『おんな城主直虎』 第47話 「決戦は高天神」

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「わしに愛想が尽きたか」と始まる家康の演説、しみじみとよかった。「信康はわしには出来過ぎた息子だった、瀬名がおらねばわしは岡崎に帰ることすらできなかったと思う」で、もろくも涙腺がゆるんだよ・・・(´;ω;`)。このときも、ラストの碁盤の上の献杯のシーンでも、家康は先に信康の名を挙げ、次に並べて瀬名の名を口にする前にちょっと口ごもるような間をおいていた。それが、なんとも、瀬名に対する切ない思いを感じさせて良いのだ。

但馬と井伊を見捨てたときも、(結果的に)信康と瀬名を殺したときも、心ある言葉を一言も持てなかった家康が、岡崎衆に雄弁に語りかけた・・・。

岡崎の演説、直前でまで、榊原康政に「お言葉が過ぎます」をさし挟ませたのも効果的だった。榊原は殿やお家の権威をとても大事にしていて、「家中に弱みを見せたくない」思いを幾度も異口同音で(洒落ではない!)口にしてきたのだが、それが今ここで鮮やかに覆された。「わしは無力だから皆の力を貸してくれ」と同じところまで降りることで、家康は岡崎の人心を掌握した。それは若き日の直虎と同じ方法だった。

岡崎衆が家康の言葉に打たれ、その家康の言葉は万千代の助言によるものだと悟った榊原が、初めてといっていいくらい自然に、わずかに頬をゆるめた。若くポッと出の万千代が殿に重用され自分が為せなかったことを為しても、嫉妬するような小さな人物ではないということだ(まあ、もう12月が迫っているので、そういうのをやる尺がないのもありましょうがw)。

榊原も、保身や出世より徳川家のことを考えている。酒井忠次もそうである(数正への言葉よかった。でも、ここで家康に心酔したなら、数くん、今後どうなっちゃうのかな?もうそれをやる尺はないのかな?…と、やたらと尺が気になる11月末ですw)

「万千代は変わった。己の手柄のことばかりだったが、今は徳川家の行く末を考えている」と本多忠勝が評したのは、自分もまた、徳川の行く末を考える家臣だからだろう。

・・・ってか、忠勝さん、どした?w 「おいおいおいおい」「早く呼んでこい、呼んでこい」って、なんだその顔w なんだそのBGMw 

そりゃあ柴咲コウですから客観的にいって絶世の美女ですけど、ドラマって往々にして美男美女の世界だから、絶世の美女なのか、中の上くらいなのか、普通なのか、劇中でちゃんといってくれないとわかんないわけで、直虎に関してはこれまで「美しい」の形容とか一言もなかったわけで、コーテンさんの「落っこちそうに大きな目」描写といい、急にどうしたのww

「男ばかりでむさくるしくて・・・」に「いえ、慣れておりますので」と返されて「エッ?」てなる忠勝さん(笑) 井伊谷のおんな城主って、昔それなりに噂になってたけど、忠勝さんて噂とか全然キョーミなさそうだしねw

織田からの憎らしい死者、水野殿(於大の方の実家だね)。上杉祥三ってなにげに私の中で大河俳優だ。この人が出てくるとなんかひとつ、大河のノルマを果たした感があるw 

信康と瀬名の死を乗り越えてひとつにまとまった徳川を嘲笑うかのように残酷な要求をつきつける織田。もう、オメェなんか高転んでしまいやがれ~! 安土城での信長の意味深なカットの意味は来週わかるの? 

敵を叩き潰すのではなく取り込む力をつけたい。でも未だその力がないから、強き者に言われるがままに叩き潰さなければならない。息子や妻ではなく、相手はもともと敵なのだからそんなに傷つかなくても…てくらい、大雨に打たれるがままに茫然とする阿部サダヲの表情がすばらしい。彼はもう、雑魚敵だからいいやとは思えないのだ。それでも大局のためにはそうしなければならない。

これ見てて、また、序盤の直虎の信長評を聞いて、「相手を叩き潰すほうが簡単なんだな、それは無策であり、無能力であるってことなんだな」と思った。戦をせずに相手を取り込んで双方が一兵も失わずに済むほうがとても難しいことなんだよな、と。当たり前のことなんだけどね、本来。現代の情勢がアレだから…

