『ユタとふしぎな仲間たち』 三浦哲郎

『忍ぶ川』の三浦哲郎の作。20代の初めに読んだ『忍ぶ川』には当時けっこう思い入れがあって、どこかに感想を書いたと思うのだがネットの大海の藻屑と消えたのか見つかりませぬ。 
ユタとふしぎな仲間たち (新潮文庫)

ユタとふしぎな仲間たち (新潮文庫)

 

 

さて、『ユタとふしぎな仲間たち』初出は昭和46年とあるから高度経済成長の終わりの頃か。東京育ちの少年がわけあって田舎に移り、そこで“何か”の力を借りながら意思を育て、ひと皮むける。という、いわゆる成長譚。

読んでいてまず「おっ」と思ったのは、主人公の勇太が母と東京を離れて東北の村に移住してきた理由。ぱっと思いつく限り、00年代に発表された『西の魔女が死んだ』や『ハブテトル ハブテトラン』などでは、主人公自身の問題での移住(またはエスケープ)である。いじめだったり、もっと漠然としたものだったり。勇太の場合は、自己都合ではない、ある意味、もっと覆しようのない残酷な理由だ。それが、40数年前、昭和のお話っぽいなあと思う一方で、むしろ2010年代には再び親和性が高くなっているような気もする。

ただ、物語はほとんど湿っぽくならない。勇太も、母親も、泣いたりふさぎ込んだりする様子は見られず、むしろ淡々としているようだ。でも、いま、親になった立場で読むと、それがなおさら胸が痛く、「だからといって平気なわけではない。というか、抱えきれないものを抱えているとこんなふうになる」ってこと、子どもにはあるよね。。。と思ったりもする。

勇太の母親が物語にあまり入ってこないところから見ても、親にできることなんてたかが知れているんだよね、きっと。子どもは親の知らないところで成長していくんだよね。

で、ユタが出会う仲間たちというのが「座敷わらし」で、東北らしい設定だし途中までは何の謎も影も感じず、ごくごくニュートラルな気持ちで読んでいて、ただこの子たちがいつも湿ったおむつをしていて臭っている、という設定がちょっと引っかかっていた。そうしたら・・・。やがて明かされる話に衝撃を受ける。そして作者の来歴を思い出して納得する。

勇太が「ワダワダ、アゲロジャ、ガカイ!」と勇太が大声で叫ぶシーンで涙があふれて止まらなかった。
物語は最後までウェットにはならないのだ。シビアな現実も残酷な歴史も、淡々と、どこか素朴にユーモラスに描かれる。それがかえって深い余韻になる。人間世界の哀しさ、命のはかなさを感じもするのだけど、それを超えて「不思議」を思った。勇太の成長さえ、この物語では大したカタルシスにしていないように感じる。喜びも、悲しみも、私たちは「ふしぎ」の世界に生きている。