『とと姉ちゃん』 第15週 「常子、花山の過去を知る」 ツイートと追記 :ついにどでかいカタルシス
まだまだ終戦直後しかも貧しい人々が暮らす町なかに、あまりにも趣味の良い珈琲店。花山こそ、いったいどこを向いてるんだ?と言いたくなるわけで。でも無意識の直感で「スタアの装い」を作った常子と似たとこがあるのかもね。#とと姉ちゃん
あまりにも趣味の良い珈琲店に常子がおそるおそる入ってきて、ちょっと目を瞠りながら店内を見回し、出てきた花山と緊張しながら話して、すとんと座ってまた立って必死に言葉を重ねて…。高畑充希の長い芝居は一挙手一投足に見ごたえあるなあ。堂々たる唐沢さんとの対峙。 #とと姉ちゃん
今はペンを折っていても、娘のために暮らしを良くしなければとは思っている花山。常子、森田屋、青柳、多田やお竜も、みな守らなければいけないものがあるからこその強さと弱さを持っている。3歳ということは、常子と内務省で会ったときまだ娘は生まれていなかったね。(続く)#とと姉ちゃん
承前)「読者を想像できてない」指摘は、「今ここで珈琲屋って?!」だけでなく、かつて戦争標語作りに携わっていた頃へのブーメランにもなるのかも。娘という、自分が直接的に守らなければならない存在をまだ持っていなかった花山。誰のため、何のための仕事だったのか?って反省に。#とと姉ちゃん
ゆうべも書いたけど、過去を知るのは、振り返る・立ち止まることじゃなく、未来のため。安倍さんは昨夏の談話で過去に区切りをつけたと言いたいだろうけど、政治がそうでも、市民はずーっと先の戦争や近現代史を学ばなきゃいけないと思う。そこにある数々のことが、過ちだったのか不可抗力だったのか?
なので今このタイミングで #とと姉ちゃん が戦争を振り返るのはとても興味深い。何なら「経世済民の男」の高橋是清と小林一三をさくっと再放送してほしいなあ
#とと姉ちゃん で、共感できない・下品・謙虚さがない的な感想をよく見るんだけど、裏返すと「共感」や「上品さ」「謙虚さ」が大事だという内面化があるんだなあとつくづく思う。一見なんの問題もないようだけど、もの言う人に対して、その内容や背景を斟酌せず挙措で忌避するのにも繋がるような。
ドラマの作風や脚本演出に対する嫌悪感が先に立っているとしても、お金持ち妄想シーンに対する不快感が多かったのも、内面化のあらわれだなあと思った。「お金持ちになれるかも」って発想自体が不愉快だという人も。そういう妄想をしない人だからこそ尊敬できるのに、というような。
清貧を尊んでガツガツしたものを嫌う価値観って日本人の普遍な気もするけど、でもやっぱりそれとはなんか違う感じがする。うまくいえないんだけど…。ここ10年か15年くらいでずいぶん階級感覚みたいなものの受容が進んでいるような・・・
常子たちって、いわゆるDQNっぽく見えるところがあるんだろうと思われ、DQNへの忌避感と共に「暮らしの手帖」との食い合わせの悪さで批判されているところが大きいと思うんだけど、脚本演出は少なくともある程度は意図的だと思うんだよね。#とと姉ちゃん
DQN的なものに対するネットの朝ドラ視聴者層の忌避感ってすごく大きいんだよね、その対極にあったのが前作のアッパークラスな人々。育ちが良く品が良く、落ちぶれても心は錦。良い家庭・良い親という生得的なものから得た美徳が尊ばれ、毒親とその子どもは叩きのめされる。現代の厳しさだよなあ。
どこに生まれても同じように教育が受けられ、まっとうに働き暮らしていけるための知識や経験や人間関係が得られる、そんな社会を指向するのが当たり前だったのが、変わってしまったような。毒親やDQNがなぜ生まれるか、その構造を俎上に乗せないといけないけど不快って感情論だけで終わることが多い
上品に謙虚に、人から反感でなく共感を持たれるように。そういう生き方で、小林一三が言った社会の活性化の必須条件、「我欲」を持ち、アウトプットすることはできるんだろうか? 謙虚さや共感や自己責任を大事にする感覚は、むしろ我欲を抑えるために作用しているんじゃないだろうか?