正直言うと、駿河奪取の目的では、「瀬名の望みだった」をこれまでもうちょっとアピールしておくか、あるいは別の理由も描いておけば、もっとぐっときただろうなと思う。

まあ、往時に比べればソフトなのだろうが、昨今ではギョッとするような、ゴールデンタイムで生首のカット。さっき動いていた勝頼が生首になった! 首桶・首桶・首桶・首桶・首桶・生首って感じなんだけど、このドラマを見てると、そういう描写もあるよなって思わせる。

井戸端で但馬に語りかける之の字。それを見て、但馬のマネをする直虎。直虎、うまい! てか、但馬のマネだとすぐわかる、今作の大ファンの同志たちよ!!私もその一人です。手をもう片方の腕に重ねた独特の歩き方、あれが但馬だよね(´;ω;`)(父の和泉もそうだったよね)

徳川の微力、織田の強大さを述べて「お気は確かか?」と揶揄するのも昔の之の字のようなら、「やってみねばわからぬではないか!」と直虎が返すのも昔のよう。そしてその言葉に之の字の表情がサッと変わる(´;ω;`) 直虎の凛々しく向こう見ずな、でも意思をたたえた「やってみねばわからぬではないか!」を聞いて、久しぶりだ~これやっぱり大好きだ~!!と思った今作の大ファンの同志たちよ!!私もその一人です。

「私なりに折り合いをつけてきたのです」という言い方がよかった。自分なりに折り合いをつける・・・それは私を筆頭に、年を重ねた多くの凡人の人生だよね。但馬もおらぬ、井伊も潰れた、ならばせめて井伊谷の番人であろうとしてきた之の字。でも、直虎が力を貸せというなら行かぬわけにはいかない。

これは、冒頭の「家康→岡崎衆」の姿のルーツ、本家本元のやりとりでもあり、直虎と但馬との二人三脚を、その外から見てきて、但馬がいなくなり直虎が農婦になってもそばにいた之の字の、恋心とか横恋慕と片づけるにはあまりに長く切ない思慕の告白でもある。「あなたの隣で見てきたんですから」 隣か! 脇とか物陰からじゃなくて、隣か!! 「男冥利につきるってことにしときますよ」と合わせて、ややもすれば蛇足でダサいセリフになるところ、之の字がかわいすぎて全然アリアリアリ~~~!!! って気分だった。

それにしても矢本悠馬さんはお芝居が達者ですよね。滑舌もいいし腹から声が出ていて、このファニーフェイスが時代劇にこんなに合うとは望外でした。

「殿を、日の本一の殿にします」 そう宣言する万千代の静けさ。日の本一の草履番とか、日の本一の留守番とか軍議の末席とか、あのころの気負いとギラギラ感はない。そこにあるのはただただ確かな決意である。虎松を通じて徳川を動かして平和な世に・・・といっても、いったいどうすればいいのか? そういぶかしんでいた直虎だが、彼女が持ちかけるまでもなく、万千代は既にそのつもりだった。戦をしたくない、という痛いほどの気持ちも、虎松と、そして家康にも共通している。

最終回まで、あと2話か3話。歴史上、何が起きるかはわかっているが、それと直虎がどうつながるのか、というか彼女は最終回までに何を為すのか・・・?と思うところだが、普通の大河ドラマのように「主人公の偉大な業績」は、このドラマにはいらないのかもしれない。

一人の凡婦(凡夫)が、さまざまな経験をもとに、切実な思いで平和を希求し、そのためにできたのは、万千代を通じて自分の経験を家康に伝えるという微々たることだったかもしれない。でも、数々の人々がむごい経験をして、生き残った誰かが誰かにそれを伝えてゆくという微々たる積み重ねで、江戸時代というとりあえずの平和な世が実現したのかもしれない。

「戦をせぬ戦」という一言がガツンときた。それは弔い合戦でもあるのだ、と。多くの犠牲を経て平和が希求され実現していくさまを私たちは一年かけて見ている。