『おんな城主直虎』 第35話 「蘇りし者たち」

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予告で「今回の目玉」とも思われたようなくちづけのシーンを開始7分くらいであっさりやっちゃうのが心憎いよね。こんなのは枝葉だから、さっさとやっちゃうよ、と。へたなドラマだったら、枝葉にもかかわらず延々と終盤まで引っ張ったりするからね。

今に始まったことじゃないけどとにかく構成がうまい・・・。なにげなく流れていくようで必然性をもったシーン展開にほとほと感心する。

「次郎にできることは私にもできる」 安直な自己犠牲を許さないのは森下脚本らしい。TLを見ていると、自宅で認知症のお母さんの介護(主に排せつ介助など、日々本当に大変な様子をTLでうかがっている)をされているフォロワーさんがこのセリフを見て「私にも誰かそれを言ってほしい! そして介護を代わって」と呟いていて、そうだよなと思った。代わってくれる人がいる次郎は幸いだ。

“龍雲丸への献身的な看病の後”に近藤方の将兵の手当てを頼まれるのがミソだ。「これだけの看病ができるのに、恨みのある近藤は見捨てるのか」と問いかける脚本。「近藤の者など一人残らず野垂れ死んでしまえばいい」という衝動を龍雲丸に「そうだそうだ」と3回繰り返されて、近藤の手当てに赴いた次郎の気持ちがどう動いたのかはハッキリとは描かれない。井伊家の領主として近藤に大きな貸しを作るためだったか、それとも尼僧として、もっといえば人として、苦しむ人々を見捨てることに良心の呵責を覚えたか。

たぶん、後者に近いのだと思う。それは鈴木の子、重好への対応でも描かれる。近藤も鈴木本当は思い出したくもない。できればスルーしたい。でも相対してしまう以上、捨て置くのは良心が痛む。一片なりとも憐れみの思いがある。それが人間というもので、次郎は政次を刺し、政次を失うという非業を経ても人間性を失いはしなかった。

死者を弔う経を聞いて龍雲丸が俗世に戻ってくるのも面白い。

大沢が徳川に降る。強面でいかにもマッチョな大沢が、酒井忠次の残酷な非人間的なやり口に屈するというのが象徴的で、あらためて大沢に嶋田久作をキャスティングしたうまさが光る。

で、そうなると、徳川家としては「一般人見せしめ虐殺大作戦」は功を奏したということになり正当化されるんである。「民まで射殺したそうではないか」という家康のなじりは、忠勝によっても封じられる。戦国の論理、強者の論理である。

せめてもの抵抗とでもいうべきか、家康は極秘のうちに氏真と会談をもち、電撃和睦を結ぶ。いぶかしむ氏真に、「戦に嫌気がさした。自分は戦わなければならないように追い込まれているだけ」と言う。偽らざる本心であり、家康とて戦国の荒波を生き抜くためにもがいている1人とはいえ、そのために(家康の配下の作戦で)民がおおぜい殺されたのも事実だ。

氏真が「国と国との争い事も、蹴鞠で雌雄を決すればよいと思うのだ」と熱心に言いつのったとき、なんか泣けてしまった。舞や蹴鞠にうつつを抜かす氏真は「あほボン」なのか? 戦って多くを殺し、非道な手を使っても勝つ者が、正しく強いのか? この感覚は、直虎と龍雲丸との会話「勝ち負けとは何なのか」にも通じていく。

今作での氏真は、大大名今川を率いていく器には程遠いものの、「蹴鞠で勝負をつけることにしたら、今度は蹴鞠の上手い者を奪い合う争いが起きる」とまで見抜ける人物造形が見事だったと思う。尾上松也が見事だった。彼の代表作誕生といっていいし、当分は氏真の代名詞といってもいいんじゃないでしょうか。

戦国の非情な勝負から降りることで「肩の荷が下りた」と笑う氏真に、このあと正室と仲睦まじく平穏に生き延びていく史実を知っていればこそ、こちらも「よかったねえ」とほのぼのしそうになるが、彼ら夫婦の助命も、気賀をはじめ多くの民百姓の命の犠牲の上にあることを忘れてはならない。・・・・と感じさせる稀有な大河だと思う。

ひとたび戦争が始まれば、終わらせるためには一定の血の量が要る。って、古今東西の法則である。気賀であれだけの血が流れたからこそ、やっと家康(上に立つ者)が「もう戦はいやだ」と思いさだめるのであり、それによって氏真(上に立つ者)は救われるが、気賀で失われた多くの命はもう返らない。