常子はもちろん、花山すら自分たちの「今より良い暮らし」への指向を示したのはすごく説得力あると思ったんだけど(これからの仕事が志のためだけではないというのが)、現代では「今より良い暮らし」という願いすら抱かなくなってるかも。そんなの大それた願いになってるというか(続 #とと姉ちゃん
承前)今より良くなるなんてあるわけない、と若い人すら思ってそうだし、下品で傲慢で叩かれるもの、というような感覚からも、また被災した人や貧困状況にある人々に対する思いからも、上昇指向とか持ちづらい。でもそんな共感や諦めが小さな優しい社会に繋がってるわけじゃなくむしろ同調圧力の強さ
共感や自律心はとても大事だけど、そこに傾きすぎると日本人の性質的に、同調から逃れ得ず萎縮したり逸脱者への排斥を強めたりにもつながる。#真田丸 で「己のさだめを生きる」、#とと姉ちゃん で「それぞれの暮らしの尊重」とどちらも自分本位を打ち出してるのは今を生きる作家の感覚なんだろうな
花山と常子の対峙がいい。緊張感があるのにどこか息が合ってて息苦しくない。雑誌作る前からこんなに面白いなんて、雑誌作り始めたらどうなっちゃうの。楽しみ! #とと姉ちゃん
まだ何の関係もできてない人の、しかも戦争に関わる過去を聞きだすなんて相当な行為で、常子も緊張してる。でも迷いはない。常子の強みだなあ。それがいかにも朝ドラヒロイン的のようで、ちょっと違うと感じられるのは、これまでいろんな人と出会い別れてきた描写が効いてるなあと思う。#とと姉ちゃん
やっぱり共感型ヒロインじゃないんだよね。話を聞いて、我がことのように泣いたり怒ったり一緒にするのが朝ドラヒロインの典型だけど常子は違う。相手(←家族以外ね)と自分との間にくっきり線を引いてる。常子って本当に内と外との境界線がはっきりしてるんだよね #とと姉ちゃん
それが冷たいとか何考えてるかわかんない、共感できないと捉える人もいるようだけど、何かがあってもその線を越えて入ってこないし離れてもいかない、距離を変えないフラットさがあるから、相手は安心して付き合えるんだろうな、とだんだんわかってきた。早乙女も、綾もそうだと思う。#とと姉ちゃん
その姿は、絆や共感を大事にしたり、空気を読んだり(読んだつもりで読み間違えたり、過剰に読みすぎたり)、相手だけじゃなく集団を取り囲む空気までもを自分の言動の判断材料にしたり、「空気を読める人=偉い、読めない=ダメ」みたいな現代の風潮とはまったく異質で、とても新鮮。#とと姉ちゃん
以前も、常子は靴が壊れたことには驚いたけど、どうしましょう恥ずかしいわー的な態度がまるでなかったんだよね。「じゃ裸足で」とパッと判断して撤収。それまでの問答でも、偏屈な男に対して過剰な怖れも媚びも卑屈もなく、素の自分で相対してた。花山の記憶「素足」はそんな象徴 #とと姉ちゃん
それにしても、靴こそ割と揃えるものの「暮らしの手帖モチーフなのに常子ったら大雑把すぎ」的な批判もされてきたけど、ここへきて、「縦横きっちり1mmも揺るがせにせず!」な花山ありきでの常子描写だったのねー、と。#とと姉ちゃん
確かに、すっごく細かいところにまで神経ゆき届かせる編集長だったら、社長は割とゆるいくらいじゃないと下の人間はきっついよなーと思うので、実際の花森―大橋コンビが几帳面さの点でどうだったかは知らんけど、相互が凹凸になってた部分は何かしらあるんだろうなー #とと姉ちゃん
「一銭五厘の命」考が、花森さんの思想でとても大事なものであったのは、TLに流れてきたリンク等で見ていただけに、寺田農がひと息に喋ったのはちょっと意外。まだ何かが残っているということだな。しかしそのときのバックの映像はなかなかインパクトあったな。#とと姉ちゃん
鳥巣商事で「女は産む機械」「代わりならいくらでもいる」的な発言があったけど、男性の方も「一銭五厘の旗」のように誰でもいい道具のように使い捨てられていたんですよね。それが戦時下の体制だったということ。 #とと姉ちゃん
