『とと姉ちゃん』 第11週 「常子、失業する」(下)ツイートと追記: どんな人のどんな暮らしも等しく大事なものなのだと
「仕事のことが心配」て会話だったけど、心中にはもっと襞があったろうな。3か条の誓いの達成も危うい。生活の危機だけでなくアイデンティティの危機。富江を祝って夫婦鶴を折りながら、自分が選んだ人生に対する不安もわくよね。そのシーンのあと、富江を見る常子の表情。深かった。#とと姉ちゃん
で、不安が胸に…てとこで現れるのが星野の件を唯一知る君子だけど、何ちゅうふわっとした慰めw 照代との対比すんごい。君子も愛情深く彼女なりに精一杯なんだけど残酷なほど差があるのも人間でしてね…。でも人は自分の環境でやっていくしかなく、それで #とと姉ちゃん の力も育ってくわけですね
君子はいつまでもお嬢さんで頼もしい母ではなく、娘たちも今やそれをわかりつつ、母の無償の愛情を当然のものとしてたっぷり享受してきた伸びやかさがあり、つらいとき母に胸を預ける(変な依存でなく)姿もとても自然。できる母じゃなくてもこんなふうに育てられるんだよね、と思える #とと姉ちゃん
1.私は今まで読んできたものから、戦前の婚前交渉は今思われてるより珍しくなかったと思ってて、ならば避妊技術の問題もあり妊娠もあったろうと思ってるのだけど、発覚した時に近所中で下世話な噂したりするのは今よりすごかったろう(娯楽替わりに使われる感じね)とも思ってて→ #とと姉ちゃん
2.→そういう意味では、平時でなく戦時中で、どこの家も苦しく、森田屋も店をやっていけない状況なのが逆に功を奏して、周囲では有耶無耶に扱われるんじゃないかな。思い合う2人が授かって結婚したいと言っているのだから、本来は周囲がそれを認め祝福できれば済む話。→ #とと姉ちゃん
3.→「皆が自分のささやかな暮らしを大事にすれば戦争もなくなる」という暮らしの手帖の思想(何かで読んだ)も、そんな主旨の話でもあるんじゃないかと。時代がどうとか、周囲の目、人と比べて…じゃなく、自分が大事にしたいものを大事にできる世の中にするため、暮らしを大事にと。#とと姉ちゃん
4.→宗吉やまつも、平時ならあれほどすんなりは受け容れられなかったろう。お得意様の目もあり、外聞の悪い結婚が売上減に繋がる可能性も十分。でも幸か不幸か既に店は壊滅的状態。純粋に富江とお腹の子の心配ができるし、新しい命は厳しい状況の中でも喜びになる。#とと姉ちゃん
5.そして宗吉がかつて従業員照代に手をつけたのと対になる設定は、「男が女に手をつける」ならさほどじゃないのに逆なら非難の的、というかつての時代の不思議を表現するためでもあったのでは。まつに指摘されて「男はいいんだよ!」と返さず黙っちゃう宗吉は、やっぱり憎めない奴だ。#とと姉ちゃん
それにしても、照代の「当たり前のことよ。あなたもそのお腹の子が生まれたら同じことするわ」と、まつの「富江に腹いっぱい食わせてやりたい」は、シンプルだけどよかったなー。従業員にも腹いっぱい食べさせたいまつさんだもん、そりゃ富江とひ孫にそう言うよね。#とと姉ちゃん
長谷川富江の想いあってる描写が以前からあればねーという感想がチラホラ。そういう萌えーを基本排除してるドラマなのだなと改めて。森田屋は憎まれ口を叩く=思いあってるという描写なので以前からちょいちょいあった2人のやり取りはそういう事だったんだね。#とと姉ちゃん
RT 私も萌えは好きだけど、萌えこそ正義みたいなのはなーと思ったりも。萌えじゃない描き方での魅力も描きつがれてほしいなー
(青柳の家に居候するのではなく)「森田屋」を設定したことは、ドラマ前半の最大の肝で、家族の範囲とはどこからどこまでか、2つの家族の境目はどこか、商売を家族経営するとはどういうことか、などというようなことを考えさせる契機になってたと思う。常子の役割を規定してるのはやはり家族だから。
