『白洲次郎』第2話

NHKドラマ『白洲次郎』の公式HPを見ると、プロデューサーの文章が非常に興味深かった。

白洲次郎・正子夫妻の娘、桂子さんにドラマ化のお願いをしたが、「ドラマにならないと思います」と最初はずいぶん難色を示されたらしい。正子には古美術や伝統芸能についての著書が多くあるものの、次郎については、近衛文麿のブレーン・吉田茂の側近として活躍したはずなのだが、いわゆる「黒子」的な仕事が多かったのか、一次資料がほとんど残っていない。生前、本人が重要書類など焼ききってしまったということもあるようだ。

ようやくOKをもらったものの、娘さんは「いわゆるホームドラマにはしないでください。」と言う。白洲一家というのは、お涙頂戴の愁嘆場や分かりやすい愛情表現ではなく、一人ひとりの人格を尊重した毅然とした個人主義、独特の距離感で結ばれていたというのだ。

そこで、今回のドラマでは、白洲次郎の「史実」「実像」を再現するのではなく、取材の中から魅力的な「虚像」を創造し、彼の息吹やダンディズムの一端を感じ取ってもらうことに腐心したらしい。そういえば、ドラマの最後に「この作品は、事実を元にしたフィクションです」という字幕が出ていた。

第2話のみしか見ていないけれど、私に言わせればこの試みは大成功!だったと思う。

たとえば。
前々回、このブログのエントリでも書いたけど、次郎と正子は、喧嘩したり、お互いの本心を打ち明けあったりするとき、なぜか英語で話す。実際にそうだったらしいが、ドラマを作るにあたって、その部分は英語でシナリオを書き、役者に覚えさせ喋らせ、テロップを用意して・・・まぁ日本語でやるより面倒ですよね。もちろん、見ているほうは
「ハァ? なんでこの人ら、日本人同士で、しかも日本で、英語喋りようとや?」
と違和感を覚えるし、疑問も持つわけです。

でも考えてみれば、あの夫妻の本質的な繋がりをあらわすために、選んだ演出なのだろうと思う。喜怒哀楽を過不足なく伝達しあえるほど流暢に英語を喋れるということ、それは、現代とはまったく意味が違う。次郎と正子は戦前にイギリス留学できるほど上流階級の育ちであり、外国の文化や考え方に強く影響されてアイデンティティーを形成した彼らは、戦争へと突き進む日本にあって、まるで異質な存在だったということだ。

そんな二人が共鳴しあったのは不思議じゃない。ふたりは結婚して、3人も子どもを授かるのだが、それでもなお、向いている方向はまるで違う。

次郎は疎開しつつも常に政治の世界をうかがい、しかし思うようにいかない世情や現実に傷つく。正子はいわゆる当時の良妻賢母とも程遠い感覚で、自分をもてあましている。“夫婦だから一心同体”なんていうわけにはいかず、すれ違い、「伝えたい、でも伝えられない」みたいなもどかしいシーンや、正子が気持ちを爆発させるシーンで、ふたりは英語で会話するのだ。

誰にもわかってもらえない、ていう孤独感をそれぞれ抱えた個人と個人が、それでも何かによって結びつき求め合う、その「何か」が、次郎と正子の場合、「英語」、つまり英語を話せるぐらいに当時あまりにも異質なルーツだったってことなんだろう。あんなに違う世界に生きて、別別の方向へ眼差しを向けながらも、なぜ二人がずっと結びつき求め合っていたのか、それをあの英語のシーンの数々は象徴的に表現してたんじゃないかなーと思う。

それから。
40歳を過ぎた次郎に、徴兵の赤紙が来るのだが、知り合いの軍部のお偉いさん(?第2話しかみてないのでイマイチわからないんですが・・・)に頼みに行ってそれを握りつぶしてもらうという印象的なシーンがあった。

お偉いさん(高橋克実さんが演じてた)は、
「お国のためにみんなが出兵していくのに、行きたくないだなんて、恥ずかしくないのか! 私はあんたを見くびっていた」
と激しく次郎を糾弾するのだが、彼は毅然として、
「私は、こんなくだらない戦争にちょっとも自分を差し出したくはない!私の本分はそんなことではありません!」
と言い放つ。しかし一方で、疎開して自給自足をめざす彼に農作業を教えてくれた農家の青年が、「お国のために立派に戦ってきます!」「息子よおめでとう!」と出征し、やがて南方の島で戦死して、遺骸もないまま葬儀が執り行われるというふたつのシーンに、次郎が立ち会うところも、このドラマでは描いている。

愛国主義に疑いをもつことを許されない当時の世の中で、権力に一歩も屈しない、このシーンの次郎はとてもかっこいい。しかし、それが可能だったのは、ある意味、彼が「上流階級」に属し、一説ぶちあげればそれが通じるくらいのツテやコネをもっていたからなのだ。それは果たして本当に正しく、また、称賛すべきことなのか? 見てる私たちは考えずにいられない。

確かに、伊勢谷さんも中谷さんもすばらしく美しく、カメラワークや映像の色彩も凄く凝ってて、見ててうっとりさせるんだけど、見終わったあと「なんかズンとくる・・・」という自分の感覚をちょっと分析してみたら、「次郎さんかっこいい!」「正子さん素敵!」「こんな人が今の日本にいれば・・・」なんて、簡単に割り切れるように作られてはいないことがすぐに分かる。個人のエゴや、また逆に、個人がいくら頑張ったってどうしようもないことを、両方、見せている。実際、テレビの世界でこんな作品ばっかりだったら疲れてしょうがないんだろうけど、でも、こういうドラマをテレビで見られることはすごく意義深いなって思った。ま、NHKなんで、厳密にいうと、お金払って見てるわけですけどね。