剥きだし

仕事してると、いろいろ、あるよね。
と、つくづく感じ入る出来事、今日も有り。

社会人としてはまだまだ若造の部類に入るだろう私、これまでにもさんざん、発展途上らしい、いかにも恥ずかしい自分を仕事の場でさらけ出してきた。

泣いてしまったこともあるし、分をわきまえない発言したり、青くさく反抗したり、奢った態度をとったり、周りが見えてなかったり、年下の人に大人げないふるまいをしたり、飲みすぎたり。
日々、反省すべき点があるものだ。

ただ、年を経れば、落ち着いていくものだとも限らないと思うんだよね。こういうのって。
年も職位も私よりずっと上の人たちですら激昂しあうような場面に出会っても、ある意味、驚かない。

職務上の立場にしろ、役職にしろ、それぞれの性格にしろ、いろんな違いをもつ人間が、協力し合ったり利害が一致したり、あるいはぶつかり合ったりするのが、仕事という場。ビジネスライクに徹するばかりにはいかない。

でも、そういう「剥きだし」を受け容れあう雰囲気ってのもあるのが、仕事とは言えど、結局、人間対人間なんだなーと思う。
誰だって、一生懸命になるあまり、感情的になることもあるさ。って、みんながわかってるものなのさ。

大人になってから、友だちと真剣に喧嘩したりすることって、あんまりない。
久しぶりに会えば懐かしくうれしいものだし、そういう気持ちにならない人とわざわざ会ったりすることもないし。たとえ、生き方のベクトルが変わってきたりなんかして、会ってみると何かしらの違和感を覚えたって、少々の切なさを感じながらその場をやり過ごすものじゃないだろうか。

だけど考えてみれば友だちだって、かつての「恥ずかしい」ことをお互いに知ってる仲なんだよな。
そういう仲だった子が、今では大人になって立派になって分別もついて、自分の生活をちゃんとやってて、変わったようで変わってなかったりして、昔いろいろ恥ずかしかった自分のことを、今でも肯定してくれてる。
昔の友達に会うと妙に元気付けられる気分になるって、そういうことなんじゃないかな。

やっぱり、人と人とが交わるのって(人間交差点?)、基本的に恥ずかしいことがたくさんあるわけで、それを受け容れあえたところに、つながりってのが生まれるんだろうな。

その場所が、子どもの頃は学校で、大人になれば職場だったり地域だったり、あるいは家族や親戚だったりするっていう、「場所」の違いだけで、みんな同じだ。

なんて、ある意味あたりまえのことを、しみじみと考えてみたりした今日だったとさ。

あたし、昔から「羞恥心」て言葉が好きだったのに、去年のあのユニットのおかげで、その語彙を出すだけでも、なんか妙に恥ずかしくなったよね・・・。上地さんのことも、つるのさんのことも、好もしく思ってはいるのだけど。

今夜はまた夫が飲み会なので、久々に納豆パスタなど作り、(彼は納豆を加熱するのを嫌うので一人のときしか作らないメニューなのだ)、のんびり書いてみたのだが、決してお供のアルコールのせいばかりではなく、思いついたままにつらつら書いても、なんの説得力もないかな。。。。ていう日記でした。終わり。