とと姉ちゃん、「家族」をどう描くかも大事なんだけど、建物としての「家」をどう撮るかっていうのもこれまでの朝ドラと違う気がするんだよね。
常子の目標には「家を建てる」っていうのもあるし、建物としての「家」も大事な要素なんだな。思い返せば、このドラマのファーストシーンはカメラが2階に登って行ってまた降りてくる映像だった気がする(記憶が間違ってなければ)。
昨日のアバンで大将が長谷川を追い回すシーンあたりから森田屋の建物の構造を強調するような描写があって、それが今日の荷物を出してがらんとした森田屋の場面に効いてたと思う。常子の手入れ来るという気遣いとか、建物自体が主役のような回でもあった。やはり「家」が大事な要素なんだね。
RTsのとおり、「家」を意識的に取り上げてるよなあ。荷物を運び出してがらんどうになった家。浜松の引っ越しを思い出したもんね。星野の引っ越しでもプロポーズの回答ってとこなのに「小銭が出てきた」なんてエピソードをわざわざ挟んでた。#とと姉ちゃん
浜松、星野、森田屋、3つの引っ越しが描かれて。このあとはきっと、青柳の家がなくなってしまうんだなあ(実際に深川の地が受けた空襲を思えば、たぶん)。引っ越してがらんどうになるんじゃなくて、建物が物理的に失われることで家の喪失が描かれるんだろう。#とと姉ちゃん
「そこに家族(人)が住んでいる」ことが重要、って描き方だよね。からっぽになった家を掃除して手入れしても、それは意味ないと。家と家族と暮らしの道具がセットなんだ。だから、からっぽになった家を執拗に映す。#とと姉ちゃん
家とは何なのか。「家族の暮らしが守られる場所」なんだろうなあ。時代がどうだろうと、世間の“普通”や、視聴者の目wがどうだろうと関係なく、自分たちが望む暮らしができる場所。竹蔵が、あの時代に異例のフラットな家庭を作ったように。デキ婚が森田屋の中ではめでたいように。#とと姉ちゃん
「家=自分の暮らし=自分の価値観」を大事にすること。時代の流れや社会通念や周囲の目に振り回されないこと。暮らしの手帖らしい思想だよなあ。一見、強固な境界線を引いて社会から隔絶されることのようだけど、みんながそれをすれば平和な社会になるっていう。逆説的な真理。#とと姉ちゃん
だから、#とと姉ちゃん 世界で家を引っ越す、家が焼ける(まだ焼けてないけどw)のは、「自分たちの暮らしが世間の風に晒され、脅かされる」こと。自分たちの価値観を守って暮らせない危機。だから「家を建てる」目標が生じる。そんな危機を味わわず、ずっと自分たちの暮らしが守れるように。
しかし家は空襲で焼けるわけで(決めつけw)…というか、転勤とか天災とか、暮らしに家の移動や喪失はつきものなわけで。また、(多分)お龍たちのように家をもたず育つ子もいるわけで、だから「家」というガワじゃなく、暮らしそのものにこだわるようになるのかな。と予想 #とと姉ちゃん
あ、その「家=自分たちの価値観が大事にできる場所」の修正拡大版として、雑誌社という「会社」を作るってのもあるんだな。その「家」に入れるのは家族だけじゃない。常子たちが森田屋で家族のように(でも時々線を引きながら)暮らしたように、従業員たちと共に価値観を守る場所。#とと姉ちゃん
だから常子が作る「会社という疑似家」に入るのは、夫を亡くし生活が一変した君子や、不倫の事実はなかったかも…な諸橋や、弟を養うため嘘ついた多田や、裏社会?のお龍、そして常子らのように、時代や社会の強風の中で弱者にされてしまう女性たちなんだろうな。彼女たちを守れる場所 #とと姉ちゃん
#とと姉ちゃん を見てると、丁寧で美しい暮らしとか生活の知恵とかは、暮らしの手帖の思想としては副次的なものじゃないかと思えるんだよね。肝は「みんなが自分たちの暮らし=価値観を守れるように」。ホワンな君子や意地っ張りな滝子やうるさい森田屋、何であれ「自分」は肯定される。個の尊重