常子の押しの強さが一部でブーイングを受けてるけど、花山伊佐次の場合、踏み込まれたくはないけど、吐き出したくて仕方がないという狭間にいると思うので、常子の図々しさが初めて人の役に立ってる感はあるのよね。破れ鍋に綴じ蓋感というか、花山伊佐次の誘い受けというか。#とと姉ちゃん
そっかー、確かに「ご老人」は現代では言わないもんね。まったく違和感なかったわ。時代考えたら全然失礼な表現じゃないと思うよ。「させていただく」は時代考えたら「え?」ってなるけどw #とと姉ちゃん
標語作りにいそしんだのも、共にいた二等兵の戦友たちが心を占めていたから。落ちた財布を見れば面倒くさい女の家にも届けずにはいられない、傷んだ天井を見れば直さずにはいられない、花山は「言葉」という記号を扱っても、観念ではなく実存に生きる人なんですよね。#とと姉ちゃん
「女の人の役に立つ雑誌を作りたい」その心は本物で、会社辞めて雑誌作る実行力や花山への突撃力があっても、常子から出てくる雑誌はあのボロボロでピントの外れたスタアの装いだもんなあ。そのうえ母思い、娘思いの花山が小橋家まで見ちゃって。そりゃほっとけないね参画しちゃうよね #とと姉ちゃん
絵や言葉の技術が一流でも意外に実存的な花山に比して、思いや行動力はすごいけど技量に乏しい常子ってバディなのかなあ。常子は文学の造詣も編集技能もイマイチで、三大目標を始め観念は強いけど、実際にやるのは歯磨き作りにタイピストそしてスタアの装いといつもイマイチだった #とと姉ちゃん
焼夷弾で具体例が挙げられたのが印象的。この花山の反省は、暮らしの手帖が商品テストに代表される科学的実証主義をとるのにもつながるね。終戦後の昭和天皇が疎開先の皇太子に宛てた手紙で書いた敗戦の理由も、1つは「精神に重きをおきすぎて科学を忘れたことである」だった。#とと姉ちゃん
女の人の役に立つ雑誌を作りたいのも、家族に楽をさせるためたくさんお金を稼ぎたいのもどっちも本物の思いなんだよね。どちらかに偏るのでなく両方やりたい!となるのが、社会システムがめちゃくちゃになってる時代ゆえでもあり、起業家マインドでもあるんだろうなあ。#とと姉ちゃん
#とと姉ちゃん 常子の押しの強い性格とか鞠子の頭の切れるところとかが、時代や環境や自分もしくは相手の状態によって吉と出ることも凶と出ることもあって、その最たるものが「花山のペン」なんだろうなと。性質や才能に良いも悪いも長所も短所も無く全て使い方次第、というフラットなとこがいいな。
手伝ってやる、1回きりだぞ、売れるに決まってる、と超俺様でサポート気分全開な花山さんですが、やってみると超俺様で徹底的にこだわり抜き、あげくいつのまにか真ん中で自らペンを握ってるんでしょうねわかります(笑) #とと姉ちゃん
「女の人の役に立つ雑誌」って言い方が覆い隠してたけど、暮らしに不自由してるのは常子も同じ。当事者なんだよね。#とと姉ちゃん として養ってもいる。花山は、常子の志の背後にある小橋家の暮らしを見て、その背後に自分の妻子そして世の女性たちの暮らしを感じて、常子の志を捉え直したんだろう
ああいう暮らしの中で作られたと思えば、「スタアの装い」を見る目も少し変わっただろうな。読者層がどうのとか用紙が型紙がとか、いろいろ粗はあるけど、常子たちが「世の女性」の当事者としてあれを素敵だと思ったのは事実だし、一番手だったときは飛ぶように売れたのも事実。#とと姉ちゃん
違和感嫌悪感が物事を曲解させるんだなーとよくわかる。数か月にわたって曲解に次ぐ曲解を積み重ねてきてるから、そりゃ今やどんな描写がきても納得できないよねっていう。いいんだよー個人の自由だから。個人的にはそうやって時間と労力費やして何を得るのかな?と思うけど。人生は短い。
