『おんな城主直虎』 第40話 「天正の草履番」

タイトル、自身が脚本を書いた『天皇の料理番』からw

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今回、しみじみ感動する良いシーン多し・・・。冒頭は激おこのしのちゃんが乗り込んでくるというワクワクシーンだったけどなw 恨みがましい上目遣い、いいよいいよw 「当節は禅僧と書いて人でなしと読むのですか?!」なんて、すっばらしいセリフ!w しのちゃん、よう言うた! もっと言うたって、言うたって!!

分別を見せるおとわに、「井伊の名が蘇るのはいいことじゃないですか」と喜び、ステレオ放送でじっとりとした視線を送る祐椿尼お母さんとうめもよかったw 女たちが生き生きしていて、これは良い女大河であるw 

男たちもみな人間くさい。家康の食えない態度につけ入ることができず、常慶の問いに苦虫をかみつぶした無言の顔で去っていく酒井忠次。ストレートにコワッパたちを励まし、万千代だけでなく万福の肩も叩いていく本田忠勝。

そして、家康。万千代が小賢しく「ただの百姓の女、お目通りできる身分では…」と言うと「そなたはわしに指図できる身分なのか?」と、優しい口調で余裕のある受け答え。何より、女が直虎だと知るとハッと息をのみ、すぐに上がるよう紳士的に促す姿が「信のおける人間」の描写だった。

かつて、寿桂尼や氏真などと対峙したときに比べると、直虎がぐっと落ち着いて年齢と経験を重ねた風情なのもいい。家康は万千代の言い分を聞き入れた理由について、

1.昔、井伊を助けたかったのに助けうるだけの力がなかった罪悪感から解放されたい 
2.瀬名の頼みを聞いてやりたい 
3.これからの徳川は三河者でなくても実力次第で出世できる家風にならねば。負けん気の強い万千代はその嚆矢としてぴったり

と述べる。なんという、正しい自己認識と将来の見通し! 囲碁ってそれほど人を鍛えるものなのかと感心しきりである。さらに「信玄のような戦上手でも、信長のようなカリスマでもないからこそ、人を大事にせねば」と言う家康を、直虎は 「非凡なる凡」と評し、「己の凡なるを踏まえ、決しておごらず、やるべきことを積み上げていく。凡なることを重ねてゆける人は、やはり非凡なのだろう」と言うが、そんな家康と直虎が意気投合するのは、直虎もまた「非凡なる凡」だからだろうと、視聴者の目には映る。

女だから戦には出られないし、寿桂尼のようなあふれる才能もないから、人を大事にしてきた。その過程で、よりによって大事な「人」を失ったことで己の限界を思い、領主から降り家名を捨て、それでも実際には、人を見捨てず、「潰れた家だからこそ話が通りやすい」ことを喜んで、人のために働き続けている。それが直虎のこれまでと今だ。

けれど、このドラマは一人の人間に対して、そんな自己認識や俯瞰とは違った見方も重ねてみせる。万千代の葛藤のそばで万福が幾度かアップになるカットがあり、万千代の内面を告げる。

幼い日に「我と共に井伊を守ろう」と「殿」に言われたことが虎松の原点であり、彼にとってはずっとおとわは「殿」であること。殿から勝手に降りるという「間違い」な言動をしてもなお、殿なのである。虎松にはまさに、直虎は「非凡な者」だったんだろう。

「子どもだった自分たちは戦いもせずに負けた者といわれる、それが耐えられない。もう井伊の名はないのだから好きに生きろと言ったじゃないか、ならば応援しなくてもいいからせめて見守ってくれよ」という万福の言葉はこの世代の真情を感じさせるとともに筋も通っていて、ナイス。

死んでいった人々がどうの、生きている人々がどうのとか、知ったこっちゃないってことだよね。万千代たちにとっては、上の世代の枷や事情を押し付けられているってこと。それでも、おとわに「自分勝手を通して周りを困らせるのが当主か」とやりこめられたのも効いてて、ふてくされて土間に座っている菅田くんが超かわいいんですけどーーーーーー!(突然叫ぶ)

松下家の夫婦。井伊の名を名乗るなんて筋が通らない話だと最後までつっぱるのがしのであるという皮肉。なんとしても井伊の跡継ぎを産まねばと言っていた彼女が・・・。松下当主の

「そなたはまごうことなき虎松の母だし、わしはかりそめにも父であった。ならば最後まで親らしくあらぬか」

というセリフにはもちろん感涙だけど、それに対してしのが「まことに申し訳ございませぬ」と返す脚本に、心っ底、感じ入った。ありがとうございます、とか、あなたはなんてすばらしいお方とか、そういうんじゃないんだよ。「まことに申し訳ございませぬ」、この一言に、後妻として入ったしのの立場や、夫への愛情や、松下当主の忸怩たる内心や、いろんなものが見える。

「兄が善なる者であるからこそ、自分がどんな役目を負っても救われる気がする」常慶がみずから言うほどにはまだ彼のキャラが立っていないと感じていて、そういう意味でもなつに言わせる演出は良かった。そしてその言葉はやはり但馬を想起させる。それが、「直虎=善(光)、但馬=影」というだけでなく、但馬のそのまた影に、なつや亥之助がいたのだという奥行きを知らせるシーンになっていたのが、またよい。

虎松の暴走も「己が蒔いた種」だったのだな、と笑う南渓。おまえってやつは、つくづく・・・(苦笑)。

角度によって見え方はさまざまなんだなと重ねて感じさせる脚本である。それが氏真のシーンにも表れる。ひとさし舞いながら「京の都はホントいいよね~♪」と言って浮かれる姿とか、ほんっと伝芸役者の面目躍如。そして「何も戦ばかりが仇のとり方ではない」信長に所望され面前で蹴鞠を…というのは有名な逸話だけど、こんな形で映像化されたことがあっただろうか(涙)。

「あきらめなければ、必ずできるー!」もちゃんと受け継いでいる虎松。あの「草履すべらせ技」が劇画チックに見えて、実際、草履番ってあれに近いことをやってたらしき史料も残ってるらしいですねw 虎松はいわゆる「非凡」な才を持った若者なのだけど、あくまで若者であって、周囲の「非凡なる凡」な大人たちにやりこめられたり、さりげなくアイデアをもらったり励まされたりという姿が本当にいい。