『おんな城主直虎』 第33話 「嫌われ政次の一生」

f:id:emitemit:20170109220807j:plain

 

毎回書いておりますが、わたくしはこの森下佳子さんの書く脚本が大好きでして、
見るドラマ見るドラマ、胸抉られるようなシーンがいろいろあって、
でもだいたい、森下さんが描く主要男性キャラって、かなりダメダメで(そこがステキ☆っていうんじゃなく、本気でイラッとしたり、こんちくしょー!と突き倒したくなることもしばしば、というレベル。だがそれも含めて愛おしいという感じ)、

『ごちそうさん』の悠太郎のハイライトは逃げそうな子豚を追って間抜け面で帰還、
『天皇の料理番』の篤蔵のハイライトは最終回に池でアヒルの真似事
・・・・だと思えば、この小野但馬守政次のハイライトは、出色の格好良さだったのではないでしょーか!
 
これが、佳子の思い描く「大河ドラマ」ということか。ありがとうございます!!(唐突に感謝)
 
ラストシーンを見たときにまずそう思ったんだけど、昨日の回を振り返ると本当に「歌舞伎」だなあと。それか、人形浄瑠璃とか。講談っぽさがあるんだよね。

家康、近藤(三人衆)、なつ、龍雲丸など、シーン数も登場人物も決して少なくないんだけど、最小限のセリフや所作で必要な情報を読み取らせてくれる描き方がすごい!

たとえば近藤の描写なんかとっても秀逸で。
「手向かい」をさせる罠のために、矢の先を丸くしている。それだけの手間ひまをかけてでも井伊を陥れたいという執念を感じさせる。直之に追い詰められた者は迷わず自害する。これは死を厭わぬほどの忠義をもつ家臣が近藤にもいることを示している。

直虎を牢に入れはするが、但馬と引き換えに解放する。そして但馬にこう言うのだ。
「まさか、かような山猿に足をすくわれるとは思わなかっただろう。
 おぬしはとうに、わしを騙したことなど忘れておるだろう」
山猿という言葉に、卑屈さと、眉目涼しく今川のおぼえもそこそこめでたかったインテリ但馬へのコンプレックス、それが相まっての「騙されたことへの執着」が感じられる。

先週の最後までほとんど視聴者の私も忘れかけてたけど、材木騒ぎも、龍雲丸騒ぎも仏像騒ぎも、近藤にとっては騙されて恥をかかされた案件で、それらについて政次はだいたい直虎をいさめたりしょうがなくフォローしたりする立場だったんだけど、近藤にとっては女領主ではなくすべて但馬が糸を引いていたと思っていてもおかしくない。

でも近藤は殺しても足りないくらいに政次が憎いわけでも、ことさら図抜けて残虐な性質なわけでもなく、そんな恨みもあるっちゃあるし、何より「取れるものは取れるときに取る。悪く思うな、世の習いじゃ」なんだよね。それは珍しくないことなのだ。これら少ない描写で、近藤側のスタンスをきっちり描き切っている。

そういう「まあ因縁っちゃ因縁だよね」と「そのときの世の中の理屈」とを、三人衆も、家康やその家臣たちも飲み込んだうえで動いて、その先に但馬の死がある。

家康なー。
馬上の、思案するような訝しむような(阿部サダヲ、ほんとうまい!)表情が今週もう一度流れ、井伊谷に着いたとたん「どうもおかしいのでは?」と言う。愚かな大将ではなくむしろ聡い。でも、井伊を切り捨てることにする。そういう政治的判断を主体的にしているというよりは「させられている」。移り変わる諸国の状況や徳川家の維持のため、答えはそうならざるを得ない。

直虎から見れば徳川は強大だけど実際の家康はまだまだ“豆”狸レベルともいえるし、主体性の薄さを感じさせる描写は井伊との対比でもあるんだろう。井伊は、今川等に翻弄され続けてきたけど、上から下に至るまで、いつも「自分で選んだ」のだと強調されている。

牢まで直虎を見に来て頭を下げるところがまた、秀逸な描写。せざるをえなかった判断に開き直って、スルーしてもいいとこなんだけど、牢には来るんだよね。でも、近藤と違って、悪く思うなとは言わない。反対に、おめーらが弱いせいだ自己責任だなんてことも言わない。語る言葉を持たずに、ただただ平伏して去っていく。ユーモラスさと不気味さと緊張感が並立する場面を作ったのは、やっぱり阿部サダヲの演技力でしょうね~。

近藤への因果が井伊にきっちり返ってきたように、こうして「結果的に井伊を見捨てた因果」は、家康に必ず返るんだろうなとも思わされた。そう、井伊を尋常でなく気にかけているあの人の件で・・・。そのときはきっと、家康も、何かしらを語ることになるのだろう。
 

