『夏目漱石の妻』 1話、2話

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◆第1話




 ハセヒロの「おバカだね」炸裂。「こんなおれなんかのために死のうとするなんて」おバカだね、の意か。

 

◆第2話

冒頭、第1子長女筆子の誕生。奪い合うようにしながら大真面目に初めての子をあやす夫婦がコミカル。第一話で流産が重くのしかかるのを描いただけに、どこにでもあるような家族の幸せがより尊く感じられる。イギリス留学の準備をしながらのいさかいも、夫の気難しさや妻のがさつさが前面に出ていても、本質はどこにでもある夫婦の痴話ゲンカである。鏡子は実家の父の前で「2年も行ってほしくない」とこぼして泣くが、同じ思いは金之助にもあっただろう。鏡子はすぐに次の子を授かっているのだし。

次女を産んだ鏡子からは「良家出身のお嬢さん奥様」な雰囲気がなくなり、生活感を滲ませるようになるが、娘たちと過ごす表情は明るく、これが彼女の幸せなんだとわかる。そこにイギリスでの金之助の不穏な噂がもたらされるとともに、実家の中根家に忍び寄る不吉な影も説明される。夫と実家の両方が彼女を追いつめていくのが第2話の本題で、それが同時に語られ始める脚本。

帰国した金之助がひと目で「何かおかしい」と思わせる風貌で、視聴者をドキリとさせる。あの顔めっちゃ疲れそう。俳優さんすごいね。鏡子の目には「ただただ疲れ切っているだけかな」とも見えたかも…というかそうあってほしいと願っただろう、夫の気難しさは今に始まったことじゃないし、やはり夫に会えてうれしいのだ。そんな「10万円欲しいぞ」の合唱から、すぐに事態さは判明する。幼い娘を殴り妄想を並べ立てる金之助。部屋はめちゃめちゃ、怒鳴り散らしながら女中を引きずり回し、妻も。目は血走り髪はぼさぼさ着物は着崩れ、思い余って振り上げた火鉢の粉が自分にも降り注ぐのは、暴力を振るっている彼自身がボロボロなのだと印象付ける。それでもこんなの、ええ出ていきましょう、ってなる。

孫娘たちの手を引いて帰ってきた娘への父の一言目は「いつまで置いてほしいんだ?」脚本うますぎ・・・! もはや中根家に余裕がないことが如実にわかる一言。白亜の洋館も、白スーツも今は遠く、縁側に距離をおいて座る父と娘。このときの尾野真千子のうつむいた横顔が美しい。もうお嬢さんではない。生活に疲れて、傷ついて、同時に実家に心配をかけて申し訳ないと謝りながら、悲しみを訴えて泣く女。が、父の窮状を聞いて涙も引っ込む。父に暗さはない。「次の一手を考える。おまえもそうしろ」次の一手、の両者の明暗。

鏡子は医師の言葉に吹っ切れて、家に戻る。漱石は相変わらず片眉が吊り上がっている。しかも、台所で包丁を介在したやりとり。怯える娘たちを抱き寄せながら明るく言い聞かせる鏡子。そのまま漱石に向き直り宣言する。悪態をつきながら逃げるように彼が去ると、見る間に眉宇を暗くする。彼女も怖いし、不安なのだ。でも決意したのだ。ハセヒロの圧巻な病的演技に劣らず、オノマチの繊細な演技もすばらしい。

妄想に囚われてヒステリーを起こしたり、出産直後(そう、帰国後も子どもを作ってるのだ!)の鏡子をよそに彼女の実家に米粒のような文字で大量に書いた離縁状を持って行ったり、病気の金之助はパワフルである。そのたび、いちいち真に受けてたら始まらない、というようにいなす鏡子だが・・・

寒い夜、痩せこけた体をくたびれたスーツに包み、すそを濡らしながら父が訪問してくる。家の残金が払えない、というのは嘘で、その家が借家であること、父がまた相場に手を出していることを鏡子は知っている。「私はお父様に甘やかされて育ったからお父様も甘やかしてさしあげたいけど、悔しいけど今の私にはできない」。堕ちた父をではなく、助けてあげられない自分を悔しいと思うのが鏡子の心性で、そんな鏡子を育てたのが裕福で暖かい実家だったことを思うと何とも悲しい場面。

