『あさが来た』 第20週 「今、話したいこと」 と、ちょっと『ちかえもん』 / "良き物語" と "良い朝ドラ"、物語の力・ホワイトマジック
成澤探し、出る杭は打たれる発言、こっそり動きそうな新次郎、母の文に暗然とする千代。月曜らしくフラグがいろいろで、TLは働く母とか親子の齟齬とかで盛り上がってて、そういう意味では相変わらずよくできた脚本だよね。ただ主人公の感動や女性を巡る問題の描き方が類型的でね… #あさが来た
あさの「自分が学びたかった」だけではなくて、はつやふゆのように「学びの機会があったらもっと人生が変わったのでは」と思える女性達、そちらも女子教育への情熱の動機に絡めたらもっと説得力が生まれたかなぁ、と。彼女達は福沢諭吉、成澤泉よりもずっと深くあさに関わっていただろうに。
>RT 今後「学ぶ機会の無かった #あさが来た ワールドの女子たち」に言及する可能性はあるけど、現時点ではナレーション&あさの涙によって成澤文書の素晴らしさを描写していて、あさの感動も涙で表現してるわけで、やっぱり薄いんだよね。視聴者にも打たれるような感動が欲しいところだけど…
親子関係にしても三角関係にしても、緊張感とオリジナリティにあふれた真田丸を前夜に見てるから、どうしてもぼんやりした物語に見えてしまうな。違う作品だし違う枠だから比べてどーこー言うのもそぐわないんだけども、前夜の感覚って鮮明に残ってるからね。
視聴者層を思えば、女性と仕事とか、仕事と家庭とか、夫婦/母子関係のトピックにもっていくのは自然で、視聴者は自分の経験や価値観を引き出されるわけなんだけど、ドラマそのもので惹きつけてくれないし、もやっとするような扱い方なんだよなあ、女性を巡る問題。浅いっていうか… #あさが来た
もやっとするなら見なきゃいいやん、ていうのはもっともなんだけど、見ない選択肢はちゃんとあるけどね、見ちゃったからには違和感を違和感としてちゃんと意識したいなと思うわけでね。
「女子の高等教育が何故必要なのか」というのがこのドラマからじゃわかんないんだよね。はつみたいなスローライフも素敵じゃんって見えるし。本音のところではこのドラマは女子に高等教育なんて必要ないって言う千代に同意なんじゃないの。モデルの立場上展開してるだけで。
まあ、あさちゃんは浅学で苦労するどころか「なんでだす?」と聞けばみんな嬉しそうに教えてくれるから、下手に賢しいより素直で謙虚が一番って感じなのよね。下手に知恵つけて男と闘うより無知を自覚し男を立てて教えてもらうのが賢い女ってのを期せずしてやっちゃってるわけで。
無知こそ美徳を地でいってたはつは苦労したけど今はロハスで幸せだし、無学なふゆは可愛さを武器に大企業の管理職の奥様におさまって幸せだし、うめも主人とテーブル囲んで座ってお茶できる感じだし、勉強そんなに大事かしら?ってなるのよ。
あさちゃんがほぼすべてナレーション&周囲のage説明セリフによって辣腕実業家&銀行家になったのは本当に残念だけど、資金集めみたいな実務場面は大歓迎だす。でも、ほんとに30万必要? 根拠は? 節約できるとこあらしまへんか? 融資の鬼みのり呼んできまひょか? #あさが来た #まれ
なぜ女子に高等教育が必要なのかをふわっと流してるから、なぜ30万もの大予算が必要なのか、なぜ成澤の言うように「寄付&身の丈にあった規模=小規模」じゃだめなのか(そんな学校も当時は実際にあったはず)、すべてがふんわりと進んでいきますが #あさが来た はホームドラマですもんね。
今、わたしの中ですごい八重の桜明治編の評価があがってる。八重さんと同志社女学校の生徒たちのほうがよっぽど女子教育への切実さがあったなあ。せめて宣ちゃんとあさを早々に出会わせて「こういう子の学ぶ場を」と思わせてほしかったわ。