負けた今川で、太守さま夫妻は生き延びる。勝った徳川で、近藤は深手を負い鈴木は戦死して、年端もゆかぬ子どもが後継ぎとして戦場に行く。勝ち負けとは何なのか。

「井伊は大して負けてはいないんじゃないか」と龍雲丸は言う。「しかし但馬を失った」と直虎は言う。

その但馬は皆の中で生きている。亥之助と直久が小石を拾ってきて碁を始めた、というエピソードがいかにも「復興」という感じでそれだけでぐっときていたら、「いわば但馬と但馬が戦っているようなもの」というところで涙腺決壊。一向に勝負がはかどらないと思ったら、この2人はともに但馬の薫陶を受けていて、手筋が同じだからだと。それで井伊谷のみんなが泣いたのだと。

こういうエピソードを作れるところが物語作家の技量だよね。なんかホントに、一昨年とかその前とか、この枠で何を見せられていたのかと・・・)

そのあとに、但馬のモノマネが流行っているというところまで描くのが、森下さんらしい過剰さなんだけど、まさかこのために高橋一生はあんなオーバーな演技をし続けてたわけじゃないでしょうねw 私、生前の政次には(面白いんだけど)もうちょっと正統派な時代劇演技をしてくれてもなー、と思ってたんだけど、このモノマネ大会(違)で「そうか、このための伏線だったのか」と納得しそうになったわよw 

そして、劇中では弥吉が大賞になってたけど、私から見るとダントツうまかったのは山口紗弥加だぞ。よッ、芸達者。

そうやって、但馬が「井伊谷のみんなみんな」の中にしぶとく生き続けるからこそ、龍雲丸の悲しみがまた際立つのだ。いなくなった彼を「かしら、かしら」と探すけど、彼はもう“かしら”ではない、党の仲間はみんな死んでしまったから(そういえば、今川を失う氏真に対しても、家康が「太守様」というシーンがあったな)。

蘇生したあと意外に飄々としてた龍雲丸が、「誰か帰ってきてるかも」と思えばいてもたってもいられなくなって気賀に向かったのが切ない。但馬のことはたくさんの人が覚えている。でも名もなき龍雲党の者たちを、(モノマネをするほど)近しく愛おしく覚えているのは龍雲丸ひとりしかいない。なんて淋しい。柳楽優弥が涙する横顔が美しすぎて、私でよければいつでも口映しますよぉぉぉぉ!!!!という気分になったので、

「そなたが生き残ってくれてよかった」と泣いた直虎は、このあと、人々の死に果てた気賀、もぬけのからになった龍雲党のアジトで、かしらと懇ろになったと解釈していいんでしょうかーーー! 

但馬を失い、気賀の多くの民を失ったけれども、ただ一人かしらが生き残ってくれたおかげで、自分も生きていいのだと思えたのだと。そういうファム・ファタールを確認したわけですですよね直虎と龍雲丸は。寒くて人肌であっためるしかないわけですよね? これはもう待ったなしではありませんか! 

あれ?違う? 朝ドラとか大河って、「お茶の間で子どもも見るものなので、露骨には描写しませんけど、そういうことです、お察し下さい^^」みたいな描写もよくやるからさ。でも、森下さんの場合、「どったんばったん」ぐらいにはハッキリと書くと思うので、来週、そこらへんが明らかになるかどうか期待し見守りましょう。

気賀の民をたくさん死なせてしまった方久が、自暴自棄になってさらなるダークサイドに落ちるのではなく、改心して仏門に入るのでもなく、「武器はもう売りたくないけど新たなる商機発見!」方向に向かったことにびっくらこいた。「カーン(銭の犬の声)」あっての剃髪だったのかw すごい。人間は強い。しぶとい。「再び巨万の富を~~~~!」って必要以上の大声に笑ったわw

掛川城に「入れてしまったのう」と言う家康。桶狭間のあと、岡崎城に入ったときも似たようなことを言ってたよね。時代の奔流にもてあそばれてあっけなく死ぬ人間もいれば、巻き込まれた結果、なんだかいい感じのポジションにおさまる人間もいるのだなあと、このドラマの家康を見ていると感じる。「持ってる人間」「選ばれた人」という感じで描いてあるなあ、と。

でもそれも、気賀のように、大勢の人の犠牲の上なのだ。と、「これからも徳川のためならいくらだって死体を積みますよ」って顔で傍らに控えている酒井忠次を見るとあらためて思った。忠次を演じているみのすけ、悪い奴を演じる時の豊原功補をさらにもっと卑小にした感じで、すばらしい存在感に惚れ惚れする。