#とと姉ちゃん 常子が深川に来た当初、滝子とまつの当てこすりの言い合いはどうもギスギスして見えたものだけど、今日の別れ際のそれは、皮肉は同じでも「達者に生きな」という気持ちを込めたものだと分かる。今作で何度か繰り返されてる、そこに馴染んで一周すれば違う景色が見えてくる描写。
RT そう!滝子とまつのやりとりが痛々しく見えたり森田屋のうるささに耳がキンキンしたのも、意図的な演出だったんだよね。視聴者も「家の外」の人間だから理解できなかったんだ。今は「家の中」がわかるから、当てこすりも猥雑さも大事で守られるべき「彼らの暮らし」だとわかる #とと姉ちゃん
#とと姉ちゃん「偽もの」や「代用品」みたいな話が散々繰り返されてる中、女学校に通っていない富江の制服姿を、持ち主であり本当の女学生である鞠子より似合ってると長谷川が褒めたおかげで結婚っていうのは、そのなんてことはなさと含めてとてもととらしいエピソードだなあと思った
別れは辛いが森田屋さよなら編すごく良かった。ここで常子が「見る」人なのだと改めて提示されていたと思う。彼女は「ささやかな心掛け」を生み出す方よりも、見つけて認めたり他に広げたりする方の役割の人なのだと思う。だから常子が引いた位置にいる話の方がピシッと決まりやすい #とと姉ちゃん
RT そうだねぇ。まつが「ただ弁当作って暮らしたかった…」と語ってるとき、普通なら自分も泣きそうな顔してうんうん頷くような共感的な芝居になるところ、常子がものすごく「じーっと見つめ」てたり、長谷川の柳の話で表情がじっくり変わるところも、見る・見つける人なんだなと #とと姉ちゃん
#とと姉ちゃん のキャラ萌えに走らないキャラ描写、私は好きなんだよね。長谷川も、大将にどつかれ軽んじられながらも、いろんな名言の受け売りを心に留め、つらいときはシベリア食べて、自分の言葉「鞠子より似合ってる」で富江の心を掴んで、フッコの調理を申し出る気合を見せて…よかったなあ。
そして大将も常子たちも、視聴者も「大した人物じゃない」とちょっと軽視してたような長谷川が祝言で語った「柳のように」の話(しかも受け売りw)が、常子の心にはしっかり響き、留まっていくんだね…って脚本演出も好き。キャラ萌えじゃない方向で「誰の人生も尊い」こと感じさせる #とと姉ちゃん
別に今までもじゅうぶん楽しく面白く見てたけど、ミッチー&唐沢の華というか持っていく感、やっぱりすんごいな。くらくら目まいがしてきそうだったわw #とと姉ちゃん
そうかー、戦争の激化という一番つらい時代に合わせて、ミッチー&唐沢を投入なんだな。視聴者の皆さん、一緒に乗り越えましょう!と。待たされた分だけご褒美感も大きいし…。当たり前だけどちゃんと考えてあるなあ。でも、唐沢さんの本格登場は戦後かな? #とと姉ちゃん
プロポーズ週に続いて今週も常子の芝居とっても良くて、今日も 「就活ハリキリ!→撃沈「11円…」変顔→ゴロン→キャラメル至福→青柳商店横断疾走!」 の流れ本当にすばらしくて、充希ちゃんはやっぱり上手い。新しい登場人物との絡みも、戦争末期の芝居も楽しみ。#とと姉ちゃん
朝ドラでは仕事初めてです!状態から天職の仕事を始めることが多いけど、常子は弁当屋の仕事も、タイピスト(&商社(の仕事も知ってから出版の仕事を始めるわけで、社会人としてのあまちゃんぶりとかはもう過ぎてるから、仕事(戦況の絡みも大きいだろうが)パートは深めやすそうだな #とと姉ちゃん
仕事ってとにかく手を動かし続ける体力勝負、集中力の持続勝負みたいなところもあって、挿し込み業務は常子のそんな適性&キャリアが表れてたけど、やってる内容は検閲による差替えなんていう「暮らしの手帖」的には到底許せない案件で、「常子の新しい戦いが始まった!」感すごい #とと姉ちゃん