>RT 確かに(笑)。八重の桜明治編はさんざん「朝ドラ大河」と批判されたけど、実際に朝ドラでやってみるとやっぱり向こうはなんだかんだ大河だったね、と。
やはり志というか、おおもとの動機を掘り下げて視聴者を引きこまなければ物語に説得力は出ないんだけど、朝ドラではそこは全然重要視しないんだな、と。朝ドラっていうか今作の話だけど。
#あさが来た 批判を「史実重視派」と捉えている人をTLに散見するけど、私が見る限り史実派はほとんどいなくて、テーマ・キーワードの掘り下げ不足や創作の不備を指摘する声が多い。で、それに対する反論も「これは朝ドラだから / ホームドラマだから」というのが多いのはちょっと面白い。
「しょせん朝ドラだから」ってイメージ、昔あったと思うんですよ。それは単なる時計代わりって意味だったり、語弊をおそれず言うと「ヒマな主婦が見るものだからクオリティなんて二の次」みたいな。それを覆してきたのがゲゲゲ以降の流れで、その甲斐あってキャストも超豪華になってるわけで。
私もそうだけど、この数年でコアな視聴者の朝ドラに対する期待や要求がすごく上がってる中で、今作も豪華キャストに時代劇挑戦、上流階級の女実業家が題材。役者や舞台装置や設定の時点ですごく期待しちゃうのもある意味自然な流れだと思うんよね。で、放送を見ると浅い内容にがっかりぽんなんだけど
仕事(職業モノ)だけじゃなく全体的に掘り下げ浅いよね、踏み込み甘いよね、て大意の批判が多いと思うんだけど、批判に対する批判を見てると、何となく「浅い」のを好ましいと捉えておられるようで。「これ朝ドラ/ホームドラマだから」って、近年の「深い」朝ドラに対するアンチテーゼだったりする?
浅い、深いって表現に語弊があるなら、「シリアス /ハード」か「ライト / カジュアル」って言い換えていいんだけど。
仕事描写いらない、難しいこといらない、業の深さやエゴ剥き出しの対立いらない、朝ドラだから軽く明るく泣けるホームドラマがいい、って。その意見が悪いわけじゃ全然ない。でもそれって、朝ドラというものの価値を底上げしてきたこの5,6年の作品の流れの否定でもあるよね。それが歯がゆくも面白い
(タグ無し承前)視聴率的に大成功の #あさが来た だけど、楽しく見てるけど大満足かというと…? って朝ドラクラスタさんも少なくない感じするのね。そこまで毎作に満点を求めてないしわざわざタグ付けて批判なんてしなくていいし、楽しめるとこ楽しんでツイートするよ、みたいな
#あさが来た の軽みが支持されたことで流れが変わって、ライトな朝ドラが主流になって「ま、いろいろ浅くても朝ドラだからね」ってイメージの存在にまただんだん近づいていくのかな?って思ったりする。それとも豪華キャストが定着して、ライトな脚本で一流&売り出し役者の芝居を楽しむ枠になるか
特に今作から朝ドラを見てる方が過去作と比較した意見を嫌気されるのはすごくわかるんだけど、朝ドラってやっぱり大河と並んで「枠」が強い存在で、特にtwitterのタグには作品の視聴者というより枠の視聴者な人間も多いんだよね。
だから個別のツイートとしては過去作品との比較をしてるようでも、実は「枠の流れ(それは時代の流れともある意味リンクする)」みたいなものの中で、個別の作品も、 今放送中の #あさが来た も見てるところがあるんだよね。どっちにせよめんどくさい人種だけどw 枠の視聴者ってそういう存在かと
もちろん、枠の視聴者>作品単体の視聴者 って主張じゃない! どんな見方にも優劣はないよ。とにかくただ、たかがドラマ視聴にもいろんな視点があるので、なんか意地悪で片方をsageるために比較してツイートしてるわけじゃなくて、枠の流れで見てる以上どうしても過去作が出てくるというか。
