『ど根性ガエル』 終わりました

ピョン吉が帰ってこられて良かった。本当に良かった。幸福なラストだった。という気持ちは本当なのだけれど、何かしっくりと腹に落ちる感じが今ひとつ足りない感じがした。脚本的に。それで書きあぐねてこんなに遅くなっちゃったんだけど。

同じ枠・同じ脚本家で放送された『泣くな、はらちゃん』の最終回では、マンガの中の住人・はらちゃんはノートの中に戻っていく。それは別れではなくて、「だいじょうぶだよ。君が紡ぐ物語の中に僕はいつもいるよ。そうやって寄り添うのが物語だよ」って意味だったと思う。ラストシーン、雨降りに転んだ越前さんの前に、はらちゃんが傘を差し出した絵がそれを象徴してたと思う。

今回は「物語を終わらせる必要なんてない」って結末だった。「ずっと続けていいんだ」と。それは「ダメな奴だって生きてていい。生まれたんだから生きてていいんだよ」というセリフにもつながる。これをヒロシの母ちゃんにエラく直截的に言わせるところにもちょっと戸惑ったんだけど、脚本家はこれを、母ちゃんに、直接、言わせたかったんだろうな。ストレートに。土曜9時という枠だし。このドラマの薬師丸ひろ子は終始すばらしかった。

「終わらない日常」って一時期サブカルチャーでも相当なテーマだったと思うんだけど、良くも悪くもそれが「終わる」ことが私たち全員に突きつけられてもうずいぶん経つ。優しくて退屈な日常は、天災や人災である日突然終わる。そもそも、失いたくないと思う日常すらない人だって少なくない。格差、貧困。そんな危うい中で生きている私たちに必要な物語って? と、自問した作り手は多い。ドラマでも小説でも。

そこでこのドラマが提示したのが「生まれたんだから生きてていいんだよ」だと思うんだけど、そのための、「成長しない、ダメなままのヒロシ」だったんだと思うけど、母ちゃんにああ言われたって、ヒロシ2号みたいな人は簡単に納得いくのかな?と。生きてていいって言われても生きてても面白くないしパンや牛乳すら買うお金もないしピョン吉もいないわけでしょ。ってならないかなーと、思っちゃったんだよね・・・。

ヒロシは、だめな奴だったとしても、ピョン吉を失ったままだったとしても、母ちゃんがいるわけやん。家があって朝ごはんも作ってもらえるわけやん。仲間たちのいる町に住んでるわけやん。すごい「持ってる」やん。「持たざる者」にとって希望の物語になったのかな。この物語は。

京子ちゃんが「あんたに足りないのは、いや、今の時代に足りないのは、ど根性だよっ!」と最終回に言い放つのは、初回のヒロシへのど根性全力disがひっくり返ったってことなんだろうけど、それもちょっとよくわかんなくて。あのセリフ、説得力あった? 京子ちゃんがどうしてそういう心境に至ったか、という。

ひとつ思ったのは、ヒロシはピョン吉との別れを受け容れてたんだよね。物語を終わらせようとしてた。一度は、旅行先でピョン吉を置いて帰ろうとしたとき。このときは、ピョン吉がど根性でトライアスロンとかヒッチハイクとかして帰ってきた。2度目は、ピョン吉が完全に剥がれ落ちちゃったとき。これは、京子ちゃん五郎ゴリライモそしてヒロシ2号のど根性でピョン吉、生還。

このドラマにおいて結局「ど根性って何だったの?」っていうと、「物語を終わらせないど根性」ってことになるのかな。ふられても好きって言い続けるど根性。別れを受け容れないど根性。ダメな自分を自分が受け容れ続けるど根性。自分の物語は自分で作り続けるど根性。

もちろん現実に別れはある。モノは壊れる。人は死ぬ。

でもそれ以前に、強くなくちゃ生きていけないよ、ってこと。えらくならなくていい、立派な大人にならなくていいよ、そんなの難しいもん。ダメなままでいい。だけどそんな自分に絶望しちゃダメだ。楽しめる人生の物語を自分で描いていかなきゃ。制止した蛇じゃなくて自分の好きな、生き生きしたものを心の中に飼え。そういう強さ、ど根性が必要。そういうことかな。

ピョン吉を失って大人になるヒロシじゃなくて、弱気になってるピョン吉も救う話だった。

なんか、あらためて、現代って世知辛い時代なんだなーって思う。

ドラマ自体は全編楽しく見てました。子どもと一緒に見られるのもうれしい。役者さんたちの「愛すべき感」が全員すごかった。勝地涼の稀有さよ。前田敦子の不機嫌顔、ふてくされ顔の魅力よ。新井浩文の醸し出す切なさよ。そして満島ひかり。最初は「満島ひかりがピョン吉をやってる、満島ひかりすごいっ!」て聞いてたけど、だんだん満島ひかりが消えて行った。ピョン吉でしかなかった。すごい。松山ケンイチ、おつかれさまです。君にしかできない役ばかりが回ってくるからしょうがないんだけど、いつかとびきりいい男の役もやってほしいな。