『焚火の終わり(上・下)』 宮本輝

焚火の終わり〈上〉 (集英社文庫)

焚火の終わり〈上〉 (集英社文庫)

(あれ?装丁が新装版になってるな) これはすごいです。作者の筆力に(そして官能的な展開にw)押されてぐいぐい読み進んでいったら、ラスト、とんでもない梯子外しにあいますw

物語の冒頭から「異母兄妹として育ってきたふたりは、本当に兄妹なのか?」という謎を提示して、さまざまなアイテムや情報が登場し錯綜しては「ああでもない、こうでもない」と読者を翻弄。どんな形であれ、最後は当然、答えが示されると思いますよね。ないです。ないんです。尻切れトンボです。しかも新たな謎人物が出てきて終わります。

ミステリーファンにとっては噴飯もの、おしぼりを投げてミソカスに貶す人がいておかしくありません。ただし文学寄りの読者なら「こういうことは往々にしてある。謎を明かさないこと、読者の想像にまかせることで、より物語は広がりをもち、余韻を残すのだ」と一応の納得をするところではあります。日本で一番人気のある村上春樹の小説群だって、そういうもんですもんね。

私は読み終わってから、再度、最初に戻ってパラパラめくったり、あれこれ考えをめぐらせてみまして。

余韻や広がりのために答えを提示しないとしても、仄めかし…というか、作者の中では一応の答えがあるもので、随所にちりばめられた謎解きのためのアイテムや情報は、その答えありきで書かれているものに違いない、と思うじゃないですか。そうでないと、小説自体が破たんしちゃうもん。注意深く、慎重に拾って組み立てていけば、答えに近づけるんじゃないかと。

でも、ダメなんです。あっちの仮説ではこっちが立たず、こっちの仮説ではあっちが立たず…てことに、どうしても、なるんです。最終的に、私としては「こうじゃないのかな? これなら、ありうるかも」って説に落ち着いてるんですが、それだって、かなり大胆な(小説からはエビデンスのとれない)仮説を含んでいます。ちなみにその説によると二人は兄妹ではありません。いとこなんじゃないかと。

何であれとにかくふたりは真実を知る由もなく、また知ろうとすることもやめて、新しい生活へ踏み出していく。であれば、次に思うのは、「作者はなぜ、ふたりにも、読者にも真実を明かさなかったのか? 真実が藪の中のまま終わることによって、読者にもたらされるものは何か?」ということ。これがまた、ひどく難しくて。混乱だよ。もたらされるものは混乱だよ!て言いたくなる。

彼らの父母たちを含む4人だか、5人だか6人だかすら結局わからなくなってしまった複数の男女が乱交に及んでいたのは事実だったようである。兄妹じゃないかもしれないけど兄妹かもしれない。だけど心も体も深く結ばれたふたり。子どもだけは絶対に作ってはいけないと、妹は物語の途中、病院で避妊器具を体内に挿入する処置を受けるのだが、それでも怖いので、ついには避妊手術を受ける決意をする(ことを兄には打ち明けずにいる…という段階で物語は終わる)。どちらも仕事の能力の高い兄妹だったけれど、安定した勤め先を辞めて、自己資金で田舎に旅館をひらく。

これを、ハッピーエンドととる人もいるかもしれない。不幸だと、呪われていると思う人もいるだろう。体の相性って大事よね、とかね。

それらのすべてから等距離を保ち、とにかく物語を開放して提示してると思う。どうとでも、とれるように。どうとでもとれることをよるべなく感じることも、「どうして答えがないんだ!」と怒ることも、勝手に自分で答えを出して疑わないことも自由。けっこう冷徹だなと思う。

私が思うには。

倫理と不倫(単なる浮気…でなく、広義の意味での不倫)、善と悪、さまざまな二項に境界線は存在するのか、その判断を問われているような。

近親相姦、乱交、同性愛、売春、不倫(狭義の意味での)。さまざまな性愛の形が登場し、執拗に描写される。一般に「インモラル」とされるものだ。けれど彼らにはさまざまな背景がある。生得的にそのような性向のあった人。生まれや育ちの問題…。

一方で、一般に「まっとう」とされるものは、どうなのか。体を重ねるうち兄妹は仕事を辞めてしまう。とんでもない頽廃に思える。けれど兄の仕事は大手ゼネコン。自然を破壊し、地元を蹂躙することもある。むろん出世の駆け引き等もある。きちんと仕事をこなしそれなりに重用されていた兄だが、辞めるとなると替わりはいくらでもいる。妹の仕事は京都の呉服屋。得意先はお金持ちばかりだが、彼らの金銭感覚はあまりに一般人からかけ離れたもので、妹はその虚業の気配に堪えられなくなる。

終盤、兄妹がふたりで始める小さな旅館は、部屋も食もとびきり趣味が良いものでそろえてある。そもそも接客業なのだから、彼らは外界に対して心を閉ざすのではない。むしろ開くのだ。実際、地元のゴルフ場等と提携したプランも作るし、開業までには、かつての上司や同僚、友人たちが心づくしの協力を見せ、今後も付き合いの続くことが示唆されている。

ただ同時に、彼らは体を重ね続ける。兄妹なのかどうか、もはや真実を突きとめることを放棄して、ふたりで体を重ね続ける決意をしている(ただし前述のとおり子どもを絶対に作らないよう処置している)。

これは、非道徳なのか。彼らは堕ちていったのか。かわいそうなのか。何が正しく、何が間違っていることなのか。読者は問われる。混乱する。

読者に問いつつ、混乱に陥れつつも、作者は、どこか兄妹に光を充てていると思う。心からの情愛で体を重ねるに至る兄妹は、その背徳にみちた行為にのめりこんでいきながらも、決して清潔感を失わないのだ。

生まれる前という如何ともしがたい過去を、知ることではなく、拒むことも選択肢であるということ。だからといってすべてがクリーンになるわけじゃない(避妊手術を施すこと等…)けれど、兄妹たちは物語ラストで新鮮な魚に舌鼓をうち、明るい道を歩く。それが許されないわけが、どこにあろうか、と。それが作者の目線だと思う。「父たちより」という手紙の、どうしようもない気味の悪さ。けれどそれを主人公は力と誇りに変える。暗さから逃れられなかった父たちの切実な祈りを受け止めたのだ。

執筆途中で神戸の震災が起きたため、ストーリーを変更したという話がそこここで聞かれる(主にネット上でだけど)。それもなんとなくわかる。もしかしたら、用意していた何か救いようのない真実を開陳するのがしのびなくなって、攪乱するような筋に変えたのかもしれないなと思う。茂樹の母が遺したノートとか、焼身自殺とか、そもそも兄妹での焚火という小道具自体、あまりにも禍々しいものだ。

それらすべてを引き取って、今ある生すべてを肯定する方に向かったのかな、という気がする。肯定する方に向かいたかったのかな、と。

大学時代に初期の作品をよく読んでいた作者だ。近作にはどうも評価のさだまらないところがあり、この小説も、名作かと問われると「うーん…」と言葉に詰まるところだが、作者の迷いというか歯切れの悪いところも含めて、面白く読んだ。根底の貧しさと、現在のプチブルぶりは、かつての『海岸列車』を思い出させる。貧しさも、富裕も、夜の祇園のような華やかさや虚飾も、マイノリティも、美食も、エロも、外国の息吹も、恋人たちの会話や絡みも、すべてをそれらしく描けるのはこの人の強みだなあと再確認。個人的に、主人公兄妹がやたらと酒を飲んでぐだぐだして、睡眠不足だったり二日酔いだったりするまま仕事をするような描写がとても好きだww