話逸れた。まだ放送中なので想像だけど、朝ドラってこの5,6年で評価が上がってて、 #あさが来た は一見、その集大成のような豪華キャストや高視聴率なようだけど、実は近年の「深められてきた」朝ドラの流れを否定する作品になるんじゃないかな、これからどうなるのかなっていう興味です。
#あさが来た リアリティないといえばあさの女学校設立の志で、学問がなくて苦しんだ人が一人もいないこのあさ来た世界で涙を流されてもな。足尾銅山のドラマでインテリの言論が理解できない不安を尾野真千子が見事に表していたけど、ああいうシーンがなければあの時代の学問の切実さなどわからない。
>RT ああ『足尾から来た女』…! 久しぶりに当時の感想読んで、内容思い出してぐっときた。蒙昧のつらさ。だからって学んでも簡単に世界は変わらない。それでも人は学ぶ、それだけが希望なんだ。って、簡単にセリフにせずに見事に描いてたなあ。URL
そして、『足尾から来た女』は、私の中で、北村有起哉史上もっとも淫靡な魅力を秘めたクズユッキーヤを拝める作品でもあります。ユッキーヤ in 石川三四郎。機会があればぜひ見てくださいねー! URL
人格者な新次郎さんでもトンチキ妖精な五代さんでもなく、私はクズエロいユッキーヤに萌える人間なのだと。結局そういう話だということでしょうかw
個人的な今日の #あさが来た のフェイバリットな台詞は「11人いる!」ww
>RT うん、面白かったw あさを百人力に思えるから110人って言うとこねw 成澤さんの水増し力ww #あさが来た
ツッコミどころは今日のだと #あさが来た 「担保なしでも」って、あさの場面wここで、「あさ本来の状態(やりたいこと好きなように)」に戻ったw演出。わからんって、それ無理wハラ痛い
>RT 「人の目を見て(信用したら)貸す」と言ってた青くさいあさ→「萬屋さん、担保と事業の成功見込みがなければ貸せません」と言った現実的銀行家あさ→「担保なしで貸しましょう」でが現実的銀行家あさの女子教育への情熱を表す、って過程だよね。#あさが来た
指摘されて考えを改めるのは素晴らしいことだけど、周りから貰った言葉を翌日とかにすぐ使っちゃうから、受け売りっぽく見えるのにいつもモヤっとする...もっとヒロイン自身の言葉として身になってから使って欲しいのだけど、テンポが悪いってなっちゃうのかな。#あさが来た
今日の #あさが来た はまた、視聴者の価値観が引き出されるとても興味深い回だった(いや私はモヤってますが)。個人的に、母娘関係がーとか、妊娠中や産後の女性は―とか、仕事と家庭の両立は―、的な回で喧々諤々になるTLよりずっと面白いなーと感じる。
でも作り手は、母娘関係や妊娠出産、仕事と家庭の両立の話等は視聴者の喧々諤々を期待して作ってそうだけど、今日のような回がTLに物議を醸すのを想定して無さそうだなと思う。個人的に #あさが来た へのモヤモヤが集約されるとこ。女性を応援する気で作ってるけど突き詰められてないんよね
仕事する女って幼稚でアホなんだな、と思わせるような短絡的な失敗の後で、ええかっこしいの無責任夫がさも理解のあるような言葉を二言三言かけて美味しいところを持っていく、まさかこのパターンをこんな中年夫婦になっても続けるとは思いませんでした #あさが来た
あとあさが加野屋で商売を学んで戦力になったきっかけは、維新で店が経営危機になったことであり、にもかかわらず夫がフラフラ遊びまわってロクに仕事をしなかったからなんですが、それでもやりたいことをさせてくれた光源氏ありがとう、なんつって夫に感謝するんですねえ #あさが来た
学問をつけた女や手に職つけた女は自分の頭で考えるようになるし、夫や婚家に仕えるプライオリティが下がる。まあ現在の未婚化少子化はこの帰結だともいえるわけで、古い価値観からすりゃ生意気なことでしょう。それでも教育を受けて自立心を養う必要があると思ったから女子大つくるんだよね?
