長月の四
『沖縄・先島への道 街道をゆく』 司馬遼太郎
「敵が沿岸から上陸したら我々は応戦すべく(戦車で)向かうが、その際、おそらく家財道具を大八車に積んだ住民が大量に関東北部に向かって逃げてくるのとカチ合うだろう。どのように交通整理をすればよいのか?」
「ひき殺してゆけ」
と答えたと言う。
『軍隊とは自国の住民を守るものではない。
軍隊が守ろうとするのは抽象的な国家もしくは宗教など、より崇高な(←エミ註:皮肉として表現ね)ものであって、具体的な国民ではない。
たとえ国民のためという名称を使用しても、それは抽象化された国民である』
『私もそうだったが、兵隊にとられた学生は何のために死ぬのかと悩み、ほとんどの学生は、父母の住む山河を守るためだと自分に言い聞かせたものだった。
私の世代の学生あがりの飛行機乗りの多くは、沖縄戦での特攻で死んだが、たいていの者は、母国の住民というイメージ上に自分の肉体を覆いかぶせて自分が弾よけになるというつもりだったはずである』
『しかし軍隊というものは違った。
あれほど島々で千単位、万単位の玉砕が相次ぎ、沖縄は県民ぐるみ全滅したという情報もあり、広島と長崎は原爆によって壊滅し、わずかな生存者も幽鬼のようになっている状態の中で、まだ本土決戦にこだわっていた。
軍隊が見ているのはただ敵の軍隊のみ。だから軍隊の論理では「まだ本格的に戦っていない」ということになるのである』
『小さい言語学者の冒険 ~子どもに学ぶことばの秘密』 広瀬友紀
子どもの言語習得がどんなにクリエイティブかっていう本。
私はこのテーマをもっとめちゃくちゃ細分化した卒論(学部卒なのでそんなものです…w)を書いたので、最近ちょっと評判になっていたこの本を手に取ってみた。
子どもはまわりの人間がしゃべるのを聞いて、自分でも話すようになっていく。
けれど、子どもの発語を聞いていると、どう考えても大人のマネではない言葉が頻発する。
本書で紹介されているのは、子ども独自の「死ぬ」の変格活用(笑)。
「これ食べたら、死む?」
「ほんと? 死まない?」
「死めばどうなる?」
大人はこんな言葉を発することはないのに、子どものこの誤用は全国的に数多く報告されている。
子どもはおそらく、「飲む」「読む」などマ行の動詞の活用を「死ぬ」に対してもあてはめているのだろうと思われる。そして、ことさら意識的に訓練させなくても、数か月から数年でその誤用は自然と消え、正しく活用させるようになる。
つまり、子どもは実際に聞いたことのある言葉だけを単に真似しているのではなく、
「耳でインプットする」
↓
「知っている法則を自分なりに適用する」
↓
「アウトプットする」
↓
「修正する」
という段階を踏んでいるのだ! 自然に! 勝手に!
たった2歳や3歳でも!
子どもおそるべし!
人間の脳、SUGEEEEEEEE!
というのが私が大学で学んだこと(の1つ)です。
どうでもいい話のようで、私の子ども観、人間観にけっこう影響しています。
ちまたでよく見る早期教育に意味はない。
幼児に文字を教えることの不合理。
個体差は優劣ではない。
子どもは段階を踏まなければ成長しない(一足飛びは危険)
また、
日本語でも英語でも中国語でもスワヒリ語でも…(以下略)
同様の現象が見られるわけで、
日本人SUGEEEEEとか
日本語は世界でもっとも難しい…とかも からきし間違いで、
スゲーのは人間の脳です。
言語や人種に優劣はまったくありません。
★
うちの子もよく言っていた。
・ふたなどが「開かない」とき「あからない」
・私が選んだ服を着たがらないとき「きらない!きらない!」と絶叫
・「おむつ替えるよ~」と言うと「かえらない!」と言って脱走
全部、誤用である。
でも、「閉まる」は「閉まらない」と活用するから、
「閉まる」の対義語である「開く」について
「あからない」と言いたくなるのもわかるし、
「切る」は「切らない」と活用するから、
「着る」を「きらない」と言いたくなるのもわかるし、
「帰る」は「帰らない」と活用するから、
「替える」を「かえらない」と言いたくなるのもわかる。
むしろ、なぜ
「切る」と「着る」
「帰る」と「替える」
は同じ発音なのに、活用が違うのだろーか?