お笑い芸人からの転身に対してものすごい偏見っていうか軽侮する眼差しの人がちょいちょいいるな。 #とと姉ちゃん
五反田の「君よく見ると可愛らしい顔をしているね」は鳥巣商事での「君が一番マシだった」のひっくり返しだけど、清と初対面のときの「思ってたより可愛い」にもかかってるよね。常子、清に褒められたときは喜んだけど、もうそれだけじゃ喜ばないんだよな、大人だから #とと姉ちゃん
RT この辺はとても女性によりそって作られてるよね。常子が喜ばなかったのは、「かわいい」は清のような素直なほめ言葉だけでなく、鳥巣商事で男性に消費される価値でそれ以外の能力は認められないという意味の時もあることを学んだから。「かわいい」の多義性。 #とと姉ちゃん
加えてかわいいと言った清に早々に幻滅したこと、かわいいとは言わなかった星野さんから「ぼくの好きなった常子さんは結婚より家族を選ぶ人」と何よりうれしい言葉をもらったこと、それは見目形の話ではなかったこと…常子はいろんな経験をして少しずつ大人になってるんだね(涙) #とと姉ちゃん
RTs そういうことだよなあ。「外見に言及するのが不愉快」て散見するけど、「外見への言及がどう扱われているか? そのバリエーションや変化」を見るのが醍醐味だと思うんだけど、外見に言及した時点で「不愉快!やるな!」ってなるのがさ、臭いものには蓋的な、なんか思考停止…?て思う
しかもそこに「しょせんお笑い芸人のなりそこね」みたいなdisを絡めてくるご自分の差別意識っていうかゲスさのほうがどうかな?と思っちゃうけど。
この2か月半の物語を無意味だとして忘れるのも自由だけど、それあくまであなたの評価であって、森田屋が前座とか多田さんが使い捨てとか全然思ってない、全然大事な存在で彼らにもかけがえのない暮らしがあるんだよなって感じながら見てる人間もいるので、客観的評価みたいな書き方はちゃんちゃry
【おまけ】派生考など
#とと姉ちゃん で随所で念を入れて描かれる「家」の描写。とと姉世界における「家」とは、「家族の暮らし=個々の価値観が守られる場所」で、時代がどうだろうと、世間の“普通”や、視聴者の目wがどうだろうと関係なく、自分たちが望む暮らしができる場所で、→
→滝子とまつの刺々しいやりとりや、大声でやや品の無い森田屋・・・最初は見てて「うわぁ…(引き)」って思うけど、時を経て彼らの何たるかを知り視聴者も「彼らの家=彼らの暮らしの中」に入ることで、それらも大事で守られるべき当たり前の暮らしだとわかるって話だけど #とと姉ちゃん
「#とと姉ちゃん における家の中と外の描き方」って観点で考えてると、面白いな。視聴者と作品の関係にも応用できそう。作品を好きな人は、作品という「家の中」にいるから、いろんな描写が理解できるし大事に思える。逆に「家の外」から見てる人には理解できない(それが悪いわけではない)(続)
承前)描写が唐突とか人物造形がブレてるとかいう感想を見て、「え?別に唐突じゃないよ。全然ブレてないよ?」と思うことがしばしばなんだけど、私がそう思うのはとと姉が好きで、その作品世界という「家の中」にいるからで、「家の外」から見てる人にはわからない・おかしいと思えるんだろうなと(続
承前)とと姉ちゃんで描かれてる暮らしの手帖の思想って、「家を建てたい=家は大事」。なぜならそこでは、竹蔵があの時代にフラットな家庭を築いたように、富江のデキ婚が祝福されたように、時代も社会も周囲の目も関係なく、自分たちの暮らしができて価値観が守れるから、てことだと思ってて(続
承前)私が思う「暮らしの手帖」思想でいくと、大事なのは「家の中」。自分の家を大事にすることが大事なのであって、人んちを家の外から覗いてあーだこーだ言うのは無意味であり、争いのもと。そんなヒマあったら自分の家を大事にしようね、って感じ。でも嫌いなドラマを見て批判し続けるのは、続
