。全部はできなかったけど、まぁしゃーない。
朝から雨が降っていて風が強い。テレビでも「台風並みの心構えを」なんて言ってる心配したが、フライトは定刻。飛行機は2年半ぶりくらいのサク、とてもとても楽しみにしていて、離陸時に怖がるかなと思ったけど大丈夫だった。
ていうかこの人、事前に「何か持って行きたいものがあったら言ってね。そうだ、書きだしてみたら?」という私の提案に、UNOとか折り紙とかはまだいいものの、本を5冊(飛行機&新幹線の図鑑、地図の絵本、お気に入りのマンガ『よつばと!』)とか、トミカを10個とか、なんかどうなの(笑)。たった2つ寝るだけだよ、と言っても持って行く本をなかなか絞れない。私の血っぽいわ…。
さて正午ごろ羽田に着。お弁当を買って、離発着がよく見えるデッキ(というの?室内だけど)で食べてから、モノレール。浜松町から山手線で東京駅。新丸ビル6Fのテラスから東京駅の駅舎と、そこから伸びる線路を見る。今日の東京は13度くらいでずいぶん寒いが、子どもは喜んでテラスに滞在。
15時、八重洲口からすぐのメトロポリタン東京にチェックイン。JRがやっているホテルらしく、ロビーには東京駅周辺を模した模型が展開されていて、電車と新幹線が動いている。over30階の部屋からも、ほぼ真下に線路が見えて、滞在中、飽きずによく見ていたサクだった。
熱は下がったけど体力の回復はイマイチな私はいったんここで力尽き、部屋で休憩することに(寝た)。夫とサクはしばしして、入場券を買って東京駅の新幹線のりばの見学に。そこで、博多駅はじめ九州ではお目にかかれない、E5系やらE6系やら7系、そしてそれらの連結シーンが間近に見られ一緒に写真も撮れて、夫いわく「久々にサクの本気を見た」。興奮のあまり、ホームをダーッと疾走し始めたらしい(良い子はしちゃいけません)。
6時、再び新丸ビルまで歩いて、予約していたお店で夜ごはん。さすがにここでサクが疲れを見せたので、大急ぎでビール・ワイン赤白飲んで、自家製ソーセージやらパンやらアヒージョやら食べて、部屋に戻る。(そして部屋で飲み直す)
卯月の四
●4月某日: ゆうべは38度5分まで熱が上がり、苦しくてなかなか熟睡できず、朝起きても37.9度。うーむ。夫が出勤前に、ポカリやら果物やら当面の必要物資を買いに行ってくれて、サクに朝ごはんを食べさせてくれた。
なんとかかんとか起き出して病院へ。「おかあさん、おれをじてんしゃにのせるの、きつかろ? おれ、じぶんのじてんしゃでいくけん」と、自分の自転車ドライブに意欲まんまん。うん、そうね、おかあさん寝てばっかりでヒマだもんね、それぐらいしないとね・・・。間が悪いときに行ってしまい(個人病院でさほど混んでなかったんだけど、私の直前が何か面倒そうな(性格的に)患者さんで時間がかかっていた)、なんだかんだで1時間ほどかかる。うう、きつい。そしてめぼしい絵本などは見終わったサクも退屈してる。私の診察に付き添ったサクは、チクン(注射)があるかとワクワクしていたようで、「はい、じゃあいいですよ」と無罪放免(?)される私にちょっと不満げだった。1週間ほど前、まさにここで彼は血液検査のため腕に針を刺されたのだw
熱は少しずつ下がるも、午後も布団の住人。サクも私を心配しつつ、やっぱり退屈で「おかあさん、まだねると?」とつきまとうから、折り紙の作品を見てちょっとお客さんになってやったり、絵本読んであげたり。全然寝れん・・・。でも、かわいい手紙をくれたりして、かわいい。夫が帰ってきてサクと夜ごはんを食べている間、1時間ぐらいクーッと寝たら汗が出て結構いい感じになった。