『昔話は残酷か』 野村ヒロシ (感想)

 

昔話は残酷か―グリム昔話をめぐって

昔話は残酷か―グリム昔話をめぐって

 

 

『昔話は残酷か』 野村ヒロシ (まとめ1) - moonshine

『昔話は残酷か』 野村ヒロシ (まとめ2) - moonshine

 

どの論も明快で「なるほど!」と思わされます。目の前の霧が晴れたような気持ち!


実際には、「子どもの視点から」というのも必要なのかな、と思います。私の息子は割と怖がりで、絵本を怖がったり、悪い敵・怖い敵が出てくるような子ども番組も嫌がったり。振り返れば私自身も相当な怖がりでした。保育園の「夕涼み会」では肝試し的にお化け(もちろん中身は先生)が出てくるのが恒例でしたが、年少・年中のころ、クラスで一番泣いていたのは自分だったと子ども心に記憶しています(笑)。


昔話の残酷さが子どもに害を与えることはないと確信はできるけれど、実際に怖がる子どもに対して無理に聞かせ続ける必要はないのかな、と。怖がる子どもには怖がる理由が必ずあるわけです、もちろん子どもが言葉でその理由を説明することはできないけれど。


残酷な場面を怖がる子どもは、抽象化・簡略化された「狼がぱくりとのみこみました」の一文だけでも、のみこまれる瞬間の恐怖や痛み、親のいる安全な家の恋しさ・・などを具体的に想像していたりするんだと思います。私が多分、そうでした。そして、小さい子どもは現実とお話との区別をまだうまくつけることができない。


息子が『ねないこだれだ』をゴミ箱に捨てていたのも、「怖い絵本がそばにあれば、そこから怖いお化けが出てくるかもしれない、絵本に触ったとたんにお化けにつかまっちゃうかもしれない」と思ったのではないでしょうか、その気持ちはよくわかります。


そういえば今書いていて思い出しましたが、私が小学生のころ、原爆の後遺症に苦しむ方への寄付にあてるため、年に一度、学校でエンピツを買っていたのですよね。そのエンピツには「ヒロシマナガサキの心を世界に」と刻んであるんですけど、私、かなり学年が上がるまで、そのエンピツが使えなかったのです。小学校に上がって始まった平和教育が私にとっては怖くて怖くて、ただ原爆に関する文字(それは記号そのものですよね)が刻まれただけのエンピツすら触ることができなかった。

 

・・・そんな私も、やがて自ら「きけ、わだつみの声」を読んだり、「シンドラーのリスト」を見たりするようになりました。ちなみに高校時代です。長い怖がり期間でありました(笑)。


閑話休題。何をどこまでどんなふうに想像するか? その感性は子どもそれぞれで正解はありません。怖がるのならば、引っ込めていい。「お話だから大丈夫だよ」と安心させる。けれど怖がって目を覆った手の指をそーっと開いて、その隙間から怖いものを見ようとするような姿があれば、少しずつ見せてあげるのは、きっとその子にとって刺激的な体験になるんでしょうね。


その一方で、「お話」の中で主人公のピンチにハラハラドキドキしたり、怖いものと対決する体験もやはり子どもには大事なのだろうと思います。子どもは「主人公と一体化して」お話を聞くもの。「物語の中に入り込んでしまっているような・・・」と梶田さんもしみじみと語っていました。


お話をフィクション(虚構)だと冷静に眺めることのできる大人と違って、現実とお話との境目がまだハッキリしない子どもだからこそ、まるで自分が本当に主人公になったように、物語の世界に入ってしまったように、冒険や、対決や不思議なできごとを、自分の疑似体験にできるんでしょう。怖くても、それを聞かせてくれる大人がそばについていてくれるのも、絵本やお話の良いところですよね。


怖いけど、知りたいのか? 怖くて近寄りたくもないのか? 聞いてしまったけれどやっぱり怖いからそばにいて安心させてほしいのか? 子どもによって違っても、みんな素直に反応するはず。お話に限らずどんな場面でもそうであるように、子どもをよーく見ることが大事なんでしょうね。