その違いを、なぜ私たちは当然のように受け入れ、
学齢にもなると、間違えずにしゃべれるようになるのだろうか?
外国語の不規則動詞や、男性名詞/女性名詞なんかも同様。
やっぱり、脳ってすごいよね。
子どもが言語習得中だったり記憶に新しい人は、とりわけ楽しく読めると思う。一般向けに書かれていてとてもわかりやすいです。
私も子どもが小さいころ、習得過程をよく記録してました~
● サクことば(11)満2才3か月 「じゃない」
http://emitemit.hatenablog.com/entry/20121108/1352379363
●サクことば(19)満2歳6か月 否定「〜〜ない」の誤用など
http://emitemit.hatenablog.com/entry/20130203/1359895886
●サクことば(33)満3歳0か月 ニュアンスの言い回し
http://emitemit.hatenablog.com/entry/20130822/1377170021
こういうのを面白いと思った中高生は、進学の際、言語学を選択肢にどうぞ。
一緒に写したのは、私の大学時代に超売れたMITのピンカーの本。これだけは今も本棚に残してる。
長月の三 / 松武さんインタビュー、懇談会
今月、たくさんインタビューさせていただけることになっている。ありがとうございます! とても楽しみ。
私 「子どもの興味関心はそれぞれなので、できれば本当に自由なテーマにしたほうが、取り組みやすい子もいると思うんですが…」
先生 「そうですよね…個人的には私もそう思います」
そうですよね…個人的にそう思ってくれるだけでも…いやしかし。
長月の二
帰りに浜勝でごはんを食べる。
葉月の十六・長月の一
夕方、来週の廃品回収のお知らせビラを町内に掲示して回る。
葉月の十五 / 「こんなに縛るって変じゃね?教えて子どもの権利」/ ゆるマジ・オリンピック
先生が生徒を呼び捨てにする。大声で怒鳴る、命令する。ひどい言葉で罵声を浴びせる…
学校を一歩出たら、ふつうあり得ないことが、「学校だから」「先生/生徒の関係だから」ということで当たり前になっている。
「義務」とのセットなんかではなく、
赤ちゃんだろうが、外国人だろうが、障がい者だろうが全員にある。
人権とは「自由である」ということ。
「人権とは、人が生まれながらにして持っている人間としての権利のことです。人間はだれでもかけがえのない個人として尊重され、平等に扱われ、みずからの意思にしたがって自由に生きることができなければなりません。」
制服、校則、部活動、宿題、PTA…ひとつひとつの事例を「人権」という観点で考えてみることが大事。
1対1で話すと、仕事の愚痴もけっこう出てくるけれど、職員室では言えないことがいっぱいあるみたい。いろんなことに気を遣っている。
先生たちにも、のんびりコーヒーを飲む時間があるといい。
先生たちにも自由になってほしい。
職員室の風通しが良くなれば、先生と生徒、親…いろんなことが変わってくるだろう。
こういうお話はもっともっと、現役の小中学生の親たちでシェアしたい!