新次郎はあさの仕事に理解があったわけではなく、余計なことを言うのを口むぎゅして抑えたり一緒に炭坑にも来てくれなかったし、もっといえばあさを働かせておけば自分が責任から逃れられていた部分が大きいので「こんなに妻を働かせてくれる旦那さん理解ある」みたいなのは解せぬ。
あさが初めて目に見える障壁(女子教育への無理解)にぶつかってるように感じられたが、結局、理解ある男はんのおかげ?で締められるのが、本当に #あさが来た らしいでんな。
愛嬌があり手は貸さないが働いてる妻に文句を言わないだけで理解ある夫扱いされる新次郎を見てると、女性はどれだけ男性に期待してないんだと思う。女子高生が女性が働くには妻同士で支え合える一夫多妻制がいいと提言したりするのもその一環?同じ人間だから、そこまで特別扱いしなくてもいいと思う。
切り開いた女性じゃなくて引っ張ってくれた男性が一番偉いというのがこのドラマらしいなあ。 #あさが来た
うーん、私は別に新次郎さんを持ち上げてる描写とは思わんなあ。あれで新次郎さんが切れ者って描写もあるなら、少女漫画のスーパーヒーローだけど基本働かない人だし。実際のとこ、支配者層に男性しかいない時代だから、理解者がいなければ道が拓けないのは確か #あさが来た
り手は夫婦どっちが強いか弱いかとかじゃなく「支え合い」として描写してて、実際そう捉えている視聴者も多いんだけどねー。あさ新ってほんとにバランスしてるのかな?てのはいつも疑問。実際TLには新次郎をスーパーヒーロー&理想の夫とみなす人も多い #あさが来た
経験豊かな実業家のあさに「一番の得意先への突撃」なんて浅慮をさせるのもモヤっとするし、工藤や榮三郎に頭を下げたのは公私混同を反省したにしても、それほど強く一途な思いをわかってもらえないことに対する感情表現は別にあってもいいんじゃないかと思うんだよね #あさが来た
女子教育への思いも「誰もが自分のように恵まれた出会いがあるわけじゃないから」ってのは一見理屈なんだけど、#あさが来た の時代を考えれば、でもその大学ってほんとに開かれてる?貧しくても入れる?授業料いくら?女子大に入れてもらえる時点で既に超恵まれているのでは?とか思っちゃうんだよな
で、九転十起で粉骨砕身してきた(という設定らしい)あさだけど、「もうおばさんだからほんの隅っこの机でいいの」なんだよね。その謙虚さが白岡あささんの美点なんだろうけど、モヤモヤする。こんなに意欲のある人が「おばさんだから遠慮させてもらう」が「柔らかい力」標榜する朝ドラ…#あさが来た
作り手は「ホームドラマ、おもろい夫婦、様々な形の幸せを描く」と言ってるらしいけど、ドラマの冒頭で「『おなごの』柔らかい力」を強調してたし、毎朝紹介される写真は「頑張る『女性』たち」。作り手が女性にフォーカスしてると自然に受け取られる中での数々のアレな女性描写なのよ #あさが来た
女学校を増やす(まだまだ少ないはず)じゃなく女子大学校を作るのは超少数の超エリート養成だと思うが、白岡あささんが語る「誰にでも開かれた教育を」は前者に近い願いに聞こえるし、成澤の「百年・二百年先見据えて」と”ひとつ心”とも捉え難く、#あさが来た らしいふわっとした動機だなと
だもんでこのドラマの白岡あさはサークルを運営するくらいの感覚でオオサカ・スゴイデカイ・キギョウを運営できてしまっているのがボタンのかけ違いの始まりなんだよな
なんかこうなったら広岡浅子さんをベースにするよりも「京都の商家に生まれ、ひょんな事で嫁ぎ先が姉と入れ替わり、姉妹で全く違う人生を送りつつもそれぞれ逞しく幕末明治を生ききった」って話のオリジナルドラマにしてた方が良かった気が。このドラマの広岡さん部分、徹底的に浅すぎる。#あさが来た
花燃ゆ感すごい。見る者置いてきぼりの大演説で相手が大感銘 #あさが来た
主人公の描写が不足しすぎなのを滂沱の涙や大演説で埋め合わせて情熱を表現する空っぽしんどい脚本になってる。波瑠さんはすごく頑張ってるし、啖呵はとても気持ちいいのだけど長口舌にはさすがにキャリアが出るもので、しんどい。演説の中身(脚本)が薄いから言いにくいのもあろうけど #あさが来た