花山は情にほだされて承諾したのかな? 常子は金儲けのためだけに雑誌を作りたがってるのかな? 私にはかなり明快な脚本演出に見えたけど、その辺の解釈は結構わかれてるんだね。あと立ち戻って、お金を稼ぐための雑誌作りは不純? またそのために退職するのは恩知らずなのかな? #とと姉ちゃん
とことん実存の人だなあ、花山。ダメだしもいちいち具体的。「帰る」も言葉だけじゃなくて具体的なポーズをとらずにはいられないのねw #とと姉ちゃん
何から何まで手を入れたようで、洋服という題材そしてタイトル「スタアの装い」には不可侵なのが、三姉妹(+鉄郎)のセンスの良さを表しているようでもあり、けちょんけちょん言っても人の根っこは尊重する花山の人間性を表しているようでもあり。鉄郎どこかで第2号見つけるといいな #とと姉ちゃん
花山の小橋家の評、よかったなあ。彼女たちのフラットな関係を把握しつつ、母親の君子が与えたものの大きさを語る。花山自身も、生活は苦しかったとのことだけども、絵や文章やめんどくさい性格・・・ありあまる個性や才能を潰されずに、のびのびと育てられたんだろうなあ、母親に。#とと姉ちゃん
創作作品において、芸術的才能に恵まれた人は現実関係にはめっきり疎いような描写をされることも多いけど、花山はとことん実存の人・具体的な人だから、人物の評価も的確なのだなあ。#とと姉ちゃん
逆に意図的にモヤッとザラッとされるのが純愛、まれ、とと姉だけど、そうすると視聴者には「嫌な感情」だけが残って蓄積されていくから、作品の印象も悪くなる。今の時代では「感情コントロール」的には失敗ということになっちゃうのかも。
RT ふむふむ。感情コントロールね。気を遣ってるよね、作り手。ドラマ作品への肯定的な感想として「不快感がない」てものすごく良く見るもんね。だから逆に不快感を与えるものは意図的にそうしてるものもあるんだよね。
ヘイトが高まって「叩いていい存在」という共通認識ができて袋叩きになだれこむ…っていう流れは非常に感じるなあ。昨日話した友人(朝ドラを見てるわけじゃない)は、この風潮を「逆スタンディングオベーション」と言っていた。
作品について「不愉快・理解できない・嫌い」っていうのは個人の感想として普通としても、それが「作者は欠陥人間」「反省しろ」と言いながら見続けるっていうのはヘイトの高まり・連帯感による現象だなあと思う。自分が多数派(少なくとも少数意見ではない)と思うから出てくる言葉なんだよね
自分がその作品を嫌いでも、それは多種多様な中の一意見であって、作品を好きな人もいる、楽しんで見ている人もいると思えば、作品を「誤り」と断じて作り手の反省を促したり、作り手の人格を疑ったりはしないと思うんだよね。
負のラベリングがエスカレートしていく現象は外から見ていると異様なんだけど、人を陶酔させるものがあるんだろうなとも思う。戦意高揚して戦争になだれ込むのもこういう感じなんだろうなと。そういうのに巻き込まれ流されないこと、流れを堰き止めようとすることが大事な時代だなと思う
で、とかく同調性の強い日本人ですから、流されないために大事なのが「自分本位」なんだろうなと、奇しくも、#とと姉ちゃん でも #真田丸 (己のさだめを生きよ!by おばば様)でもそれをやってるなと思う。絆じゃなくて、共感じゃなくて、己を持つってこと。
花山さんが指摘した常子の雑誌の問題点。これまでtwitterのとと姉ちゃんハッシュタグのツイートを見ても指摘されていなかったことが多かった。素人ができる批判には限界があり、プロでしか気づけない問題点というものはたくさんあるのだということを改めて痛感させられる。#とと姉ちゃん
いやいや、たとえばあの絵はダメだって多くの人が指摘してたよと思う人も多いと思う。しかし、それはパッとしない、プロの雑誌っぽくない、同人臭いぐらいの印象論で、なぜあの絵がダメに見えるのかという技術的な話ではなかった。 URL #とと姉ちゃん