いきなり寝所に入ってこられても驚きも恥じらいもしないなつの描写に、「あー、ほんとに政次と・・・」と感じる。うん。わかってたけどさ。

直虎について「何とかします」と言う政次に、祐椿尼が「まかせます」と言う。この人、以前、しのに対して「娘になんかしたら許さない」、死んだ直親に向かっても「おとわを連れていくのは許さない!」と叫んでいた、娘の危機に対してはとことん敏感だし立ち向かう人です。彼女がすんなり「まかせます」と言ったのは、「自分の命に代えても何とかします」だとわかっていたからだよね。

そしてなつも、その問答を聞いていた。なんせ、プロポーズと同時に「殿をしている殿が好きだし身を挺してでも助けたい」とぬけぬけと言い放った男である。「身を挺してでも」の時が今まさにくるのだと、賢いこの人にはわかっただろう。そのうえでの、あの穏やかな膝枕シーンなんである(泣)。碁石だってさ、知らんぷりして捨てたってよかったんだよね。それでも政次に渡さずにいられない。牢にやってきた近藤&家康といい、なつの碁石といい、“スルーできない登場人物たち” がとても人間臭い。

渡したうえで、「今はなしですよ」と言う。なんてささやかな願いだろうか(泣)。そして、優しく目を覆う仕草の何と色っぽいこと。以前、今川を欺くために後ろから抱きついたときといい、山口紗弥加の所作が抜群にうまい。この2人の穏やかさ、切なさを見ると、直虎を狂おしく思いながらなつと通じる、ってのが不誠実でもなんでもないと思えてくる。褒められたことじゃないにしても、2人にこんな時間があってよかったと思える(泣)。
 
隠し里の検地の思い出を話せたのがすごく良かった。それはきっとなつにしか話せないことだし、なつに話せたのもきっと、祐椿尼をはじめ、高瀬やうめなど皆をこの危急の時にここにかくまえている様子を見たことが、彼を安堵させ、あのときのつらさがちょっと昇華されたんだろうなと思った。あのとき踏ん張ってよかったなと。ナントカという祭りについての雑談、「火にあぶられたり水に晒されたり」だっけ? 明らかにこのあとの政次の様子を想像させる不吉な描写を、政次は穏やかに笑い飛ばす。そんなことは何でもないことだというように。
 
自分からのこのこ捕まりに行ったなんてね。たった一人で、偉丈夫の近藤暗殺をやってのけるほど腕が立つ男でもなかろうに。牢の前で直虎をなじるときは小野但馬の顔なのに、龍雲丸が迎えに来た時は解放されたような、澄んだ表情なんだよね。

「私はこのために生まれてきたのだ」と言ったとき、ほとんど死出とわかっている出陣前に「大切なものを守るために死ねるのは果報者」と穏やかな笑顔だった中野父(筧利夫)を思い出した。死んでいった井伊の男たちの列に政次も連なるのだなと思った。このために生まれてきたなんて悲しすぎるけど、直親があんなふうに死んだ時点から、政次はいつかどこかで自分もと思ってきた人生だろうと思う、やっぱり。なつとの逢瀬も、ひとときだから自分に許せたんだろうなと思う。
 
政次とは対照的に、直虎は龍雲丸に歪んだ表情を見せる。直虎は龍雲丸や気賀の件でも叫んだり怒ったりしてきたけど、あんなふうに駄々っ子みたいな顔を見たのは、龍雲丸は初めてだったと思う。この表情もそうだし、牢から家康に迫るシーンも、このあとも、今回の柴咲コウ全編すばらしかった・・・! 会津戦争(@八重の桜)のときの綾瀬はるかと同様、もはや演じているというより役そのものに見える。
 
「2人で逃げて潜伏し力をたくわえればよい」と南渓は言う、思えばそれは帰還後の直親がおとわに持ちかけたことに似ている。今回、政次がそれを承諾すれば直虎は従ったかもしれない。でも政次は拒む。龍雲丸は「あの人にとって井伊=あんた(直虎)なんだよ!」と言ったけど、政次は、虎松や家中の者たち、民百姓の命のことを言った。おとわという女の命を守るためだけなら気賀に行ってもよさそうなのだけど、政次は直虎という井伊の殿が好きなのだ。だから直虎が守りたい井伊の家と民百姓のために死ぬ。直虎のためと井伊のためが混然一体となっている。
 
それは直虎の方も同じで、こうなった以上、政次のために何ができるかと考え抜いたあげく、政次を刺すのだ。
 
さすがにそこまでは想像しないよ、という度肝を抜かれる展開を、見終わったあとでは「これしかない」と思わせる、名シーンの1つが誕生した。
 

 