「自分こそがお猿さん」と気づき腹くくってスタンドプレイに徹するの面白かった、口つままれずに最後まで言えたのもすごくよかった。喋ったあとは謝ってたけど。で「失礼なこと言ってたけどもう政府の人間じゃないからOKよ」っていう綾子夫人の謎のフォロー。政府人だったらダメだった?#あさが来た
熱弁のテンションに比して中身「良妻賢母は大事だけど良妻賢母に至る道のために女子大が必要」というロジックは弱すぎませんか? これは史実の浅子さんが残した言葉なのかな。 “相手の言うことを否定しない”が身上の白岡あささん流ロジックかな、という感じはしたけど #あさが来た
朝ドラ初の時代劇、波瑠さんは着付けや所作など大変だったろうし考証も序盤はそこそこ見ごたえあったけど、今やパラレルファンタジーランドなのでこれを「挑戦」と言われてもな。序盤からするとリアリティラインが下がりまくったのは放送開始後の方針転換なのかな?今日の大隈邸の謎感…
今日の内容で全然OKなTL見てると、精神的不倫描写さえなければ花燃ゆも女性視聴者を取り込んで立派に受け容れられたはずだと思える。いや、これはやっぱり朝ドラだから許されるのかな? それとも15分という短時間だからいいのであって45分このクオリティを見るのはつらいのかな
私の中で、「ラブラブ夫婦バージョン(時々マッサン)の花燃ゆ」というイメージに落ち着きそうな女子大設立編。宜ちゃん、空気読まずにがんばってー
@emitemit 漠然としたキラキラ理論で、矛盾や本質を衝かず、うまく物語を転がしているなあと思います。現代でも大卒女子は増えたのに、まだまだ思ったほど社会進出は図れていない状況なので、さらりと流す方向なのかもしれませんね。
@sarara0904 「漠然としたキラキラ理論!」今日も長い熱弁でいろいろごまかしてるなあ、と。女子大で「どんな人が・どんなコストをかけて・何を・何のために」学ぶのか、いろいろフワッとしたままなので、熱弁も上滑りしてしまう。すべてサラリとしているのがあさ来たの美点なのでしょうが
女優の杏「人を苦しめる才能が作家には必要なんです」 作家の残酷性について語る URL→ まぁ、人間揺り動かしてなんぼってところありますからね…
>映画やドラマの脚本も書く人は登場人物全員に愛着がある。しかし誰かが苦しんで嫌な思いをして、それを消化してようやく物語になる。幸せばかりでは物語にならない。愛するキャラクターを千尋の谷に突き落とすような残酷性が作家には必要なんだな、と同作を読んで感じたと語った。うおー
>RT 杏ちゃんは、愛するキャラクターを千尋の谷に突き落とせる作家が書いた朝ドラに出られて本当によかったな、と思いました。
「誰かが苦しんで嫌な思いをして、それを消化してようやく物語になる。幸せばかりでは物語にならない。愛するキャラクターを千尋の谷に突き落とすような残酷性が作家には必要なんだな」読書家らしい杏ちゃんのセリフ。そうだよね、物語って本当にそういうもの。それこそが物語だよね
「ホームドラマに苦労の描写は不要」とか「業やエゴを剥き出しにすれば物語を盛り上げるのは簡単」「苦労する姿がなければ感情移入できないのは貧しい」とか、今作の朝ドラTLでしばしば目にするけど、苦労やエゴを描くにも、安易に盛り上げるためか物語に必要とされる描写かは見れば大体わかるもので
その作品のあらすじに必要だと思われる描写が足りなければそれを良き物語とは思えない。「誰かが苦しんで嫌な思いをして、それを消化してようやく物語になる。幸せばかりでは物語にならない」あさ来たの特に主人公夫婦に物足りない点を杏さんが的確に言ってくれたわー さすが読書家よ
TL見てても思うのは、あさ来たを物足りないと思う人は良き物語を求めてるんじゃないかなーと(時代の退行感はまた別件として)。でもあさ来たが一般的にウケているのを見ると、やっぱり「物語」とはちょっと違う、「朝ドラ的なもの」のニーズがあるんだなーと。朝ドラ視聴者層には。
