また書くよ、『走ることについて語るときに僕の語ること』

走ることについて語るときに僕の語ること

走ることについて語るときに僕の語ること

発売以来、何度も読んでたのに、これまでは、
「ランニングが、村上春樹にとってどんなに楽しいか。
 春樹の作家人生にとって、いかに有益で、欠くことのできないものか。
 ランニングによって肉体を向上させることが、彼の小説家としての能力をいかに支えてきたか。」
という視点に重きをおいて読んできたように思う。
もちろん、その読み方も間違ってないとは思うんだけど。

しかし先週末に久しぶりに読み返した私が、このエッセイから感じたのは、
「肉体の『老い』とどう向き合い、受け容れていくか。」
ということだった。

もしかしたら・・・じゃなくても、炯眼の読者なら、あるいは、これを書いたころの春樹さん(50代後半)と年の近い人が読んだら、始めから感じたことなのかもしれない。


春樹のライフワークともいえる「走ること」を通して、彼が初めて「自分の人生」たるところを、真摯に正直に著したのが、この本だ。

でもその中では、「走るのって、こんなに素晴らしいんですよー、健康にもいいですよー、レッツラン! エブリバディ!」なんてことは一つも書いてない。

春樹は(この本を書いた時点で)23年間も走り続け、その間、毎年、最低ひとつのフルマラソンレースを、その調整のためにハーフマラソンや10キロレースなんかもたくさん走ってきた。
フルマラソンを自分の目指すタイムで走りきるために、1ヶ月に300キロ以上(!)走って練習しているらしい。
仕事と家庭(育児とかしてないけど、いちおね)をもっている私なんて、1ヶ月に100キロも走ったら上出来だと思ってるのに。
春樹は、明らかに、市民ランナーレベルでは、かなりの“シリアス・ランナー”だ。

しかし、この著作の中で、そういう「ハードに走る自分」を自慢してるふうな印象も、まったくない。
それは、日本を代表する作家としての春樹が、羞恥心や自意識というものを、巧みな文章で覆い隠しているからだと何となく思ってた。

でも違った。

「こんなにも走り続けて、走ることによって自分を支えてきた村上春樹が、いかにして、走ることに挫折してきたか?」というのが、この本の主眼だった。

確かに、走ることは長い間、彼の作家人生を支えてきたこと、肉体を磨き続けることによって、作家として人間としての精神を磨いてきた、ということも、丁寧に誠実に書かれている。

しかし、どんなに地道で緻密なトレーニングをしても、フルマラソンのタイムが上がらなくなって、ウルトラマラソン(12時間で100キロを走るという過酷なレース)や、トライアスロン(当然、水泳と自転車を含む)、スカッシュなどをやってみたこと、その挑戦や、その過程における苦しみについて、この本では多くの言が割かれている。

『どちらにしても、肉体はいずれ衰え、滅びていく』
こんな言葉が、作中には何度もフレーズを変えて繰り返される。

若い頃、「45歳で『サティスファクション』を歌うなんてありえない」
と豪語していたミック・ジャガーが、60歳を過ぎた今でもその歌を歌っていること。
若い頃、同じコースで練習していたオリンピックのマラソン代表候補選手が、代表選考を待つ前に、交通事故であっけなく亡くなってしまったこと。
50歳を過ぎた春樹のランニング練習を軽く追い越していく、輝かしい将来を背負ったハーバード大学の陸上部の女子新入生たち。
海での泳ぎには子どもの頃から慣れていたのに、トライアスロンのレースに臨んで、パニックによる過呼吸を起こして棄権してしまったこと。

さまざまなエピソードを通じて、彼は自分が拠り所にしてきた「肉体を磨く」世界における、「挫折感」を表現している。

けれど、彼はいつしかそれを受け容れていく。
「肉体はいずれ衰え、滅びていく。そのときには精神もろとも、自分という存在は、消えうせていくのだろう。それはそれで、仕方のないことなのだ。」
というように。

それでも、春樹はまた、真剣に走ることを始める。
「健康で長生きするために走るんじゃない。いつか終わる人生ならば、それが存在している間、できるだけ有意義に過ごしたいからだ。」
というようなこと(せっかくの名文を勝手に要約してすみません・・・)を、彼は書いている。

そして、トライアスロンのバイクには、冗談めかして「18 years 'til die」(死ぬまで18歳)というフレーズのシールを貼り、「自分の墓碑銘には、『少なくとも、最後まで歩かなかった』と刻んでほしい」という最終章で締めくくっている。

そこに至って、読者たる私たちは、起伏に富んできた彼の人生が、新たな側面を迎えても、静かに、しかし希望をもってこれからも続いていくんだ、ということを、そこはかとなく感じて、何かしら励まされたり、温かな、幸福な気持ちになって本を閉じるのである。

この本の再読了後、春樹が2000年シドニーオリンピックを取材して書いた『シドニー!』を、これまたいったい何度目だ!?という再読している。

シドニー! (コアラ純情篇) (文春文庫)

シドニー! (コアラ純情篇) (文春文庫)

シドニー! (ワラビー熱血篇) (文春文庫)

シドニー! (ワラビー熱血篇) (文春文庫)

この本では、彼自身について書かれた前述のエッセイ本よりも、さらに明白に、「挫折」について書かれている。

輝かしいオリンピック、幾多のメダリストを称えながらも、このオリンピックに出場できなかった有森裕子や、あえなく途中棄権した犬伏孝行を中心に据え、「とりあえずの勝負に敗れた人々」について思いを馳せて、その人生の再生に寄り添おうとしているように読める。

『もちろん僕は勝利を愛する、勝利を評価する。でもそれ以上に、深みというものを愛し、評価する。あるときには人は勝つ。あるときには人は負ける。でもそのあとにも、人は延々と生き続けていかなくてはならないのだ。』

そこには希望があり、エルサレム賞の受賞スピーチで、「常に卵の側に立つ」と言った春樹の精神を感じる。それは自らの肉体をとおして獲得した彼の真実なんだろうな、と私は思う。

アイモカワラズ発泡酒飲みながら(そして途中、飲み会帰りの夫を迎えて)のグダグダ文でした。