#とと姉ちゃん 下着!わわわ!わかる!私、初めて和服を着ようとしたした時、独力でいろいろ調べて「長襦袢のことがよく分からない!どのくらいのレベルの価格のものをどうやって買えば?誰か!教えて!」って思った。和服や帯の情報は溢れているのに!って。
#とと姉ちゃん 常子たちも買い手の視点で欲されているものを考えに考えて「スタアの装ひ」を作ったけど、真のニーズ、金を払うに足る情報はその半歩先、買い手自身すら未自覚な領域にある。一目見て「それが知りたかった!」と膝を打つような。花山氏はその領域までを見る、鳥の目線の人。
花山さんを大工だと間違ったり常子への縁談を常子を縛っていると勘違いして家出したり早とちりな君子の性格は、よくすると口頭説明だけで鳥居とわかったり常子がやりたいならやってみなさいという理解力の早さという美徳になるのね〜。花山さんによるこういう反転の仕方面白かった。 #とと姉ちゃん
RTs 今回、第1号へのダメ出し(内容&ダメ出しの仕方)といい、花山の人物評といい、面白いだけじゃなく何だかとても鮮やかな回だったなあと。しかし花山が再び「ペンを握る」までにはまだ何かがあるのよね #とと姉ちゃん
大金持ちになれるかもとはいうものの、金歯(金に苦労しない象徴)になるぐらいで「あまり良いの出てこなかった…」な常子。家族(特に母)に楽をさせたいだけで、大金をもって自分が何をしたいというのはないんだよね。女性の役に立つ雑誌を作りたい意志のほうがはるかに凌駕する。#とと姉ちゃん
父との暮らし、父を失った後の生活、早乙女や多田の生き方、森田屋や青柳の終焉、戦争、お竜に綾…。駆け抜けてきた常子が花山に共鳴するのがわかる。どんな人のどんな暮らしも大事。自分とは違う様々な人の様々な暮らし、それを失う絶望の淵まで見てきたからこそ。#とと姉ちゃん
闇市シーンもそうだったけど、こういう焼け跡のあばら家でのいきいきした人々の暮らしの描き方が本当に巧いなあ。それこそが人間にとって一番大切なものだというお話なのだよね。#とと姉ちゃん
「焼け跡から始まる」のはセオリーだけど、ダイレクトに胸に迫るものがあったなあ。花山も常子も焼け跡の住人ではないけど、思いはそこにあるんだよね。多くを失くした人々の何もない中での暮らしを少しでも豊かに、役に立つように、もう間違えないように。それが原点なんだね #とと姉ちゃん
常子がずっと「人の役に立つこと」「収入が得られること」をしたいという二本立てできたのは、実際にペンを握り雑誌を作るのは花山の役だからなんだ。常子の「出来ますよ、私となら!」は「私ならあなたの作りたいものを作らせます」という宣言なのね。 #とと姉ちゃん
常子の、自信はあると言っておきながら「根拠はない」と言い切るところが良かったな。大抵の場合、「自信」に「根拠」なんかないんだよね。根拠があって自信になるんじゃなくて、根拠のない自信が実績を作り上げちゃう。
RT 根拠が無くてもできそうな気がする時って、人生に何度か来る気がする。私はそうだったな(笑)。直感って侮れないものだ。そして、その直感に突き動かされた時って、なんとか成し遂げてしまうものだ。 #とと姉ちゃん
戦争が終わっても、復興の旗印の下に名もなき人々がまた集団の論理の犠牲になろうとしている、そこで常子の「間違えないようにしませんか」。進んでいく世の中、悔いるだけで何もしないのはまた集団につく=間違えるのと同じ。無根拠に「できる」と信じられる強さが花山には必要だった #とと姉ちゃん
現代も仕事やプライド、人によっては国などを、暮らしを犠牲にしても守らねばならないものと思い込まされている人が多くいて、特に家父長制の名残で男性への圧力は大きい。比較的圧力のない女性が暮らしを何より大切にするのは女性ならではではなく、人間として当然の視線なのでは。 #とと姉ちゃん