「今も夏目と戦争をしているんです。毎日、飛んでくる玉をどうかわそうかと」 夫の奇行を慣れた様子でいなしていた裏の、妻の苦渋が語られる。鏡子がとうとうと語る間も、「この悲痛も、今の父には本当には響かないのだなあ」と思う。娘の境遇は知った上で来ているのだ、なんたって、あの尋常でない離縁状を金之助に突き付けられて、さほどの時は経っていないのだから(赤子がまだ乳児)。果たして「わかっている、でも」と言い募る父を制して、鏡子は畳に額をつけ、はっきりと「助けられません」と断る。鏡子の、その痛み。

父の去ったあと、金之助が顔を出す。翌日、鏡子の弟であり中根の跡取りを呼ぶ金之助。口調こそ穏やかに始まるが、片眉が上がっているので、鏡子の緊張に視聴者も共感する。不安に反して、「共倒れになるから義父は助けられないが、君と母上のことは私が生きている限り守る」と約束する金之助。1200円という大金は無理でも400円を用立ててやる。1万倍してみると、数字がリアル。

ここに至って「病気ってなんだろう」と思わせる。金之助はすぐさま翌日に金策に走ったのだ。片眉を上げたり、下げたりしながら。ヒステリーを起こし妻への呪詛を吐くかたわら、妻の身内の窮状を思う人間性や、情も見せる。鏡子は子どもたちを抱えながら、そんな夫と、食べたり、寝たり、本を読んだりしながら生活しているのだ。

「これで帰る家がなくなったな」という金之助の言葉は、私には残酷なだけの響きじゃないように思えた。裕福であたたかな名家に育まれた令嬢を妻に迎えた金之助は、妻が実家よりも己を選び、そして貧した妻の実家を己が意思で助けたときに、本当に「自分は妻を得たのだ」と思えたのではないだろうか。そして妻を得るということは、妻の身内という厄介なものを得ることでもある。身内からは金の問題が切り離せない。それが結婚というもので、それを含めて、金之助は夫婦を続けることを選んだのだ。

黒猫の登場と共にドラマのトーンは明るくなる。カメラが黒猫の視点から家の中を動いていく映像の面白さ。無邪気な子供たち。書斎で正座したまま脇息にもたれかかっているハセヒロの「文人の後ろ姿(白い足袋)」、くたびれる生活の合間に按摩を頼み、緊張感のない表情で堪能しているオノマチの表情、ともに最高! 相変わらず調子の悪い金之助は、虚子に言われて文章を書こうとしたとき、猫になってみる。

人間の顔の造作を変なものだといい、書生をクサし、煙草に驚く。泣く人も怒る人も、猫にとっては等しく妙で滑稽で理解できないものである。来客に茶を持つタイミングで、金之助が「ひとつ、大きな声で読んでみてくれ」と言ったのは、暗に鏡子に聞かせたかったのだよね。

喜びも悲しみもしょせん浮世さ、と、これを読んだ当時の人々もみな救われるような思いがしたのかもしれないなあ。扉を隔てて笑い転げる夫婦(扉を隔ててるのがミソよのう!)に泣けてしょうがない。鏡子のこんな笑顔はいつぶりだろうか。金之助はたぶん鏡子の笑顔に惹かれて結婚を決めて、結婚してから彼女の笑顔を奪ったけれど、今、彼の書いたものが鏡子を彼女らしく笑わせている。そして、彼に「吾輩は猫である」を書かせたのは、きっと鏡子。

漱石は孤独に生きてきた(加藤虎之介の子規は、出番が少ないので個性を確立するには至らなかったけどさすがだった)。孤独を拗らせてきた。夏目家でも、熊本でも、ロンドンでも。彼が、「孤独が当然」の黒猫の視点を獲得できたのは、孤独という病根を持つからだけではなく、鏡子という家族を得て、自分には彼女と暮らす家がある、彼女も自分もここにしか家はないという芯からの実感のようなものを得たからじゃないだろうか、それが彼の孤独を黒猫の視点に昇華したんじゃないか、劇中ではそんなふうに描いているのかなと思った。