そして私も妊婦になった
極端な言い方をすると
「結婚してコドモを持つなんて勝ち組のゼイタクだ」
という敵愾心を感じるときさえある。
コドモを連れて移動するのは大変で、体力的にもヘトヘトになってしまうことも多いのだが、
「そんなの好き勝手にやってることだろ」
というような冷たい視線を感じるのである。
いや、実は責めているのではない。
それは数年前の僕が思っていたことだ。
数年前の自分がそう感じて、態度に出していたことだから、切実に分かってしまう。
そして、その「結婚することやコドモを持つことはゼイタク」
という状況にいた自分が、
いじけた反動として「社会的強者をいたわることなど必要ない」
と考えていたことを思い出す。
◆
WEBマガジン幻冬舎 ツレ&貂々のコドモ大人化プロジェクト
その26 「子育てが自然でない社会」より
http://webmagazine.gentosha.co.jp/ture_tenten/vol217_ture_tenten.html
これ、あるよなーって思う。や、まだ子連れで外出したことないけど。
てか産んでもないし。でも、そう思う日は、きっと遠くないはず。
よく、「妊婦、または小さな子連れに優しいのは、
おばさんと、(子どものいる年代の)若い男性だけ」なんていわれるけど、わかる気がする。
若い女性なんて、きっと優しくない。
私だって今までそうだった。文句の言えた義理ではない。
妊婦や赤ちゃん連れの人の肉体的・精神的な大変さ。今なら思いを馳せられるけど。
でも、もっと若い頃・・・20代前半とか、半ばのころは違った。
想像してみたこともなかった。
そもそも、結婚すら考えないころだったから、
妊娠や育児なんて、あまりにも遠い世界の出来事だった。
基本的に生活時間や生活空間が違っていて、目にすることも少ない。
いや、少ないとしても、
たとえば町なかやバスの中なんかにそういう人がいないはずはないんだけど、
そもそも妊娠・出産・育児に興味関心がないから、
視界に入ったとしても、目に留まらないのだ。
その人達に対して想像力をはたらかせることもない。
思いやろうとかいう意識なんて生まれるわけがなかった。
もう少し年をとると、周りにも出産をする人がちらほら出てきて、
自分も赤ちゃんは大好きなんだなーってことがわかってきた。
結婚前から、面白い子育てブログみたいなのも楽しく読んでたし。
自分の子どもができたらどんなにかかわいいだろうなーと思うようになった。
それでも、欲しいと思ってすぐ得られるもんじゃないしね。子どもなんて。
相変わらず、自分は、会社社会で仕事をしてて、まあ自分の生活があって。
それで精一杯でもあるし。それに満足してる部分もあるし。
子育てしててもおかしくない年。
もちろん、してなくたっておかしくも何ともない。
どっちにしても、自分は自分の生活をやってくしかない。
「自分と違う生活」をうらやましく思いすぎると、今の自分の生活が脅かされる。
無意識のうちに、そういう感覚がはたらいてたんじゃないかと思う。
どこかで、「自分とは違う」と距離を置いてた。
自己防衛本能の一種に近い。
子育てをしてる人にはしてる人の、
してない自分のような人にはそれなりの、
それぞれの喜びや大変さが日々あるのは当然で、
それを分かり合えないのも当然。
お互いがお互いの大変さを想像して共有するってのは無理だと思ってた。
てか、たぶん、実際、すごく難しいこと。
こっちがわのことわかってよ。
って求めることは、最初からしない。
でも、そのかわり、そっちがわのことをわかんないのも当然だよね?
極端に言うと、そういう気持ちがあった。たぶん。
ええ、小さい人間ですよ。でも、そんなもんじゃないかなーとも思う。
今、自分が妊娠状態で、仕事もしてて、体のこととか気遣われるととてもありがたい。
自分に経験がなくても、気遣ってくれる人だっている。
もちろん、経験者の気遣いのほうが具体的で親身だったりするけど、
時々ひと言かけてくれたり、ひと手間を代わってくれたりするだけでも、
ほんとにうれしい。
体がラクになるだけじゃなくて、気持ち的にすごく感激する。
逆に、
「あー今つらいんだけどここでは言い出しにくい。がまんしよう」
とかいうこともいろいろあるけど、でもそれってしょうがないよなーとも思う。
自分だってこれまで何にもしてきてないし。
わかりようがなかったし。
自分が妊娠したからっていきなり思いやりを求めはじめるなんて、
ちょっとできない。ムシが良すぎて。
だけど、みんながそうやってそれぞれ割り切ったり我慢したりし続けるのは、
もちろん根本的には、いい状態ではない。
妊娠や育児にかかわらず、こういうことっていっぱいあるんだろうな。
いつもとちょっと違う感じの改行で書いてみました。だいぶイメージ変わるね。