『はじめての沖縄』 岸政彦

はじめての沖縄 (よりみちパン! セ)


今年8月に沖縄に行って、リゾートホテルを拠点に泳いで食べてとのんびり遊びながら、なんとなく考えるところがあった。那覇空港のすぐ隣には自衛隊の駐屯地があり、自衛隊機が停まっていた。ホテルから出た道の両側に古い墓地があった(このホテルは5年ほど前のオープンだが、いくばくかでも、墓地の地上げ(?)をして作ったのか?)。この島の15%が米軍基地で、それは日本全国の基地の約7割にものぼる・・・。

それで旅から帰ると、前にどこかでちらりと見た『はじめての沖縄』を購入して読んだ。著者は冒頭で、「これは沖縄の解説本ではなく、中立でも客観的でもない。【めんどくさい】本になる」と宣言している。実際、目次をひらくと

「沖縄について考えることについて考える」
「沖縄を思って泣く」
「ほんとうの沖縄、ふつうの沖縄」

など、いかにもめんどくさそうな章タイトルが並んでいる。

著者は社会学の研究者で立命館大学の教授だから、こんなめんどくさい本を書く必要はないし、このめんどくささは学術的には切り捨てられるべきものである。なのに敢えてこんな本を書いた、というか書かざるを得なかったこの人に、私は誠実さを感じる。誠実であるというのは時にわかりやすくない、つまりめんどくささを伴うものなんだと思う。

学術的なデータとはいえなくても、沖縄に関するいろいろな知識が書いてある。「ナイチャー」という言葉がある。ウチナンチュ(沖縄人)の反対、「内地の人」「沖縄以外の都道府県の人」という意味だ。そんな強い言葉は、他の都道府県にはなかなかない。日本人を、沖縄と、沖縄以外に分けるという捉え方。

米軍占領下の1960年代、急増する若年人口と低い失業率に支えられ、沖縄経済は急成長した。また、米ドルに対する物価が異常なほど安かったため、沖縄の米兵たちは週末になるとカネをばらまき、あらゆる酒場ではドル紙幣を収納するレジがいっぱいになって、カウンターの下に置いたダンボールに紙幣を詰め込んで、さらに上から靴で踏んでいたという。

第二次大戦末期には、国内でほぼ唯一の大規模な地上戦があり、ふだん暮らしている町や村が戦場になって、非戦闘員の一般市民に膨大な犠牲者が出た。やんばると呼ばれる北部に逃れた人は、亜熱帯のジャングルで飢餓やマラリアに苦しめられ、糸満などの南部へ逃れた人は、「山の形が変わる」ほど爆弾が投下される中で、女性や子ども、老人をふくめた多くの人が死んだ。4人に1人が死亡した計算だという。

そんな話も私たち「ナイチャー」は往々にして知らない。だいたいは知ってるよ、という人も、「現在の沖縄社会やウチナンチュ文化の出発点には沖縄戦がある」という筆者の考察には驚くのではないだろうか。私たちはつい、沖縄の文化や慣習や規範を、あらゆる「沖縄的なもの」を亜熱帯の自然や民族的なところに還元して考えがちだ。

沖縄戦が近づくにつれて、日本軍は沖縄の人々を追い出して、学校や集会所や民家を接収した。つまり地上戦の前から沖縄の人々の私的所有権は制限された。地上戦が始まると、着の身着のままの沖縄の人々は逃避行の途中で通りがかった畑に残っていた芋や野菜を食べていた。戦争が終わり、米軍の収容所から人々は段階的に解放され、家に帰りつくまでに空き家や他人の家の軒先で寝泊まりした。復興期に入ると、沖縄の人々は米軍の物資を横流ししたり、台湾などから物資を密かに運搬して転売する密貿易にかかわって暮らしを立てた。

沖縄の人々が、より自由で、自治の感覚にあふれた社会をつくりあげてきたとすれば、その原点にはこうした経験がある。もちろんここに、正確に科学的に計測された因果関係があるとまではいえない。(中略)
しかし、大規模で凄惨な地上戦と、それに続く27年間の米軍統治を経験した沖縄に、本土と異なる社会規範が形成されたとしても、それほど不思議なことではない。(中略)

沖縄戦と戦後の高度経済成長期によって、沖縄的なものは失われてしまったのではない。それはむしろ、現在の沖縄的なものの、はじまりの経験だったのだ。

だとすれば、沖縄と内地の間に、あるいはウチナンチュとナイチャーの間に引かれている境界線は、きわめて人為的なものだし、基地や貧困の問題をそのままにしていることで、私たちナイチャーは間接的に境界線を引き続けていることになる。

この本の終章のタイトルは「境界線を抱いて」。筆者は境界線をおそれず、沖縄を語り続ける決意をしている。ラベリングや安易なイメージ付けすることなく、ロマンチシズムを排し、できるだけ「世俗的に」語るべきだというのが筆者の主張だ。

彼の研究スタイルはオーラルヒストリーの聞き取り。生活史を大事にしている。調査の現場で、調査者はまず「見る」。次に「聞く」。
しかし聞き取りの場は調査者からの一方的な質問だけで構成されるのではなく、調査する側がされる側に逆に尋ねられることもある。「なんでこんな調査やってるの?」「なんで沖縄に興味を持ったの?」「基地をどう思いますか?」「嫁さんはいるのか?出身は?」 こうして、調査の現場は相互行為が交わされる、にぎやかで複雑な「ゲマインシャフト」的な場になってゆく。

沖縄の人々の生活史は、個人の語りでありながらも、同時に戦後の沖縄史そのものである。個人の人生のことを聞き取ることは、実は経済や歴史、あるいは国家や民族というものについて聞き取ることでもあるのだ。

生活史が語る人生の物語と、巨大な歴史や構造の物語とを、どこかで架橋しなければならない。

筆者が書く、相互行為としての調査現場の状況や、個人の背後に歴史があるという感覚は、インタビュアーのはしくれとして深く腑に落ちる気がした。

生活史は個別で多様だから、歴史に結び付けるのはあまりに複雑で煩瑣な作業になる。私たちはわかりやすいものを求めがちだし、研究者が提示すべきは明快なデータや結果だろう。けれど出発点や過程には必ず複雑さがあり、複雑な枝葉を剪定することは残酷なばかりか欺瞞にすらつながりかねない行為だ。複雑なものを複雑なまま描いて出したこの本を私は大事にしたい。