『半分、青い』の子供時代 1,2週「生まれたい!」「聞きたい!」
理不尽に左耳の聴力をなくすくだりからは、繊細ながらも抑制のきいた描写が続いた結果エモーショナルな流れにつながり、何だか語弊がある気もするけど、圧巻だったと思う。
TLを見ていると、聴覚に限らず、ハンディキャップをもつ人やご家族からは賛否両論。ナイーブな問題を描くというのはそういうことだと思う。(脚本家の人のSNS発言の軽さも相まって)全体の雰囲気としては軽くカジュアルに見えても、覚悟をもった、そして誠実な作り手だと私は思った。
耳を寄せた律にも、鈴愛の耳の中の小人の声は聞こえない。それで鈴愛が初めて泣き、けれどやがて泣き止む。これまでと同じように、律に誘われてピタゴラスイッチ(違)を見に行くことにする。そこで入ったモノローグ
9歳になった秋 私は左耳の聴力をなくした
私の世界は半分になった
私は生き物として弱くなった
両方の耳で音を聞いているとき 世界は力強くたくましかった
しっかりそこにあった
今は何の音もか細く 頼りない
足元がぐらぐらした 心もとなかったでも本能が生きようとした
世界を楽しもうとしていた
私は、朝ドラでこんなに胸がいっぱいになったのはほんとに久しぶりだった。
障害と一緒にするなと言われるかもしれないけれど、そういう感覚を、自分も知っているような気がした。当たり前にもっていたものをなくして、急に自信がなくなり、怖くて、でも、毎日は続いて。気づいたら生き続けていて、笑ったり楽しんだりしてて、あとで思えば生きる力ってすごいんだなあと。
そういう経験って、多くの人がしてきたんじゃないだろうか。
ナイーブな事案を、こういう普遍に落とし込んだ脚本演出、すごいと思った。
その説得力は、第1話から2週目の金曜日までの150分あまりで、
鈴愛だけではなく、親である晴さんやうーちゃんの悲しみ、早くに連れ合いをなくした仙吉さんの悲しみ、律の孤独、ブッチャーの孤独、ぜんそくがあり、しかも友だちができにくい息子を育ててきた和子さんの不安、人の宝物を取り上げているうちに自分は産みそこなった産婦人科の先生・・・など、さまざまな悲しみや孤独が、通低音として描かれてきたから生まれたものでもある。
「半分、青い」っていうのは、生きようとする本能の話
私たちの本能は世界を楽しもうとするんだという話
それができるのは人と人のつながりや愛があるからだって話・・・・
・・・・なんだろうなあ、とスッと入ってくる、半年間のドラマの導入部の2週間だった。
#半分青い イントロだけで「ああ、星野源節だな」と思い、彼の浸透力(私への)にあらためて恐れ入った。息子7歳は歌が入った瞬間に「ほしのげんかよ!」(最近オードリーが好きすぎてこの口調を多用)
8時12分、「・・・これ、もしかして、オリガミ博士じゃない?」と息子7歳が滝藤賢一に気づく。
そうそう、#半分青い で一番びっくりしたのは、チーフD、田中健二さんなの?! 期待値がめちゃ上がった!!