どシリアスで超ハードモードな物語が良き物語って言ってるわけじゃなくて、優しくふんわりした物語だって名作はたくさんあるんだけど、後者なら後者らしい題材やあらすじや人物造形があるはずなんだよね
「この5,6年で朝ドラの評価が底上げされたのは『朝ドラなのに深い』作品群が放送されたから。あさが来たは一見その集大成のように見えるけど「朝ドラだから(苦労や対立は少なくて)これでいい」的な意見に表れてるように実は逆に『深すぎず軽くて甘い』から好まれてる面が」て一昨日書いたんだけど
「朝ドラなのに深い」っていうのは多分、「良き物語が放送されていた」ってことなんだよね。今よくTLであさ来たと比較されるカーネはまさに「良き物語」だった。で、あさ来たは「良い朝ドラ」。朝ドラは必ずしも「良き物語」が求められてるわけじゃないんだ。と、なんか個人的にすっきりぽん
杏ちゃまありがとう。
良き物語。私たちは苦労というより達成が描かれてないからあさ来たで盛り上がらないんだと思います。前も書いたけど炭鉱買っただけで石炭はあさがザルで選別できるくらいしか出てこないし、売ってもいない。教育についても言説だけで終わる感が。URL
千代と対峙するあさは昨日の大演説よりずっとよかった。やっぱり歌舞伎役者の口上と同じく一人で喋るほうがずっと難しいんだと思う(スピーチの巧い香川照之でも襲名口上は劣るように)。波瑠さんはブワッと激情を表出するのが巧いと思ってたけど今日のだんだん激していくのもよかった #あさが来た
あさが来た、どこが衝撃の展開だかわからんわ。身もふたもない言い方をすれば、安い類型的な展開見せられてがっくりとしただけ。。頬かむりして娘を待ち伏せしたあささんが相変わらず娘から悪態をつかれる、そしてラサールに刺される。そんだけじゃん。#あさが来た
>RT ほんと、これに尽きるな。プラス、どんなときでも忘れない「ここぞという場面での新次郎さんの見せ場」。
ゆうべ「良い物語」と「良い朝ドラ」の違いについてごちのヒロインにして読書家の杏さまに瞠目させられたのだけど、#あさが来た のとことん類型的な作劇と泣き・萌え重視の人物造型は良い物語でなく良い朝ドラなんだよね。今日のような対立や風評や傷害も良い物語の苦労描写とは思えないのだよね…
至極類型的な作劇でピンチに陥る主人公を見て「母と子のコミュニケーションの難しさ大切さ」「いつ何が起こるかわからないから笑顔で別れる」等の至極まっとうな感想を持つ。それが様式美というか、朝ドラはそれでいいんだね。「良い物語」を味わったあとの感覚とは全然違うもので #あさが来た
@flyersuper 長年の伝統枠ですし「良い朝ドラ」のニーズもすごく強いのだろうなと思います。長丁場の枠なのでじっくり長編物語を描くこともできるのですがそれは良い朝ドラにとって最優先事項ではないというか。#あさが来た はそういう感じかなと。カーネはマッサン以上にハードかも…
のぶちゃんが憧れのあさ先生に初対面のとこ、女子っぽくキャーキャー言うわけじゃなく「はわわ・・・!!!////」ってなって声が変に低くなっててオタクっぽさ爆発でたいへん好ましかったです #あさが来た
幸い、「良い物語」+「長編ドラマ」+「時代物」は #真田丸 で見られている今現在ですね。でもとと姉ちゃんは良い物語になるんじゃないかなって脚本の西田さんに期待してる。あれっプロデューサーは誰だったっけ
@mela_verde 妖精とか理想の夫に萌えーってなるよりも(私も萌え萌えするのも好きなのですが)朝ドラでは血の通った登場人物が生々しく生きる様子が見たいなと思ってました。でもそれって朝ドラではむしろ異端なのかなー、と。どうしてもカーネを思い出しちゃいますが・・・
史実浅子さんも史実大隈綾子さんも史実が個性的かつ主体的で「女性の様々な生き方や幸せ応援する」ドラマってなんだろう?って思っちゃいますねえ。共感を得ようとして窮屈にステロタイプに押し込んでる感ある。
