マナーの通じていくところ

友人Mから連絡あり。共通の友達であるA子に結婚のお祝いを送ったのだが、なんらレスポンスがないとのこと。

年始の挨拶に結婚の報告を受けたのは、私も友人Mも同様である。

結婚に対するスタンスは、そのお披露目、報告の方法も含めて人それぞれだと思っている。ポリシーの問題であり、時には家族の事情の問題でもある。

これまでの付き合いを思えば、ハガキ一枚の事後報告に一抹の淋しさを感じなかったわけでもないが、もちろん、おめでとう、という思いが最初で、最大だった。だから私もお祝いを送った。

こういうときのマナーって一定の常識になっているのだろう、これまで首をかしげる思いをしたことはない。

つまり、お祝いを受け取ったら、まず一報を入れる。より丁重なのは筆をとることだろうが、まあ親しい仲では電話で十分だと思う。メールってのは微妙なところで、まあ昨今では、むしろ電話よりメールのほうがありがたい、という人もいるようなので、そこは相手の見極めが必要なのかもしれない。ただしメールを送るにしても、「あ、これ一斉送信してるのね」的な、万人に使っていそうなフォーマットの文面では、もちろん失礼にあたる。お祝いをするって、それだけで、ひと手間かけてるわけですからね。

ともかく、相手との間柄や、もちろんお祝いの金額やスケールの大小にかかわらず、「as soon as possible」で「届いたよ! ありがとう!」と一報を入れることが礼儀ではないですかね*1

その一言さえあれば、送った側とすれば、とにかく安心して、内祝いの品が届くのが1ヶ月後だろうと2ヶ月後だろうとたいして気にしないし、むしろ、それがなかったとしても、付き合いへの影響はあまりない気がする。いや…2〜3000円の品ならともかく(そういうときは、渡す側が前もって「お返しは絶対いらないからね」と固辞するものだと思う)、それ以上であれば、やっぱり、お返しはするよね。普通。

しょっちゅう会っている仲ならともかく、日ごろの付き合いが間遠になりがちな間柄であればあるほど、こういうときに礼を尽くしてもらえることは、細く長いつきあいの何よりの拠りどころになる。逆に、時々しかないこういう機会に非礼を受けた、と感じると、時々しかない付き合いまでも今後は考えてしまうのが、人情ってもんではなかろーか。

で、A子の場合はどうだったかというと、「受け取ったよ、ありがとう」の一報は、なかった。

それで、「あれ? 届いてない? もう届いてるよね? そうか…あの子の場合、そういう気遣いはないのか…そうかもな…」などと考えているうちに3週間ほどが経って、いきなり小包が届いた。内祝いということだろう。

小包には、品物が入っており、品物が…ただそれだけが、届けられたのだった。私のお祝いというのも、確かに心ばかりのものではあった。とはいえ、(短いものではあるが)手紙を添え、私なりの祝意を表したつもりだったのだが、そういったことに対するレスポンスは皆無。

や、確かに、モノが「ありがとう」の意味を伝えているのかもしれないけどね。それでも、そんなにも、その一言、そのひと手間をケチるか?! と、正直、思いましたよね。

ま、一応「ありがとう、内祝い受け取ったよ」とメールすると、「こちらこそありがとう」という返信は返ってきましたけど。返ってきましたけど〜〜〜。なんか、これって、すごくイレギュラーな形じゃないでしょうか? ん?

まして、友人Mには、その品物すら、届かなかったというのだ。友人Mは簡易書留で送ったので、返信の無いことをいぶかしみ、とりあえず、郵便局で追跡して、A子が自分からのお祝いを受け取った痕跡は確認したらしい。

聞くと、送った時期は、友人Mより私のほうが1か月近く早かったようだ。とすると、友人Mが送った時期が、A子にとっては悪かったのかもしれないことは考えられる。でも、「近しい身内が突然重い病に…」とかいう、よほどのことでない限り、内祝いの品はともかく、一言のお礼もないって、やっぱり妙だよね?

仕事が忙しいとか、お祝いが各方面から届きすぎて、返礼についての管理ができなくなったとかって、言い訳にはならないよね? 仕事なら、一日10件の電話やメールがあったって、一両日中には、なんらかのレスポンスをするじゃないですか。それが、お祝いに限ってできないっていう話はないでしょう。披露宴的なもの行わなければ、確かにお祝いは時期を異にしてバラバラと届くものだろう。その分、返礼の手間も煩雑にはなろうが、そこは自分たちが選んだ道じゃないですか。

「『ちゃんと受け取ってもらったかどうかわかんないんだけど』って言ってみてもいいかな。てか、それを言うことは、A子のためにもなるのではなかろーか? あの子のことだから悪気はない気がするけど、非礼だもん」

と、友人Mは言う。さらに話を聞けば、今回に限らず、ここ2年ほどの間に、A子について「はぁ?」と思ったり「ピキーン」とくる件がいくつかあったとのこと。そのひとつは、友人Mの結婚に関わることでもあった。そういう積み重ねによるネガティブな気持ちが、友人Mにはたまっているのだろう。

「お礼くらいあってもいいんじゃない?」と言う権利は、友人Mには当然あると思う。非礼というのも同感である(私に対する返礼でさえ、礼を失するものではないかと思っているくらいだ)。

でも、まあ、こういう「注意」がA子のためになる、ってことは多分ないよね、というのも、私の感想である。

この2,3年、私とA子との付き合いはとても間遠になっている。彼女が私に対し、今までとは明らかに違う距離感で接している、とはっきり感じたのは、私が身ごもってからのことだ。まったく生活環境やパターンの異なる相手とは、(たとえ1年に一度程度であっても)親しく接するに及ばない、と思うようになったのかもしれない。もしかしたら、(そういうのっていつも気をつけてはいるのだけれど)私の「幸せオーラ」が嫌だったのかな、など、当初は私もいろいろ気にしていた。

