『君たちはどう生きるか』 吉野源三郎

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冒頭から泣きながら読んだ本って久しぶりじゃなかろうか。第1章で泣き、第2章で泣き・・・えぐえぐ泣きながら読み進めていった。

1937年、昭和12年(1937年)刊行。日中戦争が始まった年、軍のファシズムが拡大し、挙国一致の戦争へなだれこむ時代に、勇気ある作家と出版社との協働によって生み出された、少年少女のための作品。宮崎駿が制作にとりかかっている新作長編アニメも、このタイトルからとったとのことです。

第1章の冒頭、銀座の7階建てデパートの屋上から見た光景。灰色の曇り空から霧のように小さな雨粒が堕ちる中、銀座通りをひっきりなしに行き交う車や人々。物憂そうに走ってゆく電車。立ち並ぶ街路樹。それらは、今現在の東京の描写として読んでもほとんど違和感がないくらいだ。

雑踏を眺めていた15歳の少年、「コペル君」がふいに気づくこと。それを見守り、さらなる成長を促す叔父さんのあたたかい眼差し。

教養とヒューマニズムにあふれた内容も涙が出るくらいすばらしいのだけど、それ以上に、時流を憂慮してこんなにすばらしい本が書かれて一定の評価もされたのに、このあと戦争がさらに拡大し、こんなに発達して栄えていた東京の町は焼かれ、コペル君たちのような前途ある少年たちもいやおうなく巻き込まれていったのだという史実がある。それを思うとどうしようもなく泣ける。

戦争を止めるのがどんなに難しいか。
歴史を知れば知るほどそう思う。学者や芸術家にも、企業家にも、政治家にも戦争を避けようとした人はたくさんいた。それぞれができることをやったのに、戦争はあんな破局までいってしまったんだよね。

それでもなお、今読みたい本だ。羽賀翔一によるマンガ(マガジンハウス刊)もヒットしているらしいね。

コペル君は元気で賢く、少年から一歩ずつ、大人への階段をのぼっていく。

それは至極当然だと思っていた天動説を捨てて地動説へ移行するように、自分中心の考えから、「自分は広い広い世界の一分子なんだ」と気づくということ。いま着ているセーターが、オーストラリアの羊から始まって、毛を刈る人、糸をつむぐ人、運ぶ人、値をつける人、売る人・・・とつながってここまで来たように、自分の生活には見ず知らずの分子たちが大勢つながっていること。

正義感ある友だちを尊敬する気持ち。友だちの貧しい暮らしを見て驚きはしても少しも蔑まず、近づいていける気持ち。英雄の精神に興奮する気持ち。

そんな、将来有望なコペル君でも、勇気をもって友だちの困難に飛び込むことに、完膚なきまでに失敗する・・・。このあたり、この作品を念頭に「現代のコペル君」が描かれた 梨木香歩『僕は、そして僕たちはどう生きるか』がなぜあのような展開になったのか、非常に納得するところでもあったんですが、閑話休題。

叔父さんがコペル君に手渡す「ノート」は示唆にあふれている。

いいことをいいことだとし、悪いことを悪いことだとし、一つ一つ判断をしてゆくときにも、また、君がいいと判断したことをやってゆくときにも、いつでも、君の胸から湧き出てくるいきいきとした感情に貫かれていなくてはならない。

人間は、(経済活動によって見ず知らずの人とつながるような)地球を包んでしまうような網目を作り上げたとはいえ、そのつながりは、まだまだ本当に人間らしい関係になっているとはいえない。だから、これほど人類が進歩しながら、人間同士の争いはいまだに絶えないんだ。裁判所では、お金のために訴訟を起こされない日は1日もないし、国と国との間でも、利害が衝突すれば、戦争をしても争うことになる。

たとえちゃんとした自尊心をもっている人でも、貧乏な暮らしをしていれば、何かにつけて引け目を感じるというのは、免れがたい人情なんだ。(中略)貧しい暮らしをしている人々は、イヤな思いをなめさせられることが多いのだから、自尊心を心なく傷つけるようなことは、決してしてはいけない。

いいか、よく覚えておきたまえ、今の世の中で大多数を占めている人々は貧乏な人々なんだ。そして、大多数の人々が人間らしい暮らしをできないでいるということが、僕たちの時代で、何よりも大きな問題となっているのだ。

1937年、きな臭い世の中になっているとはいえ、まだデパートも、高校野球も、学校生活も普通に営まれていた「戦前」に書かれた「叔父さんのノート」は、いま再び重く響く。

私たちは今この本を読み、携えて、同じ轍を踏まないようにしなければならないんだろう。最終章、土の中深くから「伸びてゆかずにいられず」育った黄水仙のように、育ってゆく力を秘めた子どもたち。もう奪われませんようにと思う。

 

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)