直虎がそれを決意したのはいつだろう。「我が送ってやらねば」のときは、まだ確固たる意はないように見える。磔という手段はあのときにわかったのだし(切腹や斬首、謀殺の可能性だってあったのだ)。刑場に入ってくる政次・・・というか磔台にくくられる政次を凝視する直虎の顔がすごかった。すべてを吸い込むような、貫くような、つめたい、人間性を捨て去ったような表情だった。あのときに、天啓のように閃いたんじゃないかなと思う。
 
いずれにせよ、血の涙を流しながらではなく、透徹とした決意の顔でやった。迷いなく一撃で仕留め、少しの声の乱れもなく呪詛の言葉を言い切った。
 
このへんから、ほんと歌舞伎だなーって思ったんだよね。
 
「地獄へ落ちろ、小野但馬。地獄へ。
 ようも、ようもここまで我を欺いてくれたな!
 遠江一、日のもと一の卑怯者と未来永劫語り伝えてやるわ」
 
「おなご頼りの井伊に未来などあると思うのか? 
 生き抜けるなどと思うておるのか? 
 家老ごときにたやすく謀られるような愚かな井伊が、やれるものならやってみろ。
 地獄の底から、見届けて・・・・」
 
まさかの主人公による刃傷沙汰(槍だけど)のあと、
この、見事な悪態、罵詈雑言、呪詛の応酬。
その言葉の裏にある本音。
 
(本音は、全部裏返しなんだよね。
 日の本一の卑怯者=日本一の忠義者
 女子だよりの井伊が生き抜けるのか?= 井伊におまえがいる限り大丈夫、
 やれるものならやってみろ、地獄の底から…= おまえならできる、ずっと見守っている)
 
政次が口から吐くドロッとした血も何となく歌舞伎のケレンっぽかったし、彼を真正面から映すカメラワークもまさに歌舞伎の見せ場のようで。
 
やはりどこかファンタジーというか、「今、ここ、私たち」な現代劇のリアリズム感とは違うんだよね。だからこそ、胸が痛いながらも、こんな殺人劇を面白く見られるわけで。
 
昔の人は、こんなふうに歌舞伎を見てたんじゃないかなと思う。現代では歌舞伎の古典って(義経千本桜とか)派手な場面がある段だけをやってる場合が多いんだけど、江戸時代には朝から晩まで1日かけて長編を上演していた。その「通し狂言」のクライマックス場面ってこんな感じだったんじゃないかな。そういう長い積み重ねがあるからこその感動を、いま大河ドラマで味わったような気がする。
 
でも、リアリズムから遠い時代劇だからできる荒唐無稽とか、情緒的なお涙頂戴とかじゃない重みと凄味を持っているのが森下佳子の脚本で、それがまた歌舞伎(や人形浄瑠璃)と通じるエッセンスだよなあと思うわけです。人間や、俗世の、本質的で根源的なところにグイグイ踏み込んでるからこそ衝撃を受ける・・・歌舞伎と並べて論じるにはあまりに浅学な自分が悔しい。
 
もとい。
政次が、「直虎のため」と「井伊のため」が混然一体となった選択をしたのと同じく、直虎も「政次のため」と「井伊のため」を両立させる選択があれだった。直虎と政次、最初で最後の完全な対称形だった。
 
ひとりで地獄に行こうとしていた政次を、直虎は一人で行かせなかった。「地獄へ落ちろ」と言いながら、その所業は「われもいずれそこへゆく」と言っている。これまで政次が引き受けてきた「汚れ仕事」をも、これからは己が引き受けるという領主としての宣言でもある。直虎が手ずから完結させることで「嫌われ政次の一生」は彼を解放したような感さえある。
 
だから、ものすごく残酷で哀しいんだけど、どこか美しさというかカタルシスがある。
 
そして、鋭いもので一気に貫き、突かれた側が恍惚のように微笑むとか、2人にしかわからない言葉のプレイは、やっぱりどこかセックスの隠喩のようでもあって、最高にエロティックだったとも思う。そしてそして、「やっぱりこの2人の場合、政次がSのように見えるけど、ほんとは直虎が攻めで政次が受けだよね、そうだよね・・・・」とか思ってしまってすみませんすみませんすみません。
 
高橋一生のド迫力に恐れ入った。小器用なだけでなく、こんな芝居もできる人だったとは・・・! 堂々たる最期を遂げるって大河役者冥利に尽きるだろうが視聴者にとっても幸せなことです。とにかく、脚本演出もだけど、演者2人のかもしだす緊張感と、一気に放出される熱で息が止まりそうだった。TLでもいわれてたけど、本当に「演目」誕生ですね。

 

 

政次の明鏡止水の顔と、直虎の駄々っ子のような顔とを両方見て、この帰結も見た龍雲丸が、来週どんなふうになっちゃうのか想像つかないな!!!