でも、やがて思うようになった。彼女には「今」が大事で、「過去」にかける手間はないのだと。それが意識的なものにせよ、無意識なものであって手が回らないのにせよ、それが彼女の生き方なんだと。

程度の差はあれ、「今を生きる」「今で精一杯」なのは、みな同じだ。私も、小さい子を育てている現状、自由になる時間も場所もお金も限られているし、それでもなるべく自己否定はしたくないから、浮くかなと思ったり、劣等感をおぼえそうな場所や人からは距離をおくこともある。

そういうことと、「お祝いの返礼をしない」というのは、もちろん次元が違う問題でもあるのだけれど、A子の性格や、私自身が感じ、友人Mからも聞いた昨今の彼女の様子を考え合わせると、結局、A子には、今の付き合い、今の日々が思いきり優先事項であって、古い友人たる私たちに対する思いがないのだ、と結論づけることもできる気がするのだ。

確かにA子には、昔から、常識とかマナーに疎いところがあった。また、感情の起伏が激しいところもあったし、「いくら気乗りしないからって、そんなに露骨な感情表現、するぅ?」と思うところもあった。(もちろん、そんなこと言う私だって欠点の多い人間ですけどね)

一方で、“気乗りしている”ときのA子は、すこぶる快活で愛想がよく、熱心で、気遣いも細やかだったりする。そんな彼女のチャーミングさを愛する人も多く、(きっと誰でもそうだろうが)愛されていることを感じると、さらに素敵に振る舞うようなふしもある。もちろん、そのほかの彼女の長所もたくさん知っている。

私たちよりも新しく、近しく付き合っている間柄の人たちに対しても、彼女が「お礼の一言もない」という非礼を働いているようには、私には思えない。管理しきれず、洩れている人はいるかもしれない。けれど、多少、「この人、年の割に、マナーに詳しくないのね」と疑問をもたれる事態はあっても、「でも、ありがとうの気持ちは伝わったから、まあいいわ」と思われるくらいには、おおむねのところで、ふるまっているのではなかろーか?

私たちに対してそれがなかったのは、甘えか、あるいは反故にしてもかまわないぐらいの友情だと思っているのか。それはわからない。この先、久々に顔を合わせる機会があれば、時が戻って、「んもう、どういうこと?」「ごめんごめん」で済む話で、あるいは彼女のほうからも我々に対するクレームがあり、そんなこんなは水に流して、昔話や近況で大いに盛り上がることもあるかもしれない。そういう機会が近いうちに来る気は、あまりしないのだけど。

どちらにせよ、今のところ、私たちは、彼女の返礼(あるいは無返礼)に対して、「相応の」受け取り方をした。

「こういう非礼を行うことで、A子は、いつか痛い目に合うだろう。その前に、古い友人として釘をさしておくのは、A子自身にも利する」と友人Mは言うが、私たちは、すでに立派な30代だ。

これまでの様子をみても、A子はきっと、今回の件に限らず、いろいろなところでいろいろな人に対して、いろいろな種類の非礼を行ってきているはずだ。

繰り返すが、自分を立派な人間だと思ってるわけじゃない。私もいまだにあちこちで恥ずべき振舞をして後悔しているし、自分では気づいてさえいない愚行もあると思う。

言いたいのは、私たちは、そういう行いに対する報いを、おおむね受けているということだ。

私には私自身の、A子にはA子自身の振舞によって、これまで失ってきたもの、これからも失っていくものがあるということだ。私たちは、それぞれ、自分でそのことを引き受けていくだけだ、ということだ。

A子のことをいうならば、これまでに似たようなことで、古い友人知人に幻滅されたこともあるだろうし、何も言わずに静かに去っていった人もいるだろう。「去ってもかまわない」と思う相手に対して、A子がそういうふうにふるまうのか、あるいは、「あの人、どうして去っていったんだろう」といぶかしむことがあるのかはわからない。あとから気づいてフォローをすることがあるのかどうかもわからない。

わからないけれど、それでも、彼女は、つねに新しい、自分をチャーミングだと愛してくれる人たちを随時更新しながら、今も、それなりに楽しく、時に何かを失いながらも、一生懸命にやっているんだと思う。それはそれでいいのかな、と私には思える。彼女は彼女なりに、自分に責任をとりながら生きているのではないかと。

私は、A子とは、細くてもいいから長く付き合っていきたかった。その思いは今でもある。でも、彼女のふるまいから、同じ思いを感じられない以上、それは無理なことだろう。

この話題の最後に、友人Mに「で、どうするのさ?」と聞くと、「やっぱり(一言言うのは)やめとくわ。時間が経てば、こんなこともどうでもよくなってまた仲良くできるかもしれないけど、いつか痛い目にあえ〜!って、今は思う。」とのこと。

*1:実際に、A子のあとで、まったく別のつながりにあたるB子から、同じように書面で結婚の報告を受けた。すでに入籍を済ませ、挙式は海外で行うとのことだったので、同じように短い手紙を添えてお祝いを送った。B子からは、日をおかずして、まず、お礼のハガキが届き、その後3週間ほど経ってから、内祝いの品が送られてきた。小包には、きれいな便せんが添えてあり、彼女の丁寧な直筆で、改めてのお礼と、送った品について、“小さな息子さんにはこういうふうに、大人はこういうふうに、使ってみてね”という心遣いがしたためられていた