『桐島、部活やめるってよ』 朝井リョウ
- 作者: 朝井リョウ
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2012/04/20
- メディア: 文庫
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内容は、とてもさりげないような、シンプルなような、でもとても深いような。読む人によってずいぶん印象は変わりそう。好きなように読めるってことで、こんなに話題作になったのかもしれない。私は、読んだ後、けっこう尾を引いたなー。ちょっと考え込んでしまった。これ書きながらもまだ答えが出てない感じ。
というのは、この小説のように、章ごとに異なる登場人物を語り手に据え、連作短編のような形で展開していく物語は少なくはない。しかし、そういった場合のセオリーは、章が進むにつれ、本書でいうなら「桐島」というメインテーマの実像がくっきりと浮かび上がってくることにあると思う。読者が桐島についてなんらかの理解を得る、という。
それが全然ない! 桐島の実像どころか、尻尾もつかめないような。桐島ってなんだったんだろう?と考えずにいられない。これもまた、読者によって色んな答えがありそう。
それぞれの章はとてもよくまとまっていて、「どの章が一番好きか」も、読者によってそれぞれ、かなり票が分かれそうだ。
桐島の人物像について語られているのは、唯一、「小泉風助」の章。キャプテンである桐島がやめたことで、同じポジションの控えだった彼は試合に出られるようになる。そこで桐島の存在の大きさをあらためて実感するのだが、やがてその喪失をポジティブな形で自分の力に変換してゆく。
とてもストレートにわかりやすい話で、「桐島」をタイトルに掲げる以上、その語り手は、このように桐島の控え選手だったり、副キャプテンの「孝介」だったり、彼女の「梨沙」だったり、桐島の部活の終わりを待ってる「竜汰」だったりするのが普通だと思う。でも、作者は、風助にしか「桐島」を語らせない。「亜矢」も、「涼也」も、「実果」も、桐島の余波を受けてはいても、それぞれ自分の物語で、彼らの中で桐島の存在が俎上に上がることはない。
その中で、小説の最初と最後、唯一、二度の語り部になる「菊池」は、桐島がバレー部を辞めたことに執拗にこだわるのだが、それはそれで妙なのだ。彼はバレー部員でもない。やめたことも伝聞で聞いたくらいだから親友ってわけでもなさそう。
菊池はスクールカーストの「上」「トップグループ」に位置する男子で、見た目もいいしスポーツでもできる、成績もそこそこ。とにかく目立つ存在だ。けれど、なにとも真剣に向き合えない自分にイライラしている。かわいいだけで中身は何もない彼女にイライラして、けれど、そんな彼女と付き合っている自分にイライラしている。そして、ある日、「涼也」たちが映画を撮る姿に愕然とする。カーストが「下」でダサいと目されているけれど、彼らには好きなことがある。夢中になれるものがあるのだ。
ひかりだった。
ひかりそのもののようだった。
菊池が「涼也」たちをそう称するところは、この小説のクライマックスで、ここではカーストの鮮やかな逆転現象が起きている。続けて、菊池が、「バレーをやっていた桐島もこんなふうに輝いていたのだから、やめるのはもったいない、やっぱり戻るべきだと言ってやろう」と決意するところで小説は終わる。
「光のない自分」と「光り輝いている涼也」とを対比する菊池だからこそ、桐島にもこだわるんだろう。つまり、
名前 | カースト | 光 |
---|---|---|
菊池 | 上 | ない |
涼也 | 下 | ある |
桐島 | ? | あったけれど失った |
という構造。
桐島のカーストはおそらく「上」だったんだろうと思う。竜汰、菊池、友弘、風助、孝介・・・(溝ができた者も含めて)つるんでいたのはみんな「上」の奴らだから。彼女「梨沙」も「上」の(そして菊池の彼女と同じように、やはり中身のない)女子生徒だ。
しかし、バレー部をやめたあとの桐島は、小説に登場しない。学校には来ているはずなのに。菊池や竜汰、梨沙ら、バレー部と利害関係のない登場人物がこんなにいるのに、彼らの誰とも絡まないどころか、影も形も見せない。
存在が無になっている。それがまた、この小説に不思議な印象を残すところで、もちろん作者の意図なんだろう。
菊池は、そんなに気になるならば、すぐにでも桐島本人の意を質せばいいだろうに、小説のラストまでそのような形跡はない。同じカースト「上」でつるんでいても、それが彼らの距離感なのだろう。同じように、この小説では、どの語り手も友だち(のように振る舞う人間)と心情をシェアしたりしない。スクールカーストの残酷な一面を描きながらも、それがすべてではなく、どのカーストにいても本質的に息苦しさや虚しさがあると描く。そのうえで、菊池に、涼也という「光」を見せることで、その閉塞感を突破する手立てを示している。
であれば、大好きなバレーをやめることで「光」を失った桐島は、敗者/犠牲者のようだが・・・、必ずしもそうなのだろうか?とも思えるのだ。出てこないから。この小説に彼の実在する姿がないのは、存在を消されたのではなく、解放されたという意味合いもあるのでは? 学校という閉鎖空間は、上にいても下にいても苦しいものなのだ。何も語らず、姿すら見せないことで、桐島だけが、そのしがらみから自由になっているような効果が生まれている。
さらに、文庫化にあたって付加された章「かすみ14歳」に、「友未」という子が出てくる。彼女は、なぜか部の中で浮いてしまっていて、ほとんど口を利いてもらえず仕事を押しつけられている。それは、本編には詳しく描かれなかった部活をやめる前の「桐島」の姿を想像させるもので、私たちはどうも、部活をやめるって「挫折」だと思いがちだし、現に菊池もその点で桐島を憂えているわけだけど、これを読んだら「こんな同調圧力の世界に苦しみながら留まっているなんてばかばかしい、やめちゃえよ」って思える。やめてしまった桐島を軽やかに思える。
14歳のかすみが、校外の友だちとして「私は友未が好きだから、これからも話すよ」と宣言したように、桐島にも、学校ではないどこかに、ささやかな居場所があればいいなと思う(そのかすみが、17歳になっている本編では、本質を残しつつも学校の世界の中にとらわれているようなのもまたほろ苦い)。
どのみち、学校生活は永遠じゃない。卒業後も変わらず、「上」の人間として何げなく(何もなく)生きることもできるけど、そのむなしさを直感的にわかっているから、菊池は自分に苛立ち、涼也に光を見たんだろう。「校門とは逆方向に歩く」=「学校の中に留まっている」菊池は桐島に部活に戻ればいいと思うのだけど、大人になって久しい読者の私は、桐島はひと足先に旅立ったのであって、別の場所で別の光を見つけるんじゃないかとも思う。
そう、カーストの上にいようが下にいようが、どんな焦燥や閉塞感を抱えていようが、恋を失おうが、輝かしいことも苦いこともひっくるめて、学校生活が限られた時間だということを知ってしまっている私たちには、どこかそれが尊い、愛おしいもののようにも思えるのだった。