承前)嫌いなドラマを見続け批判し続けるのは、そうすることで「自分の家=自分の感じ方、考え方=価値観」を守っている、といえるかもしれんね。言語化されてるのは「この作品のここがイヤ」だけど、「自分の価値観はこれだ、これを守りたいのだ」と自分を確認し続ける行為。あさ来たの時の私もそれw
週数がだいぶ進んだ段階でなお、作品を「家の外」から見てる人は、「家の中」に入る気はもうなくて、今後も多分「家の中」の描写を理解したり好もしく思ったりすることはない。作品という他人の家を、外から見ることで自分の家を見つめ守る、それが力点。悪いことじゃない、自分の家を大事にするのは。
ま、こんなことになぞらえるまでもなく、他人の意見なんてスルーすればいいのにどうしても気になっちゃうのは、自分と反対の意見を見ると、自分の価値観が否定されたように感じるからなんだよね。感想の対立≒価値観の対立 と感じるから。
んでも「暮らしの手帖思想」でいくと、やっぱり「重視すべきは、家の外より家の中」ってことになって、「人の意見がどうなのかより、自分の意見を大事にしようね」とか。「世の中にはいろんな家=意見があるんだよ。そのどれもが尊重されるべきなんだよ」とかなんだろうけど、でも、(続)
承前)世間の厳しい風に当たり、いろんな家があることを知ったから「自分の家を大事に」思想に辿りつく(だろう)常子のように、いろんな意見を知り、知って揺れるのも、大事なプロセスなのかもしれんな。
他人の家を外から覗いて批判するのも1つのプロセスなのかな、って。常子も父が健在で「竹蔵が築いた家」に守られて育ち、戦争経験もなけりゃ「家を建てる」「自分の暮らしをとことん大事にする」なんて思わなかったよね。世間を知り多くの人を知って目標が強固になる過程が常子の今。 #とと姉ちゃん
とはいえ、君子に対する風当りの強さや「迷惑をかけること」へのアレルギー的忌避感などを視聴者の感想に見ていると、そんな感想そのものが「世間の冷たい風」だなーと。ドラマは「世間」を二重に炙り出してるなと感じる(私はね)。劇中で苛めたり貶めたりする人と、ドラマの描写を批判する人の二重。
とはいえ、君子に対する風当りの強さや「迷惑をかけること」へのアレルギー的忌避感などを視聴者の感想に見ていると、そんな感想そのものが「世間の冷たい風」だなーと。ドラマは「世間」を二重に炙り出してるなと感じる(私はね)。劇中で苛めたり貶めたりする人と、ドラマの描写を批判する人の二重。
半年間。毎朝元気や心地よさを届けることもできるけど、それが朝ドラの唯一無二の役割じゃなくて、視聴習慣の定まった長丁場の枠だからこそ、作り手がやりたいこと、やれることはいろいろ考えられる。それをあなたが否定するのは自由にしても「それが存在すること」を否定するのはどうなのっていう
「他人の家=他人の暮らし=価値観」を理解できなくてもいいけど、そんな家が存在することは認める。肝だよね。雑用騒動の最後、早乙女が常子にそんなこと言った。部長が褒めたからだけでなく、常子の意志と遂行力を見て常子の存在を認めた。あなたの考えはわからないけど、と言って。 #とと姉ちゃん
暮らしの手帖思想の「暮らしを大事にする」の肝は、暮らしの知恵とか丁寧な生活とかよりも、「自分の暮らしにこだわって大事にする」で、そこには「他人の暮らしがわからなくてもその存在は認める」も付いてくるのでは? それは即ち「自分の暮らしが理解されなくても自分の存在は認められる」に通じる
自分の家=暮らし=個を大事にし、相手の暮らしに必要以上に立ち入らず(赤の他人の森田屋に寄宿したように、連帯はするんだよ。迷惑もかけ合う)、相手の暮らしも尊重する。それが平和への方法なんだ、っていう哲学が、なんか既に見えてくるんだよね。とと姉ちゃんでは。
