『不思議な羅針盤』 梨木香歩 “食べるだけの人たちに申し訳なくさえ思うのだ”

不思議な羅針盤 (新潮文庫)

やっぱり梨木さんのエッセイはいい。感じるということ、知っているということ、考えるということ、それらがすべてある。そしてそれらは相互につながっている。

各章で、梨木さんは五感をひらいている。庭の草花や、鳥の声。ミントのにおい。路線バスで乗り合わせた小さな女の子。そこから何かを思い出す。思索、思考につながっていく。

梨木さんの視野は広く、かつ細部に至る。ウグイスもカラスも同列に語られ、ペットのかわいさだけでなくどう猛さに触れ、自閉症の人やその親御さんの目線にも立つ。赤毛のアン万葉集、前衛的な若手アーティストも農村の羊飼いの女性も、そして子どもの頃の自分も登場する。それらは「バラエティ豊か」と評されるかもしれないけれど、本来、人として自然なことなんだろうと思う。人間は大きな器を持てる生き物なんじゃないかと思う。

「アク」のこと、という章に描かれる「ウド仕事」が好きだ。

皮をむきアクを抜き・・・という手のかかる下ごしらえから料理ができあがるまでの手触りや色の整列さ、音や匂いをいきいきと描き、

文字通り、五感が沸き立つような経験である。こういうとき、ああ、料理というのはなんと贅沢な喜びであろう、と、食べるだけの人たちに申し訳なくさえ思うのだ。

と書く。主婦ならば特に、「人に作ってもらったものを食べたい!」と思うものだから、「食べるだけの人たちに対して申し訳なくさえ思う」という考えの新鮮さとぜいたくさを思う。暮らしに余裕のある人だから、と思う人もいるだろうけど、つつましい暮らしをしていた昔の人にとっても、食べるための「仕事」の中に季節を感じるのは楽しみだったんじゃないだろうか。

そんなこの本の中では、右傾化や全体主義の萌芽への危惧もたびたび綴られている。

最近、映画などで「自己犠牲」の類を謳ったものが目に付くようになった。子どもじみた悲壮美を、ただひたすら盛り上げる手法でつくられた特攻隊の映画とか・・・(中略)。「今の時代にこそ この美しい自己犠牲の精神を」というような謳い文句には目を疑った。自己犠牲は人から勧められて発心する類のものでもなければ、いわんや強いられるものでもない。早い話が「おまえたち犠牲になれ」と言っているのである。(中略)政治家といわれる人がこれを言う。例えば国体への献身の姿を「美しい」というのなら、今の北朝鮮政府と変わらない。

非常時の名のもとに一律に同じ価値観を要求され、その人がその人らしくあることが許されない社会はすでに末期症状を呈しており、いずれ崩壊の日も間近という事実を、私たちは歴史で学んでいるはずなのに、最近なぜかまたそういうことが繰り返されそうな、いやな空気が漂っている気がする。

そのことについて梨木さんは、単行本出版当時(2010年12月)のあとがきで、

連載の話があった当時は、政治家による「自己責任」発言で日本が狂奔したかのような状態にあった、その記憶も生々しい頃で、同じく政治家による「教育のための徴兵制」発言もあった。あまりにも急激な右傾化。いったいこの国はどうなっていくのだろう、という危機感が、私の中でひどく強まった時期であった。
(中略)今現在とは少し、社会の空気感が違うので、戸惑われる向きもあろうかと思われたが、自分の中の記録と言う意味でも、敢えてそのまま単行本に入れさせていただくことにした。

と述べている。けれどその数年後、文庫版のあとがき(2015年7月)では

「個性的なリーダーに付き合う」という章を読み返していると、それがまさに今現在のことだと暗澹たる思いになる。(中略)単行本を出したころには、その切迫感も少し和らいできたのか、あとがきに「当時は‥‥」などと説明している。それが昨今また、以前にもまして国の先行きに危機感を感じる世の中になってきた。

と再び憂いている。

木々や草花や鳥や子どもを愛で、お茶を一服したり手仕事の時間を大事にする人が、政治家の発言や社会の風潮に疑義を呈すること。それもまた、本来、自然なことだと思う。ささやかな生活を守るため、危機を察知し、みずからにできることをしようとする能力。
文庫版のあとがきから、もうすぐ3年。今は・・・。