『ハブテトル ハブテトラン』 中島京子

ハブテトル ハブテトラン (ポプラ文庫)

ハブテトル ハブテトラン (ポプラ文庫)

『小さいおうち』がドスのきいた小説だったんで、小5の男の子が主人公といっても、さぞかし胸に突き刺さる物語が展開されるのだろうと覚悟して読んだら、存外にすらすらと読みやすい小説だった。なだらかなカーブが続く、って感じ。実際、物語の舞台も瀬戸内の海辺だった。同じ海辺にたとえるなら、てっきり日本海の荒波をイメージしていた。

だもんだから、さらさらと読み進めてゆく途中、若干パンチが足りないような・・・?とすら思ったのだけれど、読後、主人公世代に向けて書かれた正真正銘の児童文学であると知って、「これでいーのだ!」とバカボン状態に。

都会の学校生活に疲れた子が、おじいちゃんおばあちゃんの里で暮らすという、いわゆる「エスケープもの」なのだ。苦しさ・生きづらさを強調するのではなく、むしろ軽妙な雰囲気を作ったのは当然、作者の意図だろうし、そのあたたかさにホッとする。

「ハブテトル」とは方言で(実在するのかな?)、作中、ハセガワさんが「東京の言葉じゃったら、ぶんむくれる、かのう」と説明するのだが、読み終えてタイトルに立ち返って思うに、「子どもにはじゅうぶんにハブテる権利があるなあ。子どもをちゃんとハブテさせるのは大人の役目だなあ」と。あ、活用間違えてますかね?

主人公の大輔も、クラスメートだったサノタマミも、東京の学校では頑張り続けることを要求されて、ハブテられずに、呼吸困難になってしまった。2人は、広島の松永に、今治にと、瀬戸内の穏やかな海を挟んだ町にそれぞれエスケープして、ハブテる権利を得る。といっても、閉じこもるとかグレるとかいう大げさなことじゃなく、のびのびと息をして、その時々の状況で“ぶんむくれた”ときに、周りの人間がちゃんと「何、ハブテとるん」と気づいて声をかけてくれるだけだ。松永でのクラスメートになった女の子「オザヒロ」も、恋心を抱く大輔に対しては年中ハブテとるような女の子で、それが何とも可愛い。多感な時期に多感な思いを持つ子どもというのは、概してハブテるものなんである。

前述、はじめに大輔に「何、ハブテトル?」と声をかけるハセガワさんというジイさんがとにかく魅力的で、冒頭、彼が登場した時から読者は物語に惹きつけられる。彼の過去はのちに明かされるのだが、彼が特に活躍したり、反対に大問題を起こしたり、大輔に特別な愛情をかけたりしないのが、また、いい。特別な特技や、情け深さや、そういうものがなくても、松永の大人たちはハセガワさんを自然に受け容れて共にある。その様子が、東京で自らの居場所を失った大輔に、肯定感をもたらし、エネルギーを充填させていく。

なだらかな起伏の物語といっても、会話や地の文(大輔の一人称)のユニークさが、さすが! こういうのってセンスだよなーと思う。

「怒らにゃいけんときと、怒らんでもええときと、先生も頭を使って、区別しとるんです。いちいち怒っとったら、血圧が上がってしまいます。」

「あんたねえ、星野くん。教師生活20年、私もこれまでいろいろあったんよ。夜通し語ってもええんじゃけど、11歳相手じゃあ、深くはしゃべれんわ。もう、いいかげんにして、はよ、帰りんさい」。

松永で大輔の担任になったオオガキ先生のセリフが、いちいち、面白い。自称「魔女」な先生だけど、この人も、さほどの活躍はない。出番自体、少ない。でも、すごく「先生」してる。サバサバしていて、子どもをスポイルしないし、放任もしない。これぐらい普通な先生が、現代では「魔女」レベルなのかもしれんねえ。

比較して、「魔女」の少女時代の同級生である大輔の母は、心配性で、大輔についても先のことをあれこれ思い悩む様子が描かれるんだけど、

「ごめんね、ダイちゃん。こっちでお友だちとうまくやれて、がんばってるのは、ママ、すごくうれしいのよ。とっても、うれしいの。だけど、ついつい、先のこと、考えちゃうの。(中略)。ああ、だめ。ママ、いろんなこと考えて、今夜は眠れそうにないわっ。」
でも、その5分後くらいには軽いいびきが聞こえて、ママは寝ていた。毎日、仕事が忙しくて疲れてたんだろう。

この、ウェットなんだかドライなんだか分からなくなる軽妙さが、いいでしょ。「仕事が忙しくて疲れてたんだろう」の地の文は、大輔自身の目線なんだよね。小5ともなると、リアルにこういう冷静さもあるんだろうなと思う。

セガワさんでは、

「相手は、女じゃったのう?」
「男と女では、違うの?」
「あたりまえじゃ。全然違うとる」
「女だったら?」
「でゃーすけ、いますぐ行ったほうがええ」
「え?」
「今日行きゃあ、合える。『車が壊れたけえ、行けんようになった。来週にする』いうたら、女じゃったら、来週は、会えん」
「ほんと?」
「それが、おんないうもんじゃ」

のくだりが好き。ここが、ほとんど唯一、ハセガワさんが鋭さを見せるとこなんである。

最後に東京に戻ることを決めるにあたって、「がんばろう」というよりも、また何かあったら松永に来ればいい、「なにかの中に閉じ込められて、息ができなくなった気がしてたけど、気が付いたら穴がぷすぷす開いてたみたいな感じ。」と表現したのもよかったのだが、何より「パパとママと離れているのがもう限界だった」という一文にはぐっときてしまった。作中、一人称で語る大輔は、それまでまったく淋しさについて触れていなかったのだ。瀬戸内の穏やかな海風に吹かれてのんびり気ままに過ごしていたようで、本当にがんばっていたんだね。としんみりする。