『沖縄・先島への道 街道をゆく』 司馬遼太郎

街道をゆく 6 沖縄・先島への道 (朝日文庫)

夏の沖縄旅行とその前後で司馬遼太郎の『街道をゆく』の沖縄編を読んでいた。昭和40年代後半に司馬が沖縄を訪ね、ほぼリアルタイムで書いた紀行文。本土復帰してまだ間もないころで作中には戦時中の体験談等も少なくない。その中に、
「軍隊というものは自国の住民を守らない」
 
という文章があった。関西出身の司馬は、昭和18年に学徒出陣。終戦間近、所属していた栃木の戦車部隊で、会議で本土決戦に向けての話を聞かされる。司馬は上官にたずねた。
 

「敵が沿岸から上陸したら我々は応戦すべく(戦車で)向かうが、その際、おそらく家財道具を大八車に積んだ住民が大量に関東北部に向かって逃げてくるのとカチ合うだろう。どのように交通整理をすればよいのか?」

 

温厚な上官だったが、司馬の質問に対しては、押し殺したような声で
「ひき殺してゆけ」
と答えたと言う。
 
司馬は、「驚きとおびえと絶望感、そして何もかもやめたくなるようなばかばかしさ」を覚えたと書いている。
 

『軍隊とは自国の住民を守るものではない。
 軍隊が守ろうとするのは抽象的な国家もしくは宗教など、より崇高な(←エミ註:皮肉として表現ね)ものであって、具体的な国民ではない。
 たとえ国民のためという名称を使用しても、それは抽象化された国民である』

 

『私もそうだったが、兵隊にとられた学生は何のために死ぬのかと悩み、ほとんどの学生は、父母の住む山河を守るためだと自分に言い聞かせたものだった。
 私の世代の学生あがりの飛行機乗りの多くは、沖縄戦での特攻で死んだが、たいていの者は、母国の住民というイメージ上に自分の肉体を覆いかぶせて自分が弾よけになるというつもりだったはずである』

 

『しかし軍隊というものは違った。
 あれほど島々で千単位、万単位の玉砕が相次ぎ、沖縄は県民ぐるみ全滅したという情報もあり、広島と長崎は原爆によって壊滅し、わずかな生存者も幽鬼のようになっている状態の中で、まだ本土決戦にこだわっていた。
 軍隊が見ているのはただ敵の軍隊のみ。だから軍隊の論理では「まだ本格的に戦っていない」ということになるのである』