一見変わったようなところのある(主人公姉妹たちと毛並みの違う)人々が登場するのは、「それでも登場人物たちの関係はフラットで受容し合える」或いは「わかりあえない人もいるがそこで憎悪したり悪い意味で捉われない」ことを描くため、と解釈しています。

娘時代の常子は清の「参ったなー」をネタにしたり植物オタクの星野を不審にみなしたりしていましたが、やがて成長し人を一面では量れないことを知る。宗吉に小物のような扱いをされる長谷川がシベリアを買ってくれたり、祝言での言葉が常子の胸に響くのも良い例で、良い場面だったと思います。

森田屋や鳥巣商事などいろいろな人と出会いや経験があったからこそ、自分とは違う性格や価値観の人々の暮らしも等しく大事なものだと思えるようになったのだと。水田や綾やカフェの女給たちに対し、常子は当初の戸惑いこそあれど「下に見る」素振りを見せません(と私は思っています)。

が、笑いのセンスについては何だか残念だなーと思うところ少なくないですね…。問題が脚本なのか演出なのか判別しがたいですが。

さて常子と花山の断絶についても、「嘘をついたこと」「前向きに話し合わなかったこと」があそこまで事態を悪化させたというのが重要なのかなと。1つの嘘がいくつもの嘘を誘発しましたが、人は自分の都合や事態の流れの中で良かれと思って嘘をついたりごまかしてしまうことがあり、それらのエピソードの最後に花山の妻が「嘘はいけませんよ」とたしなめる。

二者択一のどちらかという結論ありきでなく、正直であること、過程を大事にすることでしか前向きな結論は得られない。と常子たちが学ぶ失敗譚でもあったのかと思います。

 

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