半分青い、「やっと生まれた。しかもおなじ日! まさか、こんなはじまりとはなー」と、息子7歳がドラマのPR部分を正確に把握した感想をつぶやいてた。胎児時代から朝ドラアーカイブたくわえてたりするんだろうかw
夫は妻の体と気持ちを慮り、妻は特別室に入るとき緊張する。いけいけドンドンでうっかり子どもができてしまった楡野夫婦だけど、ナイーブさも持ってる。そういう両面性?多面性?にすでに繰り返し言及してるよね。#半分青い
早い死を「惜しまれる」でなく「羨ましがられる」と言い、大人にOKをもらってから始めるいわゆる「育てやすい」子を「ちょっと心配になる」と言う。そして科学技術を三途の川というスピリチュアルに使おうとするヒロイン。ステロタイプからの反転をやってるの面白いなあ #半分青い
でも、ピンピンコロリに胸を張るおばあちゃんが、同時に「私はもう触れないから生きてる時間を大切にね」と言うんだよね。だから、ステロタイプの反転は単に「珍しいことやってるよアピール」じゃなくて人生を愛おしみ、生きやすくするための表現なんだなってわかる。#半分青い 予想以上にいい感じ。
#半分青い 名前を呼びあうカタルシス! ただ相手が自分の名を呼ぶ声が耳に届くだけなのに、すごい幸福感。でも糸を絡ませずピンと張ってなきゃいけないし持ってくれる友達も必要だし、ちょっと虫がきたらすぐ手を放しちゃう。それほど簡単なことじゃない、ってのも伝わってきた。
#半分青い はもしかして、事前の心配のわりに見られる、どころじゃなく、かなりの秀作の予感・・・? 少なくとも子ども編はそれだけで立派な名作として幕を閉じそうだ。全編完結したあと子ども編を2回目見ることがあれば、たぶん最初からぐずぐず泣いてるんじゃないかしら私。
ところで律のなんとかマシンを、TLがそろって「ピタゴラ装置」って言ってるw #半分青い
#半分青い 「一生」という言葉を口にはしてもまだその重みはそれこそ半分くらいしかわかってないだろう鈴愛。そんな幼いわが子がなぜという理不尽、彼女の背負うものの大きさに震えながらも向き合う晴さん宇太郎さん夫婦に今朝はどっぷり感情移入してしまって…
宇太郎は当時からしても先進的な人という描かれ方をしてると思うけど、優しさをストレートに出しても揶揄されない。それが情けないと思われない時代の方がきっと男性も生きやすいよな〜って、善作の虚勢を見ていて思う。根底にあるのは同じ家族を想う優しさでも、その発露の仕方は自分も傷付けるかんじ
そういえば #半分青い は今から40年近く前でも、家父長制的な強権をふりかざす男性が出てこないね。おじいちゃん、宇太郎さん、和子さんの夫、船頭さんと、レイヤーはあるけどマッチョじゃない。担任の先生も、町医者も、女性。唯一強権的といってもいいようなブッチャーの母も、女性。
#半分青い 第2週で力強い世界を理不尽に失っても悲劇のヒロインの話か…って腰が引けないのは、第1週で「人は見かけによらない」を描いてたからかなーと思う。いろんな人が自分だけの悲しみや不安をもってるからこそ人を思いやったり連帯したりできるんだよね、って感じる
この「鈴愛に頬を寄せて左耳の音を聞こうとする律」とか「律のベッドに寝転がり眠ってしまう鈴愛」とかを、本人達は無自覚に何のてらいもなく子供らしくやっているけれどよくよく考えるとロマンスがありあまるという絶妙な温度で見せてくるの、さすがラブストーリーの女王やで…
#半分青い 鈴愛にいわれて左耳の耳鳴りを聞いたあと、律は鈴愛の右側に移動したんだよね。そのごく自然な動きはきっと、自分で耳栓してみたという具体的な行動から出たもので、そういう行動は科学者になりたい律らしくて、草太、宇太郎、おじいちゃんなど、誰かを思う表現もいろいろなんだなと思う。
今日の冒頭に出てきたスピリチュアル?信仰?みたいなグッズも「大事な人を思っての行動、表現」のひとつなんだよね。和子さんを通じて仕入れることで「そうせずにいられない、普遍的な母心」という描き方にもなってた。普遍的な母心は、律が頭を怪我したときの和子さんでも描かれてたね #半分青い
#半分青い の土曜日分、高校生になった鈴愛たちを見て息子小2が「あー、もうちょっと子どもだったらよかったのに」と。いよいよたける様が毎朝拝めるゥゥゥってみなぎってる私ですらそう思うくらい子ども時代編好きだった。
子どもたちが良かったのはもちろん、イケイケドンドンの若いカップルが親になっていく話としてもすごくぐっときてた。分娩台でもうビキニ着れないのとか昼寝ばっかりみたいな晴さんが子供のことではすっかり泣き虫になり、うーたんは頼りないように見えて妻を支える強さのある夫に。#半分青い