『仏果を得ず』 三浦しをん

仏果を得ず (双葉文庫)

仏果を得ず (双葉文庫)

読み始めてすぐに、「これは、“白しをん”だな」と判明。全部が全部、『まほろ駅前〜』とか『風が強く〜』みたいな作風かと思ったら大間違いで、その気になりゃ読者の心を袈裟斬りどころかメッタ刺しにする破壊力も秘めているのが、三浦しをんの小説なのである。

作風のみならず、作品によって文体までもを変幻自在に操る作者。本作は文章がとても柔らかで、まるでティーン向けのようですらある。一部、性的なことに触れる場面もないではないが、登場人物が性的なことをしているだけ(だけ?)であって、これが性的な場面かといえば、そうでもない。今どき、中学生にもなっていれば、ムラッとすらこないんじゃないか(と、今どきの中学生に偏見をもっている私)。本作の登場人物でもあるミラちゃんと同じ年頃の子ならば、ドギマギぐらいはするかもしれない。

はっ。つい、エロいかエロくないかについて、こうも字数を費やしてしまったが、つまり、この作品は、読者に小学生すら想定しているのではないかと私は思う。

かといって、子どもだましな小説では全然ない。序盤こそ、「遠慮会釈なく猛毒をまき散らす黒しをんも怖いけど、やっぱりちょっとぐらい苦味もほしいよねえ。こちとら、いい年した大人ゆえ。」なんてうそぶいて、鼻くそほじりながら(イメージですよ)読んでいたものの、気づけば作品世界にぐいぐい引き込まれ、「くーーーっ、たまらん!」と布団の上でもんどり打ちながらページをめくり続けていた。余談ながら、すごく面白い本には、身じろぎすらさせないものと、激しく暴れたい衝動をもたらすもの、二種類あるってのが私の持論である。

特に派手な事件が起こるわけではなく、文楽にまい進する青年がしゅくしゅくと描かれていく物語である。大方の読者がそうであろう通り、私も、文楽人形浄瑠璃については、近松門左衛門、ぐらいしか思いつかない門外漢である。なのに、何がここまで読者を引き込むんだろう・・・と幾分いぶかしさすら感じながら読んでいたのだが、後半、

そうだ、この人たちは生きている。ずるさと、それでもとどめようのない情愛を胸に、俺と同じく生きている。

のところで、一気に視界がひらけた気がした。

芸の真髄を極めるためには、「よくて、たった残り60年しかない」人生。寺の隣で、寺の息子が営む、セックスをするための場所であるラブホテル。死んだ者とまだ生きている者。ふたりのヒロイン(と私は思っている)真智とミラ、真実の智と未来のミラちゃん?
 
これまでのすべてがつながった。三浦しをんは実際に文楽の大ファンであるという。おのれでは動かない人形に命を吹き込む伝統芸能を、今も昔も変わらない人間の、生の肯定とみて、その熱を、さまざまなモチーフを使って物語にしたんだなと思った。続く章で明らかになる、『仏果を得ず』という、この、わかりにくい作品タイトルの意味にも、その意がこめられているとわかり、私のボルテージは最高潮に! 

各章タイトルには文楽の演目名が用いられ、その演目の内容と、小説の内容がリンクするという技も当然のように使いながら、大サビ(?)へと盛り上げていくその手腕。やっぱりうまいんだよなあ。すでに数ある三浦しをんの作品の中でもかなり好きだと思った。読み終わって、すぐさま冒頭に戻りまた通読。