それがちょっとしたずれで終わってれば良かったんだけど、実は充分な教育を受けられなかったっていうコンプレックスがとても大きくて、だからこそ娘にも学んで欲しい、女子高等教育も大事だっていうメインストーリーにつながるわけで。いや、だったらそれまでに布石打っとこうよと。
成功してから主人公の仕事描写が減ったのもそうだけど、彼女の場合、良くも悪くも主人公としてのアイデンティティーが仕事で作られてるんで、そのための布石が足りなかったりゆるふわ描写であいまいにするのは、やっぱりなんか違う気がするんだよなー。めんどくても重たくてもそこ大事でしょうという。
加野屋って、事が起こる前になんとかしようって態勢がまるでないよね。逆恨みサトシの前例に何にも学んでないよね。新さんもカッコいいとこ見せるために溜めてないで、もっと前にやる事あったでしょw
>RT これはほんとにそうなんだよねw この辺の描写も大阪有数の大企業っぷりをスケールダウンしているよなあ
#ちかえもん の6話、お初徳兵衛がすばらしかった。小池徹平いい演技するわ?。「あほぼんの皮はかぶってるけど実はできる夫」#あさが来た の新次郎よりも、徹頭徹尾あほぼんな徳兵衛が愛おしいと思う私はやっぱり物語派。あほかわいい「大人は汚い」の果ての「惚れ直したで」にじわっときた
15分が長い #あさが来た 。なかなか終わらない… 玉木さん演技うまい。小芝さん演技うまい。成瀬先生の太もも☆
黒田屋が芝居小屋を作って #ちかえもん を引き抜こうとしていたのは対・平野屋だけの行為じゃなくて、「○○な筋が好みです」語りや、盗み聞きした内容を「猿芝居」と称するように、彼は彼で物語の力ってのものを思い知っていて自分の目的のために使おうとしてるんだろうな
「誇りを踏みにじられ屈服させられる姿が最高」と黒田屋。曽根崎心中はその対極になるんだろうな。お初徳兵衛の心中の道行きは、人間の主体性の極致。尊厳を守って2人は己の道をゆく。もちろん物語の中の話。この世では成就しない悲しみが物語に昇華されてゆく #ちかえもん
なりは遊女や商人だけど仇討ちを孝行と思いさだめて息苦しく生きる人々。無二の友を隔てる深い溝。赤穂浪士を称える人々。脚本は、孝行を時の政権が称揚していることにも触れている。現世のシステムに縛られざるを得ない人間を、その心を解き放つのが曽根崎心中。#ちかえもん
黒田屋にもきっと、ままならない現実があったのだろうな。そこで彼は憎悪や復讐、嗜虐のほうに向かってしまう。そのために現世で商人として成功し、物語の力を悪用しようとする。現実には冴えないスランプ作家の #ちかえもん は、ままならない現実を見たうえで物語のホワイトマジックを使うんだ
政権に称揚される孝行に物語性を与えて人を熱狂させ涙させる仇討ち。出世景清もそのひとつだし赤穂浪士はそれを華々しく現実にした。でも現実の仇討ちは不孝だと4話か5話で既に近松は気づいてたよね。初手から不孝糖を背負って登場した万吉はいったい何者? #ちかえもん
「民主主義国家が戦争をするには民衆の熱狂が必要で、民衆を扇動し熱狂に導くのは政権だけじゃない。メディアや芸能人や芸術家も動員されるのだが、彼らは強制されるのではない。彼らや民衆、政府は互いに刺激し合い、相乗効果によって熱狂は巨大化し、戦争に突入していく。」って最近読んだ
物語の力は本当に侮れないんだよね。人心をいかようにも導いていける。だからこそ物語はホワイトマジックとして使わなきゃいけない。エルサレムで演説した「壁と卵」然り、村上春樹もそういうことをずっと言ってるけど。
#あさが来た を見てて、これは良い物語じゃなく良い朝ドラなんだと思えばそれでいい気もするんだけど、それでもモヤモヤする心の底には、作り手の意識か無意識か知らないが、この類型的な作劇がホワイトマジックの顔して実は視聴者を古くよろしくない型に嵌めてる気がするからなんだろうな
あ、ここであさちゃんを怒らないよという展開のために昨日理不尽に怒ったのか…そうなのか…(呆れ)