そんな思想につながっていくから、早乙女さんも森田屋も大事な登場人物だし、多田さんや諸橋だって、愛すべき(萌え)キャラじゃなくたって、使い捨てや主人公アゲ要員なんかではなくて、作家は大事に書いてたと思うよ。
時代モノに出てくる人の思考が全員現代と同じ(例えば誰もが建前上でも男女平等だと言ったり、煙草を吸うのが嫌がられたり)だったらそりゃないわ…と思うけど、現代ぽい思考の人が存在するのはNGなのか?と言ったらどうなんだろう。その環境を借りて「今」を描くのはドラマとして無しなのか。
現代人が過去の舞台を間借りして作品を描く意味は何だろう。もし、今の思想(「戦は嫌でございます」的なもの)を紛れ込ますのは「不自然」だとすると、当時の人の書き残したものを読むのがベストで、ドラマ化なんてけしからんってとこに落ち着きそうな気も。
現代人が過去の舞台を間借りして作品を描く意味は何だろう。もし、今の思想(「戦は嫌でございます」的なもの)を紛れ込ますのは「不自然」だとすると、当時の人の書き残したものを読むのがベストで、ドラマ化なんてけしからんってとこに落ち着きそうな気も。
例えば悪いかもしれないけれど(というか暴言だと思うけど)、てるてるの照子はんが許容されるのって石原慎太郎的だよね。あれ、キャラがああだから叩かれないだけで、ちょっとでもキャラ造形間違ったらボコボコだと思う。
対し、とと姉の君子が毒親(と私は思わないけれど。完璧な母親でないだけで。そして完璧な母親なんて世の中にどれだけいるの?とも思う)だと言われるのは、本人が他者の批判をはねつけるタイプのキャラじゃないからなんだろうな。皆「おかしくね?」って言えちゃう、叩けるサイズの人というか。
その点、私はまれの藍子が圧倒的に怖かった。最後まで得体が知れなかったというか。
RTs 偏っていても、石原慎太郎的キャラは叩かれない。叩かれるか否かは、他者の批判をはねのけるタイプかどうか。叩けるサイズの人間だと思われるかどうか。鋭い示唆……そのとおりやね…… そして藍子さん(笑)
星野からのプロポーズを断り「とと姉ちゃん」人生を選んだあと、太平洋戦争期に突入するのかと思いきや、ここで森田屋が退場。ミッチー・唐沢の二大巨頭は戦後に登場かと思いきや、今から顔を出すようで、驚きの今週だったんだけど、すごく、すごく良かった。これまでの脚本が次々に実を結び始めている感。
そして退場時に、森田屋との暮らしが何だったのか、鳥巣商事での仕事が何だったのか、それが暮らしの手帖にどうつながっていくのか、ほとんどはっきり見えてきたのが何かすごくうれしくて、これから劇中は一番つらい時代になるけど、今後がますます楽しみになった。
ミッチー&唐沢以前・敗戦以前に見えたきたその「暮らしの手帖」思想(と勝手に命名)は、「生活の知恵・工夫」「丁寧で美しい暮らし」みたいなものより、もっと本質的なところまで掘り下げられているのが明らか。森田屋のガサツさやお下品さも、滝子とまつの意地っ張りで痛々しい当てこすり合いも、「守られるべき、当たり前の日常」だったのだ。誰のどんな日常も人生も等しく尊重されるべきもの。それを阻むのは、何?
真摯な作り手だと思う。
キャラ萌えに走らない正統派な人物描写にも好感がもてて、長谷川の描き方にその良さを痛感。受け売りばかりのようで、彼はその言葉たちを自分のものにしているんだな。だいたい、その知識を何かで読んだり聞いたりする(テレビはまだないよね)インプットの時間が彼にはあったということだよね。
傷ついた常子に、早乙女さんの「まっすぐに生きて。負けないで」は通じず、長谷川の「柳のようであれ」が響く。「柳のようにやり過ごす」。「負けない=何者かと戦う」のではなく、「日々の暮らしを大事にしながら嵐が過ぎるのを待つ」なんだろうな。ただ、ここからの嵐があまりにも大きいのを、後世の私たちは知っている…。