葉月の十四 / 宇多田ヒカル

●8月某日: これはあれですかね、夏の疲れってやつですかね。いったん少し涼しくなってからの暑さが、だるい。だるーい。今週、なんにも予定ないなーって思うんだけど、人と約束するのも、なんか面倒に感じる。そういう時期もあるよねってことで…。サクを自転車に乗せて、近所の川の川沿いを延々と走ってみる。支流から本流へ至ると、「大きくなったー」。自転車を停めて、階段を下りて、川沿いの遊歩道を歩く。橋の下も歩けるようになっていて、ちょっと面白い。宮本常一「忘れられた日本人」の中の「土佐源氏」を思い出して、読みたくなった。

ことがことなので、あんまりつぶやいたりRTするのもどうか、と思ってやめといたんだけど。宇多田ヒカルが、母の死に関してコメントを出したのには、驚いたけど、やっぱりかーとも思った。結婚したとき、離婚したとき、活動を休止するとき。節目節目で、いつもサイトに文章をUPしてきたからだ。とはいえ、今回は、自分のことではなく肉親の死についてで、しかも、どんなにかショックを受けている段階か知れず、マスコミや世間への対応なんてそんなもの考えなくていいよ!と思っているファンや一般人も多数だと思うんだけど、それでも、自分の言葉で説明することを彼女は選んだ。愛情と、悲しみと、そして知性にあふれた文章だった。確かにもう30歳だから立派な大人の年齢なのだけれど、もっと若いころから、彼女ほど知的なアーティストもそうそういない、と感じてきた。知識とか学力とかっていうんじゃなくて、なんか、考え方がすごく深いし、自分をも含めて、物事を客観的に見てる感じがする。

きっとそうならざるを得なかったんだろうな、と昔から感じてた。家庭環境の話なんかも、本人がちょこちょこ話すのを何度か聞いたことあったし。でも、そういう環境でも、知性なんてものに走らない子だってたくさんいる。豊かな感受性に恵まれていて、なおかつ、波乱万丈な育ち方をしたら、感情にまかせて突き進む生き方になるほうが自然な気がする。けれど彼女はそうならなかった。彼女の詞や文章を読むと、何ごとも、感じるだけじゃなくて考えたり客観的に分析したりする人なんだな、といつも思ってた。(意識的にか、無意識にかはわからないけど)感情をコントロールしたり、困難な問題に立ち向かったりするためには、考えて真実をつかむことが必要なんだと、そういうふうに生きてきた人なんじゃないかなと。なんか、うまく言えないけど、たぐいまれな感性や表現力は、DNAが…天が彼女に与えたギフトなんじゃないかと思う、そして、感性を暴走させない知性、思考力は、彼女が自分で手に入れた、何にも代えがたい武器なんじゃないかと思う。