花山が大人として荷担した戦争と、その犠牲から得た個を大切にする視線を、若い常子が持ちうるには、対等なとと、押しつけず見守る天然のかか、マイペースで図太くチャレンジングな生まれ持った性質が必要だったんだよね。ちょっとでも筆を間違えば、そういうものが嫌悪されるのが現状なんだろうなぁ。
#とと姉ちゃん 人々の平凡な暮らし以上に守るべき価値のあるものなんかない、は、「誰の人生も等しく尊い」だと思う。優しくてシンプルだけど、孤独で怖いことでもある。誰もが尊いと思うことは、結局、特定の党派に寄れないということだから。
全てはこの時の為に。震えが来るようなバディ誕生回だった。丁寧な暮らしも、うるさい暮らしも、一人の暮らしも(早乙女さん)、大家族の暮らしも、皆大切なそれぞれの暮らし。混沌としたバラックから、それら全ての大切な暮らしがより豊かになる事を求めて、新雑誌が立ち上がる。 #とと姉ちゃん
#とと姉ちゃん は、「より豊かになりたい」という普遍的な願いを否定しないで書き続けていた。今日、バディ誕生の記念すべき回に、その「より豊かになりたい」という願いの陰で犠牲になる人達が初めて書かれた。これは高度成長期までやらないと終われない話だ。どう収集するのか改めて楽しみ。
とと姉ちゃん 達は結局男性に救われている、て感想をいつしか読んで疑問に思っていた。なるほど『あさが来た』から抜け出せない視聴者は違和感を覚えるかもしれない。でも、#とと姉ちゃん の話の筋は「常子」という名前に込められてる。当たり前な暮らし、当たり前な日常がこの話の大きな柱だ。
女性が活躍し、自立してく話じゃないんだよ。暮らしを丁寧に過ごす、ていう考えを根っこから理解していたのは女性だった。本当は性別に関わらず(ととや、花山さんのように) 大事にしなければならないものなのに。それを生まれつき理解し、実行してきた女性は、原始太陽だった。#とと姉ちゃん
まるで男性を支えるためにしているとされた女性の仕事(家事)は、人として大事な行為だった、と言い切っていいのかもしれない。それに自覚的になれない女性は月になってしまう。でも違うんだよ、て気づかせてくれたのは平塚らいてふ。そして次の時代を築いていく常子。という流れか。#とと姉ちゃん
ついにやってきたカタルシスの大きさよ。常子は花山を求め、花山も常子を求めたのだと思う。常子だから再び踏み出すことができた。年齢もキャリアも違いすぎる、しかも異性の2人の、このバディ感!
もうちょっと早く花山と出会って組んで・・・って意見。うーん、でもここまで見てきたから、あの常子が奇才・花山と出会って、こんなふうに強い瞳・強い表情で説得して「常子さん」になるなんて!っていう万感があったように思う。いろいろな出会いがありいろいろな別れがあった、でもまたここで出会い(再会し)、始まる。この焼け野原跡のバラックが2人の原点。
常子と花山との対峙にとにかく迫力があって、だから高畑充希の・だから唐沢寿明のキャスティングなんだなーと。充希ちゃんの演技力は知っていてなお、「唐沢寿明とバディって、そりゃいくらなんでも年の差ありすぎでは?」とキャスティング時から思っていたものですが、唐沢相手に一歩も引かない堂々たる高畑充希の演技に感嘆。なんという女優さんでしょう。唐沢さんがインタビューで「演技も歌もうまくて、絶対的な自信を持っている」と答えていたのもわかります。若い娘さんの、その実力に見合った自負心が心地よく、常子にぴったりだと思います。
そして唐沢寿明ってやっぱり魅力的な俳優ですね。スターというのとはちょっと違うけど、すごい存在感だなあ。大工の場面といい第1号へのダメ出しといい、小橋家の女たちとの相性もまったく問題ないどころか楽しくてびっくりした。常子と五反田のサシ飲みとか、花山と五反田のサシ飲みとか、「このドラマはキャラ萌えを誘発しない」って思ってたのにめっちゃ萌えるじゃないですかー