『今日も夫婦やってます』 南Q太

今日も夫婦やってます

今日も夫婦やってます

そういえば、独身時代および子どもができる前、結婚生活および妊娠出産・育児生活についての物語やエッセイってけっこう手にとってたな、と思う。あこがれていたつもりは全然なかったんだけど、意識下で好奇心というか想像をふくらませて楽しんでたんだろうな。その証拠に、そういうの、今はぱったり読んでない。結婚も妊娠も、実態というか、ワンアンドオンリーの自分の場合を体験したら、もう妄想の余地がなくなったんだろう。

この本も、新刊コーナーに平積みしてあったのを記憶している。自分が新婚だったころだ。南Q太は『トラや』なんかを読んで、いいなと思っていた漫画家だった。

手にとってぱらぱらとめくって、Q太さん(註:Q太さん=女性=奥さんです)も男性もお互いに子連れで再婚したことを知った。そして、再婚して2人め、Q太さんの実子としては4人目、夫婦にとっては通算5人目となる子を妊娠中に書かれた文章に、

若い友人にたまたま会ったとき、今回の妊娠のことを告げたら、おめでとう!の言葉のあとに、「よくそういう時間ありましたね」とさらりと言われた。まあ、そう思う気持ちもわかる。わかるが、わかってないよ、と思う。

夫婦のセックスって、ひまだからするんじゃないだろう。時間をつくってするものだ。いたわり合いだもの。

というくだりがあって、なんだか強烈に印象に残っていた。最近行きつけになっている近くの図書館で、この本を見つけたときも、そこんとこがパッと思い出された。それで、なんだか全部読んでみようという気になって、借りたのだ。

そうしたら、再婚当初のふたりの、なんとギスギスしていること。マイペースながらもほんわかとした夫婦+子どもたちの記録だと思っていたら、まさかの「結婚生活とは闘争です」的な本でしたかーーー?!と驚いた。

「どこでどう盛り上がって好きになったんだろう?」「(互いの子どものこともあるし)我慢しあっての生活になることが予想できなかったんだろうか?」なんて、頭をはてなマークでいっぱいにしつつ読んでいってると…いつのまにか、私のかつての記憶のとおり、ふたりは“いたわり合う”夫婦になってた。

Q太さんはサラッとした人。そしてすごく正直な人。本来はひとりで生きていくような人なんじゃないかなって思う。頼るのも頼られるのも性に合わない、というような。私はそんなに強い人間ではないけれど、なんとなく共感してしまう。

それにしても夫婦を実感することがあまりない。普段は全然意識してない。じゃあ夫を何だと思っているのかというと、何だと思っているのだろう。よくわからない。
都合上、夫のことを「夫」と言ったり書いたりし、自分のことを「妻」と言ったり書いたりしている。そのたびになんだかぎこちない感じがいまだにする。子どもを2人つくってもこうだ。夫婦って何だろう。
(中略)でも今日のように、ちょっとしたときに、あ、夫婦なんだと気づいたりする。それはいつも新鮮なうれしさだ。じーんとする。

のあたりなんて、わかるわかるわかる、と超うなずいてしまった。●●さんの妻であり、●●ちゃんの母である。自分をはたから見たら、それ以外の何者でもない、ってくらい、妻や母という枠にぴったりと収まって見えてるんだろうし、自分もふだん、人のことをそういうふうに見てしまっていたりする。もちろん、私たちは妻として母としての日常を送っている。でも、もともとは結婚していなかったころのその人がいたわけで、その人自身にとっては、その「ひとりだったころの私」が出発点なのだ。

そんな、サラッとした人が書いた4人目の出産記録に、私は号泣してしまった。

夫には悪いけど、たぶん人生最後の出産を、私は一人でたっぷりと堪能したかった。

出産に対して、こんな感懐を抱く人も珍しく思うが、その実際の遂行ぶりに、ある種の感動を覚えた。そこには、自己陶酔もセンチメンタルも妙な宗教チックさ(“自然なお産”への偏向も含めて)も何もなく、かといって獣のようでもなく、とにかくむきだしの、強い生命感があった。

そう、生まれてしまえば、次々にいろんな色がつき、親としての煩悩には終わりがないんだけど、出産のときには、こういう「命そのもの」に触れたなあ、その尊さの前に言葉を失ったなあ、と思いだしたのだ。そういう気持ちを、ものすごく鮮明に思い出させてくれる記録だった。

とにかくむきだしの本です。おもしろかった。