「女遊びと見せかけてはつ探し」「フラフラ飲みに出かけると見せかけて惣兵衛と打ち合わせ」の頃から新次郎のメンタルは変わってない。新次郎は、「あさを振り回しつつも陰で善行をする自分」が好きなのだ。だから新次郎は、あさを叱って黙らせた後で萬屋を撃退するのだ。 #あさが来た
というか、「萬屋が変な噂を振りまいていてあさの身が危険だから奥に引っ込んでいなさい」と新次郎が伝えていたらあさが千代にあんなキツく当たることはなかったろう。だから昨日の展開はああいう筋立てだったのだ。展開のための展開感に血の通ってなさを感じてしまう… #あさが来た
なんか、刺殺未遂って大事にしないと親子修復出来ないほど、千代との関係って修復不可能とも思えなかったので、なんか色々安易に事が進むのが不満かな。きちんと話し合う方向では、解決策がなかったのか。#あさが来た
>RT そう、一見ドラマチックな展開だし役者の芝居を堪能はできるんだけど、安易な脚本なんだよね…そしていつでも大事なことをきちんと話し合わない展開なのにドラマチックで視聴者を感動させるって、登場人物に対しても、視聴者に対しても、作り手として不誠実だなと思う #あさが来た
今、あさが来たと真田丸とちかえもんを見比べ、また「私を離さないで」の感想をTLで読んでると、あさ来たの「物語の力」の使い方がいかによろしくないかってのを感じるな。まあそれは結局、まんま作り手の限界であり力量の差ともいえるんだけど、良き物語じゃない物語も力を持つからモヤる
松平氏とミヤネ屋がどういう経緯で出演することになったかは知る由もないけど、 #あさが来た の作り手の意識に触れた気がして何となく納得だな
#あさが来た 以前に大手社会科学系出版社の営業さんがしみじみと「成功した経営者って、教育かスピリチュアリズムかどっちかにいきますよねぇ…なんでだろう」と言ってて、妙に納得したことがあって。で、あささんは教育の方にいった。(続)
#あさが来た (承前)なんで成功した経営者が教育かスピリチュアリズムにいくのか、今日何となく分かったと思う。彼らはみな自分は巡り合わせが良く、運が良かったと思っていて、その巡り合わせをあささんみたいに下の世代に返そうとするか、神の配剤、運の良さについて深く考えようとするんだ。
>RT このツイート、ほんと「なるほど」って思った。成功した経営者は自分の運の良さについて深く考えるから、教育かスピリチュアルに向かう・・・・
あさ来たってとことん類型的な作劇だから、必然的に「ここがよかった」「こう思った」な感想も類型的になりがちな中で、このツイートがすごく輝いてて、受け手が物語を深くするってあるんだなと思った
小芝風花ちゃんってとてもうまい。玉木宏もやっぱりうまい。玉木さんの新次郎は中年以降のほうがハマってる気がするな、軽みがあっても落ち着いた演技というか。10代の娘がいてもまったく不思議の無い雰囲気。波瑠さんは千代ちゃんとの言い争いのシーンがすごくよかった。大隈邸での演説は、とてもがんばってるんだけどがんばってるなーと感じちゃう時点でがんばってるね、って感じの感想になっちゃう。まあ脚本の問題も大いにあるんだけど。
毎日見て毎日思うところ感じるところをとりあえず言葉にする。という作業を何か月も続けていると、だんだん見えてくるものがあります。とある1つのドラマを見ていいなとか嫌だなとかいう自分の感じ方、その底に何があるか。何とつなげて考えているか。みんなそうだと思うけど「今のこの社会」について普段から無意識にでも自分なりに感じてる、個人のいろいろな経験やニュース等を通じて。その中で私は、特に子どもが生まれてから「物語の力」って何なのか、いろんな場面やいろんな物語を通じてぼんやり考え続けてる。「今のこの社会」と「物語の力」を考えること、その延長線上で「あさが来た」を見てるって思う。
ブログを振り返ってみると、5週目くらいからこのドラマについて違和感を覚えてる。その直感が先入観になった部分もあっただろうけど、20週まできた今、やっぱりあの違和感どおりのドラマが続いてるなってかんじ。