『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』 滝口 悠生

ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス (新潮文庫)

ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス。というのは、ジミヘンがノエル(ベース)とミッチ・ミッチェルと組んだ3ピースバンドで、彼らのアルバムは、私が大学時代、繰り返し聴いたアルバムベスト10・・・いや、ベスト3に入るかもしれない。だから、書店でこのタイトルを見かけて自然に手にとってたよね。

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冒頭を読んで、違和感とか、もっといえば不快感で読ませるタイプの小説かなというイメージをもった。
そのとおりでもあったんだけど、何かうまくいえない不思議な面白さがあって、ふわふわと読み進めていった。

時間空間は簡単に飛び、主人公の所在も心も定まらない。結論らしい結論もない。

尖鋭的な感覚や感情が繰り返し描かれ、同時に、必ずと言っていいほど、それがあやふやに雲散霧消していく感覚も描かれる。

房子と一緒にいた短いけれど濃密だったと思っていた時間も、私の知らない房子の時間に吸いこまれるみたいに薄く消えかかっていて、房子の顔も、体も、声も、あの頃に感じていた特別さがそこから消えていて、その特別さがいったいどんなものだったのかわからなくなっている。時にはその顔の細部さえ曖昧になる。

音と間がリズムをつくるが、いったんリズムができればリズムが音と間をつくりだす。次の音が鳴らない間があるとして、そこにもしかしリズムがある。次の音が鳴る前に死んだからといって、そこにリズムがなかったことにはならない。次になる音をいつまでもいつまでも待つみたいな引きちぎられるような力が生まれる。


それらは全部でたらめで、わずかずつ異なるひとつひとつの音の響きもまた何ひとつ覚えてはいないし、音と音の間などなおさら覚えていない。その時何を考えていたのか、思考の流れや尻や足の冷たさも覚えていない。じゃああのとき覚えていられると思ったり、あの時数年後、十年後にこの夜のことを思い出すかもしれないと思ったりした私は、いったい何を思い出すつもりだったのか。

風変わりな人物たちが登場しては行き過ぎ、おかしなエピソードが、積み重ねられるというわけでもなくちりばめられて、そのすべてが読者からは遠く非現実的なのだが、やがて東日本大震災原発事故という、(程度にレイヤーはあれど)現代の日本人すべてが経験した出来事を迎えるに至り、小説が急に確かな像を結ぶ。

けれど、その場面すら、災厄(あるいは人災)を嘆いたり悲しんだりする筆致はなく、ささやかな日常が続くことに安堵するでもなく、その日、そのときの出来事が、やはりあやふやな感覚と共に描かれるだけだ。しかも、その「最新の現実」で収束するのではなく、続くラストシーンでは時間が巻き戻っている。

何を書きたい小説なのか、よくわからないなりに私が感じたのは、「不確かさこそに生きている実感が(かすかに)ある」とでもいおうか・・・

生きていて、確かなことは何もない。恋した人は急に消え、やがて何が特別だったのかわからなくなる。路上でジャンベを叩きながら政治批判をしていた青年が、何をどう批判していたのかハッキリと思い出せない。傷心の一人旅では急にバイクから投げ出され田んぼに突っ込むハメになる。それらすべての出来事が、時間とともに意識の中で輪郭を薄めていく。だからといって主人公は人生を厭うわけでもない。彼はほどよい年頃で結婚し子どもを持ち、いわゆる普通の家庭を築いている。ただ、その「普通さ」にも、つねに疑問符がついているのだ。

ラストシーン、バイクから投げ出された主人公がだいぶ古い墓を三基見つけて、やっぱり風変わりな見知らぬ男が出てきて、なぜかウクレレを弾いたり、雨が降っているのに焚火を始めたりする。

その脈絡のなさと、

「私は久しぶりに満ち足りた気持ちがした。なにかが足りなかったりわからなかったりする、その不足感が満ちていた」

という述懐が、ここまで読んでくると、ちょっと腑に落ちる気がした。

ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンスという、短い期間だけ活動したバンド。中心人物はその後、夭折した。エクスペリエンス。この小説で描かれるあやふやな「経験」観は、混迷するこの時代ならではのような気もするし、ジミヘンの時代を始め、普遍性がある気もしたし、そのどれも違うような気も・・・・と、独特なリズムの文体で綴られたこの小説に影響されてよくわからなくなる私なのだった(笑)。

 ちなみに、最近の芥川賞作家による小説のようです。