『カーネーション』終わりました

最終週、いちばん泣けたのは木曜日、母親の意識が戻るやいなや慌ただしく仕事に戻っていく娘たちを優しい笑顔で見送ったマリ糸子のモノローグ。娘や従業員らひとりひとりに「おおきに」「おおきに」と礼を言ったあと、「…うちは果報もんです」と続けるのだ。そのフレーズも、ただひと筋、流した涙も、今は亡きたくさんの人々に祝福された、糸子21才、祝言のときのリフレイン。ううっ…(泣)

最終回の1話前で糸子は天に召されてゆきました。なぜかものすごく悲しいという感覚はなく、凪いだ気持ちで見ていた。その不思議な静けさから再び胸がざわめいたのは、最終回が始まって5分、天国の糸子が口をひらいたとき。

「おはようございます。死にました。」

ぶわっ(´;ω;`) と泣き笑い。何だその笑わすでもない普通の口調はー! 画面は青空にとんび。大やけどから疥癬を発したお父ちゃんが、病院帰りのリアカーで見上げていた鳥。何食わぬ態で、糸子は自分の死後5年、娘たちの近況を説明する。案の定、ええ年して引退もせんと働きまくっとる、という話。

泣かんでええ。泣くほどのこと、ちゃう。

自分を懐かしんで涙する娘たちに語りかけるマリ糸子の口調に、このときものすごく、オノマチ糸子のことを思い出した。そして、最終回冒頭、朝ドラ化について話す3姉妹のシーンがリピートされ、その背後で「ええやん。やろやろ」と茶々を入れているマリ糸子の幽霊!でくすりと笑わせといて、

うちはおる。あんたらのそば。空。商店街。心斎橋。緑。光。水の上。ほんでちょっと退屈したらまた、何ぞおもろいもんを探しにいく…

最後のモノローグに、ぐっときた。ぐっときつつ、「言われる前からわかってた」感じもあった。先に逝った親しい人たちのことをいつも思い出し、会話をかわしながら、今を、これからを生きていた糸子。今度は、残っている人たちがそうすべき番なんだろうな、ということを、このすばらしいドラマは、糸子が言葉にする前に伝えてくれていたのだ。

いよいよ平成23年秋、『カーネーション』の第一話。デジタル放送になったテレビの前で見守る車いすの老女(説明はないし、江波杏子ではないが、奈津だ、と視聴者の誰もが思ったであろう)。テレビの中では、大正8年あのときたった一度だけ流れた、チビ糸子とオノマチ糸子による「ふたりの糸子」の歌。そうして椎名林檎の『カーネーション』。うおおおおおなんだこの非の打ちどころのない円環〜〜〜! まさに万感胸に迫る、カーネーション最後の、本当の大団円でありました。


最後の主題歌では、クレジットの隣に糸子の一生がダイジェストで映し出され、ラストを飾ったのは、「小原糸子 尾野真千子」というクレジットだった。じんときたー。

マリ糸子になって以来、オノマチ糸子は、新たに撮った場面はもちろん皆無、回想もほんのちょっとだけだった。最終回くらいはさすがに…と期待したが、あれよあれよというまに「ふたりの糸子」の歌に。寂しい反面、やっぱりな、さすがだな、とも思う。それでこそ「カーネーション」。

前代未聞の交代劇は波紋が大きく、それまで最高の演技を見せていたオノマチの降板のみならず、三姉妹以外の登場人物を一切合財あの世送りにしたことは、視聴者に朝ドラ史上最大の(?)衝撃を与えた*1。東京人たる夏木マリの岸和田弁がどーのこーの*2、演技がどーのこーの、話がいきなりスローペースになっただの、カメラワークに芸術性が失われただの、なんのかんので、最後の1カ月は見なかった人、見るには見たが文句タラタラだった人、ここまできたら惰性で見続けた人もいる。

でも、公式サイトのインタビューで脚本の渡辺あやが言っているとおり、「晩年にこそ、書くべきことがあった」のだと思う。健康で元気、未来のある青春時代の話は無条件に楽しい。三姉妹がモノになるまで育てていく(実際はほとんど放任だが笑)過程は面白い。けれど糸子にはそのあとも長い長い人生があった。72才でブランドを立ち上げてからも、なお20年を生きたのだ。それが蛇足だと、どうしていえるだろう? 