・2分の1成人式
(小2でも、「こんなに成長したよ発表会」というのがあって、子どもたちが1人ずつみんなの前で、親に感謝と反省(!)の言葉を述べたりしてた…)
・自由研究。
・連帯責任。
・ケンカの解決の仕方。
・図書室、開いてなさすぎ問題
・実質、全員加入&ポイント制のPTA
などなど…
PTAは決まった仕事をこなすため。
親同士が子どものこと、学校のことをシェアできる場がとても少ない。
シェアする場がないと、関心も育ちにくい。
子どもが表立って荒れたり、学校に行かなくなったりしない限りは、「特に問題はない」ととらえている親も多いように思う。
ちょっと困っていること、ふんわりモヤモヤしていることがあっても、個人の問題として片づけたり、世間話的な愚痴として、ガス抜きだけで終わってしまうことも多々。
私は、懇談会やら連絡帳なんかでちょいちょい発言するようにしてるんだけど、なかなか…。
「自分たちの頃もそんなものだった」
「適当にやりすごす能力も必要」
「ある意味、社会に出る前の訓練(免疫)になる」
という考えもある。
でも、学校がその「予行練習」になっていいはずはないと私は思う。
実際、子どもたちの過半数は適当にやり過ごしてるだろう。
(私もそうだった。とはいえ、小3のときにはすでに、権威や同調圧力が大嫌いな自分を自覚していた。やっぱりこういうのは生まれもった気質なんだろうか?)
「上下関係による大声や命令は当たり前」
「立場が下の者は、みずからルールを作ったり異議を唱えたりする権利はない。どうしてもしたいなら、ボコボコにされる覚悟でやれ」
「何もしない・言わないのがうまくやる秘訣」
なんてメッセージを学校から受け取った子どもが、将来どういう大人になるか…
というか、私たち自身がそういう学校で育ち、こういう大人になったから、今の世の中が(そして学校が)こんなふうに閉塞しているんじゃないか?とも思う。
子どもたちのために、まずは大人が変わらないといけないんだよね。
◆
興味のある方、こちらもご参照ください!
http://emitemit.hatenablog.com/entry/2019/07/31/002826
葉月の十四 / 熊谷寧子さんインタビュー「いつかまた飛んでいく日がくる」
葉月の十三
葉月の十二 / 西欧音楽史からの「世界を認識する手がかり」
クラシック、と聞いて私たちが思い浮かべるバッハやらベートーベンやらの歴史は1冊に収まっちゃってる。
「宇宙のすべては数によって成り立つ・解明できる」
があります。『万物は数なり』ってやつですね。
つまり音楽も数なのです。
当時はまだドレミファソラシドのような名前はないのだけれど、音律はとても美しい数式で表現することができる
(音の周波数の比をとっていくというか…)。
ただし、それは完璧に円環するようで、ほんのちょっとだけズレる。
…というところまでピタ氏は解明していて、そのズレが「ピタゴラスコンマ」と言われるそうです。
「音楽を奏でる人・作曲する人」
ではなく、
「音楽のしくみ・成り立ちを考える人」
のことを言いました。
大工さんではなく設計する人のほうを「建築家」というのと似てるかも。
「実際に耳に聞こえる音楽自体は取るに足りないもの。
その背後にある秩序や調和のほうが大切」
という考え方でした。
それらすべての源には やはり、ピタゴラスからの流れをくむ
「不変の音の原理」
があるのでしょう。
その背後に、数学・哲学・天文学・文学などが相互にかかわりあい混然一体となって構築された膨大な理論があることが(なんとなく 笑)感じられて、圧倒されました。
この話を手がかりに、
「良い音楽、悪い音楽とはどういうものか?」
「西洋人の価値観、日本人(東洋人)の価値観」
「現代社会の仕組みについて」
「いま、世界を牛耳っているのはだれなのか?」(笑)
などなど、ランチタイムまで含めて、話はどこまでも広がってゆき、そのひとつひとつが本当に刺激的でした。
というお話も印象的でした。
学校や、習いごと、「共働き」の感覚も、日本とはかなり違うようでしたよ。
ご依頼があれば応じてくださるんじゃないかな?
私もまた聞きたいです!