思えばこの物語は、「時が過ぎてゆくこと」について、最初からかなり重点をおいて描いていたように思う。糸子がそれを最初に意識したのは、逃げ込んだはずの神戸で感じた、おじいちゃんおばあちゃんの老い。戻ってきて商店街を歩きながら、糸子が「あの人はすっかりおばさんになって、あの人はおじいちゃんに。うちが大人になる分、まわりは年をとっていくんだな」と思う、印象的なシーンだった。その後も、善作、ハルばあちゃん、千代さん、それぞれの老いが描かれた。一気に老いて死ぬのではなく、年とったなと思ったら、また元気になってよかった、でもやっぱり老いてるんだよね、というように、折れ線を上がったり下がったりしながらだんだん下降していく、そんな老いの描き方がすごいなと思ってた。

これで糸子の老いと死を描かないはずがないじゃないか、て話しなわけです。それも、その老いというのは、夏木マリが気合入れまくりの老けメイクをしてやっと追いつくくらいの、リアルな描写でなければならないわけです*3

百貨店の制服作りとか、善作父ちゃんとのバトルとか、祝言、もちろん周防さん。それぞれのエピソードがもちろん好きだった。でも、そういうときめく瞬間、輝く瞬間は、長い人生の中では、またたく間に過ぎ去っていく。それらの思い出を大事に抱えながら、でも振りかえらず、死の間際までたくましく生き続けて(もちろん時には涙し、人を傷つけもして)、ついには死すらも凌駕した…というのが糸子という人、そういうドラマだったと思う。

1か月もあればマリ糸子にすっかり馴染んでしまって、時折、オノマチ糸子やら周防さんやらを思い出すシーンがあると、本当に胸がしめつけられるような懐かしさを覚えた。長く生きるってそういうことなのかな、と疑似体験させられる、すばらしい演出が数々あった最後の1か月だったよ。

だいたい、椎名林檎の主題歌の“つかみの悪さ”といったらどうだ。いまいちストレートに響いてこない歌詞、これっていうサビの無いメロディ。繊細きわまりないサウンド。これが、わかりやすさ、親しみやすさを身上とする、NHKの朝ドラの歌か?と、当初はこの曲の採用に驚かされたもんだ。でもこれが、反芻すればするほど、沁みてくるのだ。

それに、「カーネーション」というドラマのタイトル。従来の朝ドラなら、ここは直球、「ミシン」とか「だんじり」とかになるところじゃないか。なんだ、カーネーションって。ああ、有名な三姉妹のお母さんだから、母の花ってわけね。娘の大勢のために縁の下の力持ちになった人の話ね。と思ったら、娘時代の糸子、「おばあちゃんが好きなんです。あの花は根性がある。他の洋花と違って、簡単にしおれへん、カビ生えるまで咲いてるって」ときたもんだ。カビ生えるまでって…笑。

その後も、折に触れ、そっとドラマに登場するカーネーションの花。最終週のタイトル「あなたの愛は生きています」という花言葉。輪廻、を意味する「re-in-carnation」の語まで念頭においていたのか?!と驚愕させるラスト…。

主人公の糸子や父親・善作の造形、不倫話はもとより。あ、そういえば、ゲゲゲの向井くんやおひさまの高良くん、梅ちゃんの松坂とーりくんを見ていると、主人公の相方に綾野剛、てキャスティングもすごかったよな。周防さん素敵過ぎて、もはや昔の暴力役・変な役のイメージがなくなってしまったので、忘れてたけど…。

すべてにおいて、挑戦的で、冒険していて、媚びの無い、それが異常なほどに快感なドラマだった。その最大の試みが、マリ糸子が主演した最後の1か月だったんだと思う。少しもおもねらないけど、視聴者の「見る目」を信じて、それに賭けている作り方がすごく好きだった。賛否両論は名作の証。最高のドラマでした*4

*1:最後まで晩年編は蛇足だという意を変えない人も、ネットではたくさん見かけた。作り手のこれだけの熱量と力量をもってしても伝わらないことってあるんだなあ、と悲しい反面、そういう意見が出るのは承知の上で作品の主題を貫く作り手を尊敬した。思うに、晩年イラナイ派は、概して若い人だと思う。はたちやそこらの若いもんには、さすがに老いのなんたるかを想像することすらできないんだろう、それが若さのすばらしさでもある。

*2:もうひとつの晩年イラナイ派は、関西人。夏木マリの岸和田弁が許せないらしい。関西人って関西弁に厳しいよね。九州弁なんて、そんなに上手に演じてもらえることほとんど皆無だよ。夏木マリの岸和田弁と、綾野剛の長崎弁は、どっこいどっこいじゃないかと思うが

*3:という、主役交代の必然性はすごくわかるんだが、どうもすっきりしない部分はある。ドラマ終盤期にNHKはじめいろんなメディアに登場するコシノ三姉妹(出てたのは主に上のふたりか)が、オノマチ糸子についてまったくといっていいほど言及しない。聞き手も、しめし合わせたかのように、オノマチ糸子のことを尋ねない。彼女らのファッションショーや、”最終回をみんなで見る会”でも、夏木マリや新山・川崎・安田らはコシノ姉妹と同席するのに、オノマチの姿はない。まあ、オノマチは単に次の仕事が忙しいのかも知れんが…。オノマチがスタパに出たとき、コシノジュンコが緑のカーネーションを贈ってはいたが…。交代劇について、オノマチさんが若干、正直すぎるコメントをしていたのもあって、何か軋轢があるのかな、と穿ってしまう。この辺、周りがもっとうまくカバーしてほしかったな、というのはある。

*4:一話も逃さず見たぜ! 朝ドラでは初めて!